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#お金のあつめ方 で大言壮語をいうつもりはありません

以前、「企画は基本的に自己満足だ」って記事を書いた。そもそも自己満足って意味を「自分の感性を大切にする」と定義した上で、この世の中で立ち上がっている企画はすべて自己満足だと述べた。

正直、その意見を変えるつもりは”今のところ”ない。人が自分にやさしくなるためには「自分が何を感じていて、それをどう行動に移しているのか」を、きちんと認識する必要があると思っている。

それをするために「常日頃から自分の考えや行動について深く考察しろ」なんて偉そうに述べるつもりは毛頭ないが、自分がなぜそう考えたのかについての下地を探るぐらいはした方がいいと思ってる。

なぜ、ぼくはコーヒーを飲むのか

たとえば、ぼくはコーヒーが大好きなのだけど「コーヒーを飲むことに何を求めているのか」を考えてみると、ただ「カフェインが欲しいから」とか「豆の匂いが…」なんて具合に”通ぶったり”するのが目的ではなくて、「コーヒーを飲めるだけの余裕をつくっているのか自覚する」のが大きな目的なのだと気付いた。

だからと言って、味や風味がなんでもいいのかといえば、そんなことはない。せっかく時間をつくってまでコーヒーを飲もうと思っているのに、飲んで後悔するようなものを望んでまで飲もうとは思わない。

先日、子どもたちを連れて訪問した動物園で頼んだコーヒーは、その壮大な景色に、まるでそぐわないほどにうっっっっっすいものだったため、240円を大きく損失したと感じてしまったほどだ。

通ぶりたいとは思わないし、飲んで後悔したいとも思わないのだけど、それは大きな目的の中で添えられるものであり、それを目的にコーヒーは飲まない。

あくまでも「自分の時間管理が適切か」をコーヒーを飲む時間を確保するよう、自身へ働きかけていく意識を大切にしており、そのご褒美的なものとしてコーヒーを啜るのだ。

こんな風に「コーヒーを飲む」なんて、何気ない行動ひとつとっても、自分の行為や行動について考える機会になるし、それ以外の何気なくやっている行為・行動・言動の下地や素地について考えてみるのは、実はものすごく大切だと思っている。

大言壮語は大好きだけど

ぼく自身、大きな希望や聞いていて思わず聞き惚れてしまうようなビジョンを耳にするのは大好きだ。

どのぐらいに好きなのかと言ったら、どこかで聞いた大言壮語を「それを知らないであろう」異なる場所で、さも自分が思いついたかのように語り、越に浸ったことがあるぐらいに好きだ。後々にそれが他人が述べていたのだとバレた際には大変恥ずかしい思いをした。

それはいいとして、大言壮語をいう自分が「なぜ、それをいうのか」を耳触りのいい言葉で装飾するのではなく、どうしてそうなって欲しいのか、そうしたいのか、そうしたいと思っている下地や素地は何なのかを考えておくのは自分を大切にする行為だと思っている。

これを怠っている人が語るビジョン・理想は、どこか耳障りだけがよく、響いてこない。つまりはウソを聞いてるかのような、どこか煮えきらない気持ち悪さを覚えてしまう。

世の中に対して大言壮語を投げかける以上、自分の言葉に対しての責任、つまりは自分理解度が高く、それをどこまで実現できるのかを確信的に保持しているかどうかが必要。

それなのにもかかわらず、下心丸出しの「かっこいいから」とか「時代にあってそうだから」みたいな軽い考えから吐かれる大言壮語には、言霊が乗らない。そこに他人のGhostを囁かせて、動かすだけの力は持ち得ない。

Ghost(ゴースト)
攻殻機動隊の中で語られる、あらゆる生命・物理・複雑系現象に内在する霊的な属性、現象、構造の総称であり、包括的な概念である。作中においては主に人間が本来的に持つ自我や意識、霊性を指して用いている。

大言壮語を発信するのであれば、自分自身を大切にし、自分自身がどうしたいのか。どうしてそうしたいのか。そうなった先の自分に何を期待しているのか。それらをきちんと考えられる人間の方が、よほど信頼に足る。

「信頼」は本能的・感情的な発露だから、本能的に好意を抱ける対象になれないってのは、嫌われるのよりも難しい。

本能的に好まれないのであれば、客観的な指標で好まれるとは言わないまでも、せめて認めてもらえるぐらいにはなろうと思うと「信用」が必要になる。

信用は、第三者的で客観的な”指標”をクリアできたものにだけ与えられるもので、行ってしまえば誰にでもチャンスがある。行為や行動の繰り返しによって、他者からの評価を得られれば、それで「信用」の構築が可能だからだ。

もちろん、どちらもあった方がいいし、ぼく自身はどちらもあって欲しいと願う。毎晩、寝る前に「起きたら大きな信頼と信用が得られますように」と願ってばかりいる。それぐらい望んでいるのだ。

新潟のためにってぼくはいうのだけど

「新潟を前向きで許容度の高いエリアに」なんてぼくがいうのだけど、それを言ってぼくに何の得があるのかといえば、はっきり言ってない。あるわけがない。みる人からしたら、ただの妄言であり、虚言だ

むしろ、「あいつは大したこともできないくせに、そんなことを言って…」なんて具合にため息を吐かれているかもしれない。

それでもいいのだ。

ぼくは、過去に不登校だった時期があるし、最近、人生で初めて入院をし、そこでどうやらストレス耐性が低いのがわかり、結果として、自身がADHDなのだと診断がついたから、これまでの人生について随分と腹落ちした。

ぼくはそんな風なぼくでも、大言壮語みたいな見栄を張って、背中を押しあえるような”空気”をつくりたい。

それはぼくが会社を立ち上げるとか、その会社を大きくしたいとか、その中で社員たちがドンドンと事業を立ち上げて行って…みたいな姿はまったく、本当にまったく想像もできないし、想像したくもない。それをぼく自身はまったく望んでいない。

むしろ逆だ。

個人間のつながりで、仲間が増えたり、同志みたいな人が増えたり、もっと言っちゃえば「知り合い」が増え続ければ、自分を認知する人の母数が増える。その中には気が合う人も合わない人もいるだろう。だけど、一度つながった以上、どこかで、何かしらで思い出すだろうし、思い出すきっかけができる。

ぼくがつくりたいのは、ひろくて浅い関係

互いに深入りしすぎないけど、その人がやってる内容や履歴を見て「信用」が生まれて、その人の発する言葉から「信頼」が育まれていき、互いに背中を押しあえる。

ハンディを背負っている人を「ハンディを背負っている人」として扱わないけど、尊重や尊敬が自然と生まれる空気

そんな中で暮らしたいし、自分の子どもたちに暮らして欲しい。

だから、ぼくの「できる範囲」からしたら大言壮語なのかもしれないけど、これからも「新潟のために」って言い続けながら活動していきたいし、その中でたくさんの仲間に会いたい。仲間たちと一緒になって「企画」し続けたい。

そんな気持ちを下地にしたのが、11/29に企画した #お金のあつめ方 だ。

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