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"大人"こそ身の振り方を考えよう。マジで。

池田紀行さんがnoteで『20代諸君「育ててくれない」じゃない。「自分で育つしかない」んだよ。もう。』って記事を書いてました。

自分なりに懸命にやってきたつもりだった20代を終え、30代も半ばに差し掛かったぼくは身につままれるような思いがしたので、それについて正直な気持ちと、「育てる」だなんて偉そうな言説を大人達(少なくともぼく)は言い切れないよね、なんてことを書いていきます。

情けない自分と、それを支えてくれてる家族

このテキスト内でいうところの「落ちこぼれマンまっしぐら」に、なっている最中なのかもしれないと思っています。

別に不平を漏らしたことも不満を漏らしたこともないのですが、ここ数年、どうしても力及ばずな時ばかりを過ごしてきた上に、心身の健康を損なう機会が増えてしまいました。

「どうしようもないなぁ」と半分泣きたくなる気持ちを抱えながらも、子どもや妻といった家族がいて、その家族に対して自分をどう見せたいのかって考えると、やっぱり「なんだか大変そうだけど、楽しそう」なんて印象を抱いてもらいたいと思ってるのが正直な気持ちなのです。

欲張りと言えば欲張りなのかもしれませんが、家族だって大事にしたいし、仕事だって大事にしたい。

それがぼくが自身に求める「自己満足」であり、自分の考えや思考を大切にした結論は、そこなのです。ただ、それがなんだか現状は中途半端になってしまっていて、それがどうしても嘆かわしいし、情けなくも思うのです。

こないだ、3歳の次男が言いました。

「ぴーちゃん(あ、我が家の子どもたちが呼ぶぼくの呼称です)が病院にいるとき、ずっと我慢してた」

いやね、「何を?何を我慢してたの?」ってなのはどうでもいんです。彼が、ぼくに対して我慢をしていたんだよって伝えてきたって事実が、ぼくにはとてつもなく大きくて重たい言葉だったわけです。

そこへ、先日6歳になった長男も乗っかってきてはいうわけですよ。

「そうだよ、ママに怒られてばっかりでさ、でも、ぴーちゃんがいないから頑張るしかないじゃん?だから俺たちがんばったんだよ」

もうね、ごめん。ホント。情けない父親でごめんなさい!

そして、それでも見捨てずに一緒にいてくれてありがとう、妻!

ちょっと身銭を稼ぐ立場では「落ちこぼれマン化」してるぼくですが、やっと自分にできることとできないことの判別をできるようになってきましたし、それを基にして活動や行動をできるようにもなってきました。

“新潟を前向きで許容度の高いエリアに”なんて、鼻息を巻きながら動いてる活動なわけですが、やっと、これと身銭を稼ぐための手段がかけ離れている点を改善できそうな気がしてきましたので、まずはそこから取り掛かってみようと思う次第です。

「育てる」だなんて言えないです、ぼく

これまで基本的には下っ端の立場が多く、リーダーやマネジャーの立場に立った機会が決して多くはないながらも子どもと生活をする立場にいるぼくの立場として「育てる」って言葉に対する意見を一つ。

人が人を「育てる」のは無理だろう、とぼくは感じています。

養育者たるぼくが子ども達に対して取れるのは「生命の保証をする」「機会を提供する」「誤った際に指摘・注意する」ぐらいしかできてません

これを人によっては「育てる」と表現するのかもしれませんが、ぼくからしたら「育ててなどいない」わけです。

日本には教育の義務がありますから、ぼくや妻には、彼らが学ぶための環境や機会へ積極的に参加させる義務があるわけですが、それよりもまずは「生きてもらう」必要があります。

最低限、生命の担保ができて初めて「学ぶ」「遊ぶ」「考える」などが行えるわけですが、子どもとの生活、特に子どもが小さい内は「殺してしまわないように注意する」のに必死だったりするわけです。

ある程度大きくなり、自分で自分のことをできるようになったりすれば、そのような心配は減るのだろうとは思いますし、そうなってくると、あとは如何にして「機会の提供」を増やせるのかによるのかなぁ、と思っております。

そんな世間一般的な言い方をすれば「子育て」中のぼくからすると、人を育てるだなんて烏滸(おこ)がましくて、とても言えませんし、できてきませんでした。

これまで接してきた会社の同僚(後輩)や学生たちは、口を揃えていうでしょう。「何も教えてくれなかった」と。

勝手にやれるだけの状況を用意できるか

ぼくはこれまでチーフとしてトレーナーの現場を任された経験もあれば、専門学校の先生として学生を相手にしてきた経験もありますので、一応、「人を育てる環境」に所属していたこともあります。

が、「育てる」だなんて認識になれたことが一度もなく、むしろ、その認識を持てないからこそなのか、その状況と環境に苦しんでいたりもしました

教科書の内容とぼくなりに翻訳するようにはしていましたし、実体験が必要なのであれば、ぼくに用意できる部分は用意しましたし、ぼく以上に経験が豊富な人とつなげるようにはしました。

ぼく自身が「おもしろい」「ワクワクする」と感じた人を新潟に呼んでは後輩や学生の前で話をしてもらう機会を設けたりもしましたが、結局、その頃にやっていた内容が、ぼくの活動の源泉なんだと今になって思います。

そう思うと、ぼくは「環境を整えること」だったり、「人とつなぐこと」に注力をしていて、あとやっていたことといえば、失礼な態度にならないように注意してきたぐらいですか。

そこまで整えてあげると、勝手に動き出してたようには思いますし、ぼくはわりと「やってみたら」で終わってしまって、あまり細かいところまで見ません。っていうか、見れません。。

徐々に「あ、ここは見なきゃいけないんだな」とか「あら〜、こんなところまで見ないとダメなのね」なんて気づきが増えてきて、少しずつ細かい点を見れるようにはなったかな、と思いますが、結局は「相手に失礼じゃないか」とか「どんな風に接してきたら相手は嬉しいか」なんてことを考えてましたし、それを自分よりも年齢が下だったり、経験が不足してる(とみられる)ような人たちに対しても同じように接してきたつもりです。

「何でもかんでも用意をしてあげる」なんてのは間違っているでしょうし、そうすべきだとも思いませんが、勝手に動き出せるような状況を大人たち、ましてや今を生きていて前線でやってきた人たちは環境として用意できているのかを再認識したほうがいいようには思います。

「もっとこうすべきだ」なんて「俺はできるマウント」ではなくて、足りない点を気づけるような状況とか環境っていうんですかね。それがどんな状況や環境なのかはわかりませんし、知りません。

だけど、池田さんが上の記事でも触れている通りの流れになるんでしょうね。

在宅やリモートワークは「育った人」のためのもの。「これから育つ人」には育つ環境を奪う選択となる。

この流れが不可逆なのだとしたら、不平不満を垂れている場合でないのは若い人だけではなく、ぼくの世代やぼくよりも上の世代は、もっともっと努力が必要なのかもしれません

人のことを「育てる」とか偉そうにいう前に、自分の身の振り方を存分に考えたいですね。

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