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若者が選挙に行かないのは実感がないからで合理的な判断だ

唐突ですが、選挙に行けるようになって15年経ち、すでにベテラン領域のぼくだからこそ書ける「若者が選挙に行かない理由」を書いてみたいと思います。......すいません。ぼくは年齢が35歳なので、20歳から選挙に行けるようになったのを振り返ると15年です。もう、ホント、それだけです。だからといって被選挙権を行使したこともありませんから、ただの市民です。本当にごめんなさい。それでも、ぼくは歴とした「中年」というだけあり、中途半端な年齢だからこそ若い人たちが「なぜ選挙に行かないのかを」考えてみると、「こうなんじゃないか」と思うことが無きにしろあらずではあります。

若者は何をいわれても選挙には行かない

振り返ってみると、ぼくが生きてきた35年、「選挙」と聞いて最も大きかった出来事は2009年の民主党政権誕生だと思っています。ぼくの少年期には自由民主党が仕掛けた社会党中心の大連立なんかもありましたが、擁立された村山元首相の談話が後々にまで尾を引くような形になったのは聞き及んでいるものの、政権を単独政党で掌握したわけではありませんでした。今後、政権交代を目の当たりにする機会があるのかどうかは分かりませんが、2005年に選挙権を得て政治参加した身からすると、2009年の政権交代が明らかに自分ごとと認識できていたのと、実際に政権が変わる事実に興奮したのを覚えています。

ただ、現代の若者たちは中途半端な形で引き下げられた成人年齢で与えられた選挙権を行使する人たちも決して多くはありません。最新の選挙データをみれば、平成29年に行われた衆議院議員総選挙における投票率は10歳代が40.49%でなんとか投票率が4割だったものの、20歳代になると途端に投票率が下がり33.85%と、間もなく3割を割り込んでしまいかねない数字にまでなっています。逆に年齢が上がるほどに、投票率が高くなっているため、悪くいえば政治が高齢者迎合していくのは必然でもあり、当然の結果だといえます。

総務省|国政選挙の年代別投票率の推移について

それでも、若い人たちはそれを知っていても、知ったとしても、選挙には行かないだろうし、これは仕方のないことだ、というのがぼくの意見です。彼らに対して「選挙に行かないのは自らの主張を届ける機会を放棄しているんだぞ」とか、「税金を支払っているんだから、もったいないぞ」とか、「自分たちの子どものために、できる限りいい社会を作っておく必要があるんだぞ」とか、諸々正論じみた大人の意見を伝えようとしたところで響かないし届かないだろうと思うのです。なぜなら、彼らは選挙にいくことよりもリアルな実感を別の手段で得ていて、それを凌ぐだけの魅力や充実感を選挙や政治には感じられないからです。

"社会に触れる実感ができる"のは政治よりも経済

そもそも若い年代になればなるほどに、高齢者の方々と認識している世界観がまったく異なります。これはもう、前提条件が異なるというしかないのですが高齢者の人たちが「選挙にいくこと」と同じように、若人たちが義務感を抱きつつ生きている実感とやりがいを得られるのは身近な経済に向いています。成人したことの証を選挙権を得ることによって感じていた世代は、選挙にいくでしょう。だけど、若い人たちは自分たちの想像を創造することによって収益化し、影響力を持つことに対してやりがいや生きがいを抱いてしまうのです。

彼らは、1960年の安保闘争から始まる学生運動のような動きをしている暇はありません。これは否定的な意味ではなく、体制に対して噛みつくことで自分たちの権利を主張し、勝ち取るなどということは現代の若者にとってみたらどうでもいいことなのです。現代の若者は、いかに自分たちの想像した世界を実現するか、それを基にして生活できるのか、そもそも、自分たちには何ができるのかを常日頃から考えてます。その世界観は常にプロトタイプであり、常にβ版であることを望んでいるともいえるのですが、抽象的な言い方を繰り返すあまり、何をしてくれるのか明確ではなく、ましてや動いて成果として形になってから定着するまでに長い時間を要する政治に期待はしていません。その待機時間を、できる限り自分たちの想像物を形にできるだけの手筈を整えていきたいし、それに没頭するからこそ、自分たちの生きがい・やりがいにつなげていくことを望んでいるのです。

これは良し悪しではありません。

規模の多寡こそあれ、若い人たちは「自分の生きがいややりがい、もっといえば生活」を考えることに必死なため、「社会」などという大きな括りに対して自分が何をできるのかといった大きな掛け声には反応をしづらい状況にあるのです。そうだと理解すれば、彼らが政治に対しての関心が薄れていくことと、選挙活動に積極的に参加しないことに対して納得せざるを得ませんし、いくら「行け」と大人が背中を押したところで、それを跳ね除けるだけの気概が彼らにはあるのだということです。

時間軸が重ならないと実感にはならない

もし、彼らが選挙にいく機会があるとしたら、「自らの生活が脅かされた」場合や、「自らのやりがいや生きがいを奪われかねない状況」になった時には政治に対して積極的になるでしょう。たとえば家族を持った、子どもが生まれたなど、それまでの生活認識では立ち行かない状況になった時に初めて、自分が生きる自治体や国の制度を確認するでしょうし、それに対して不満があれば選挙に行って制度を変えたいと希望するかもしれません。ただ、多くの場合は住む場所(魅力に感じる自治体や国)を変える可能性の方が高そうな気もします。いずれにしても、彼らが積極的に自らの行動を起こすために必要なのは経済活動以外での必然性です。

人生の時間軸の中に、政治をはじめとする制度が重なってこないことには、必然性を感じる機会などありません。そこで不条理に感じることがあれば、もしかしたら奮起し選挙にいくのかもしれません。さらに発展させれば被選挙権を行使するのかもしれません。はたまた別の手段で、さらに創造物や想像事を思案し始めるのかもしれません。これ、結局は「自分ごと」にならない限りは選挙にいくことはないという事実なんだと思います。自分ごとにするためには「政治の時間軸」と「生活の時間軸」が重ならないことには気づきもしなければ、行動することもありません。実利的といえば実利的ではあるのですが、ただただ政治に文句をいっているだけの時間があれば、自らの生活を充実したものにしようと積極的なのだと理解しています。

ぼくは若者が選挙に行かない姿勢を否定的にはみていません。それは、ある意味で自分の人生に責任を持っている証拠だともいえるのだ、と考えていることは上でも書いてきました。

彼らは自分に対して正直でまっすぐなだけで、それを自分以外の誰かもわからないおじさんたちに決められるのは納得がいかないし、期待を委ねたとしても期待通りにことが運ぶことなんてあり得ないと諦めているからこそ、自分でどうにかしなければならないという姿勢の現れが「選挙に行かない」という合理的的な行動を選択しているのだといえます。

ぼくと生活を共にする子どもたちはどんな世界を望むのかは分かりませんが、一方的に突っぱねてしまうような心の狭いおじさんにならないよう、気をつけたいな、と思う今日この頃からのポストでした。

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