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意思の表明、というお話

今回、クラウドファンディングを通して感じていることが一つ。

(クラウドファンディングをしている理由は以下のリンク記事)


いや、二つ。
うん、三つ...

それは、どんなに他人から見たら小さな行動でも、今回企画しているクラウドファンディングに関わる情報を少しでも誰かに働きかけてくれる様子を見ることができるのは本当に嬉しいということです。

正直、ここまで自分の認識が変わるとは思っていませんでした。

Facebookで「いいね」や「シェア」をすること、Twitterで「RT」や「ふぁぼる(いまは「いいね」)」こと。

これらをこれまでのぼくは少しナメてました。ナメていたというよりもバカにしていたという方が近いかもしれません。それらを扱う上での大胆さと慎重さに欠けていたとでもいうような。

いや、すいません。「大胆さと慎重さに欠けていた」って相変わらず自分でも意味わかんない。

まず、ぼく自身が投稿した内容に対し、何かしらの反応をしてくださる方がこんなにもいるのかという点については素直に嬉しいです。

もちろん、今回のイベントがなければ、ぼくのつぶやきや投稿は何の注目もされずにただただ埋もれていくだけの内容なのかもしれません。

それでも、反応をしてくれる方々が皆無だったことはないですし、それが嬉しいと感じていたこともまた事実です。ただ、その「質」を見る目が圧倒的に変化しました。

クラウドファンディングを公開し、期間を区切り、募集している現状の中で少しでも多くの方々に情報を届けたいと考えており、さらに言えば多くの方に参加してもらいたいと真剣に考えています。

参加するとは、決して現地でイベントに参加するという一つの方法だけを指しているのではありません。それ以上に、このワクワクとした雰囲気を味わっていただきたい。

参加するという意味でいえば、イベントに関連した投稿に対し「いいね」することや「RT」することも立派な参加だとぼくは認識しています。

そこには意思が内在している、つまり中に入ってしまっているから。

「いいね」や「シェア」を押した時点で立派な当事者です。

少なからず「反応をした」から気にかけてしまうのではないでしょうか。しかし、気にはかけるかもしれませんが、もちろん忘れてしまいます

でも、忘れてしまうことを忘れてしまうぐらいに情報が流通すれば、それが前提になり得ます。

「赤いラベルの貼られたペットボトルに入った黒い液体」がコカコーラだと認識するのと同じぐらい目に入れられるようにすれば、その情報は流通していると言えるのかもしれません。

その情報流通を作るのは人の意思であり、小さな「RT」や「シェア」がその流れを作ることだって、というかむしろ大いにあります。

だから、どんなに小さく、軽い気持ちだったとしても、その「共有」が、のちに大きなうねりを作り出すためのきっかけだったということだって十分にありえるということです。

だから共有することは「意思の表明」だと捉えています。

どんなに些細な事をシェアしたつもりでも、それをみた他人は何かしらの意図を感じ取ります。そこに感情が乗っていようがいまいが、関係なく受け取ってしまう。

さらに、そこへ言葉が乗せられると拍車がかかり「伝える」という行為にまで及びます。

どういうことかというと、ただ単にシェアをしたとしても、他人には何かしらの意図が感じられますが、それ以上に言葉を追加すると、その伝わり方が明確に強くなり、結果的に「伝える」ことが容易になります。

だから、今後、ぼくは気持ちが乗った時にはきちんとコメントをつけた投稿をしていこうと思えているわけです。そして、そうやって手間をかけてコメントをしてくれる人を大切にしたいとも思うわけです。

それが批判的なものであったとしても、コメントというひと手間もふた手間もかかる手段を選択してくれる人がいるから。

ぼくが目指すのはコミュニティのきっかけづくりです。

なんとなく同じような属性というか、興味関心というか、こう「ベジータが欲しい」みたいな感じで。

そんな風に年齢とか背景とか関係なく、ただ、同じ関心のもとに人の集まる場所が作れたことは本当に喜ばしく感じますし、その場をいろんなきっかけをもとに生み出していければ...なんていう風にも思うわけです。

昨日、起ちあげから4日でサポーティングチームのメンバー数が100名を超えました。色々な人が溢れるように出てきて(入ってきて)くれます。

さ、あなたもどうですか?


最後までお読みいただき、本当にありがとうございます。 お読みいただき、それについてコメントつきで各SNSへ投稿していただけたら即座に反応の上でお礼を申し上げます!