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家事や育児を外注することに対して後ろめたさなんて感じる必要はない

自宅が事務所としていたり、自宅でのリモートワークなどを行なっている方などを除き、通勤が必要な組織に所属している方は、自宅で過ごす時間は決して多くはないかもしれませんが、短い時間の中でも取り組まなければならない家事に対しての時間的な割合は決して低くはないでしょう。

家事は作業のサイクルセットの繰り返し

洗濯は「洗い⇒濯ぎ⇒脱水」のサイクルを行うことがワンセットになっており、それが行われいる時間、肉体的な意味での拘束よりも、精神的に拘束される方が強いように感じています。

選択の場合は、乾燥まで一気通貫で行えば、洗濯機の中に放り込んだ上で洗剤を加え、終わるのを待てばいいだけなのですが、終わったとしても洗濯したものを片付ける作業はどうしても生じてきます。

洗い物や掃除についても同様で、確実に行われなければならない作業が生じるのは避けられません。

とはいえ、いまの時代ともなれば、掃除機はルンバをはじめとした自動掃除ロボットが地図を描きながら、学習を繰り返してドンドン賢くなっていき、床掃除の効率化を図れるようになります。

そして、ただ床のゴミを取り込むだけではなく、水拭きをしてくれるロボットもありますから、いつでも床が快適な状態に保てるのです。便利ですよね。

洗い物についても、食洗機を導入すれば「予洗いすら不要」のため、食器を食洗機の中に放り込んでは、洗い終わって乾燥するまで放ったらかしで問題ありません。

先に触れた洗濯もそうですが、一度の操作によって一挙に作業がほぼ現実的に終わらせられます。この10年の間に技術的には家事の時間を節約できる時代となっており、それまでかけていた生活時間の家事割合が大きく削減できるようになっています。

それでも、ぼくたちはなぜか「家事からの精神的な束縛」を逃れられません。

どうしてなのでしょう。

時間削減に自動化・機械化は必須

たしかに随分と家事は楽になりました。風呂桶で洗剤を用いてゴシゴシと洗わなくてもいいわけですし、自宅内で食洗機を導入することが叶った我が家でもそうですが、明らかに生活が「楽」になりましたし、その時間を削減できた喜びは本当にとても大きなモノです。

言い方を変えれば、「幸福感が高まった」とも言えますし、それを実感してもいます。

これまで「家事を行うための時間を他の時間に当てたい」と思っていた通りに時間を過ごせるのは、とても嬉しいモノですし、実現できた際のコストパフォーマンスは非常に高いのです。

しかし、「自分」や「自分たち」が「行われなければならない」と思っている以上、その精神的な束縛からは「逃れられないだろうな」とも考えています。

家事を外注するサービスをはじめ、子どもたちの面倒を見てもらうのも外注できる時代ですから、外注をすればぼくや妻の「時間」は確保されますし、それをお金を払って「時間」を購入するのは決して非難されるモノではありません。

事実として幼稚園や保育園には外注している

案外勘違いされがちなのが、子どもたちを「保育園や幼稚園に預ける」ってのも、自分の時間を「仕事」に当てるために選んで行う外注なはずで、本来的に言えば「自分でできるはず」の「子どもの面倒を見る時間」を他者(保育園や幼稚園の保育士や幼児教諭)に依頼しているわけです。

「いや、それは身銭を稼ぐために行うモノであって…」という意見があるのも理解できますが、それはあくまでも主観的で感情を含めた意見であり、事実としては「子育て」を「外注」しているのです。

事実を見たからと言って、そこから子育ての時間を外注することに対して精神的な敷居が安易に下がるとは言えませんが、機械に任せるのに対しては敷居が低く、金銭を払うのを躊躇わないのに、人に対して支払うのは躊躇ってしまう…なんて点に、日本の未来を見ているような気もします。

別に「人に対して率先して無駄なお金を支払いましょう」とは言いませんが、機械に置き換えにくい部分は、今後5年、10年の中で人が仕事をする余地が残されている分野でもあります。

つまりもう少し他者に「任せて」みて、「自分」もしくは「自分たち」の時間を大切にしてもいいのではないでしょうか。

「自分」や「自分たち」がやらなければならないこと

自分たちがやらなければならないのは、「自分たちの幸福感を高めること」であり、「精神的な束縛を喜んで受け入れること」ではありません。精神的な束縛や拘束を受け続けることが幸福感につながるわけではない上に、それを他人にまで求めることをしてはいけません。

自分の幸せは、誰でもない自分だけのものであり、家族の幸せは家族のものです。

それを高めるために行っている行為や作業の中に「家事」や「育児」が入っているのであれば、それはそれでいい。まったく問題ない。だからといって、他者に対して依頼をかけることを非難していい理由にはなりません。

ぼくの家族は「妻」と「子ども」たちまでです。ちょっと広くするとしても、子どもたちのパートナーやその子どもたちぐらいまでであり、自分の親世代は家族を持っているぼくの立場としては、すでに家族ではないとも言えます。言い方を変えれば「生活単位」とも言えるかも知れません。

そうする理由は「選べるか否か」であり、妻とぼくは互いに結婚するかどうかを選べますし、子どもたちとの生活を送ることも選べます。しかし、子は親を選べません。

だから、子どもたちがそれぞれの家庭を持った場合、即刻、ぼくは彼らの家族ではなくなります。血が繋がっているからと言って、何でもかんでも口を出していいわけでも、手を出していいわけでもありません。

「家族」の定義をきちんと持つ

先に触れた育児の外注についても、いっそのこと専門的に「仕事」として取り組んでいる人に外注をしたほうが、よっぽど信頼を置けるのではないでしょうか。

家事や育児を外注することに対しての後ろめたさなんて、一切感じる必要はないし、むしろ、親に頼むことの方が実は敷居が高いんだと思っています。

ただ、血が繋がっているからといって、家族なのかと言えばそうではないでしょうし、血がつながっていないからと言って、家族になれないのかと言えば、そんなこともないでしょう。

だからこそ、家族の定義を持つことで、揺らぎをなくせるし、血の繋がりマウンティングみたいな態度を許すこともなくなります。

大事なのは、「自分」であり、「自分たち(家族)」です。


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