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【読書感想】インターネット的(糸井重里)

糸井重里さんの文章が好きなんです。

なんとも肩の力が入っていないし、飄々としているようにも思えるんだけど、その一言ひとことには鉛のような重さというか、しっかりとした体重が乗っかっていて、思わず読んでしまう。

読んでしまう、というよりも読み進めてしまう、というほうがいいかもしれません。

『今日のダーリン』は毎日更新されるのを読みたびに、糸井さんの年輪のような文章に触れて、思わずうんうん、と唸っているぐらい。おかげで職場で真剣に心配されたこともある。

僕が今回取り上げているのは、そんな糸井重里さんが2001年に刊行したものを文庫本として加筆されたものです。

加筆された、といっても中身はいじられておらず、文末にエピローグ的に2014年段階で『インターネット的』がどうなったのかを書いているぐらい。

それほど変える内容がなかった、といえばその通りかもしれません。

簡単に僕がオススメしたい部分だけを切り取ってしまうので、本の良さを十分に伝える内容にはならない可能性が高いので、ぜひ手にとって読んでください。(Kindleでもいいんですけど、ね。)

この本は、糸井さんがインターネットという仕組みに触れたことを受けて、これからどんなことになっていくのかを語る内容になっています。上でも書いてますが、2001年に出されたもの。

当時の僕は高校生です。

高校生当時といえば、携帯電話にi-modeが乗っかって、メールが一気に普及した頃でもありますし、着メロで当時のヒット曲を着信音にしているのが流行りでもありました。

そういえば、着メロの手順を書いた本なんかも出てましたね。

自分で音階を入れて着信音にしていくやつ。

そんな文明の利器に乗っかって、その便利さをどっぷりと享受しているだけの僕はそんなことを考えるわけもなく、高校生やってました。

あぁ、そうそう。

本のタイトルが『インターネット的』になっているのも、きちんとした理由が書いてるんです。

文中から引用しますね。

「インターネット的」といった場合は、インターネット自体がもたらす社会の関係の変化、人間関係の変化みたいなものの全体を思い浮かべてみてほしい。もっとイメージしやすいたとえでいうなら、インターネットと「インターネット的」のちがいは、自動車とモータリゼーションのちがいに似ているでしょう。

読みすすめれば、これについて丁寧に解説してくれているんですが、簡単にしてしまうと、インターネットは自動車と道路で、「インターネット的」はモータリゼーション、つまり、自動車が生まれて以後の生活です。

自動車が生まれ、社会に浸透していくことで、移動手段に変化がもたらされましたし、そこでビジネスも生まれました。自動車があることで社会構造が変化していったんですよね。

それを指して、モータリゼーションである、と。

糸井さんのいう「インターネット的」というのも同じで、インターネットがもたらす社会の変化をすべて含んで「インターネット的」としているんですね。

このあたりの言葉選びというか、当て方というか。普遍的なんだけど、普遍的じゃないんです。さすがというかなんというか。

その「インターネット的」のカギとなるものを3つ挙げていて...

1. リンク

2. シェア

3. フラット

この3つを挙げているのですが、僕なんかは、2001年に刊行された当時から今の時代を見たときに、初めて「あ、やっぱりそうだよね」となるのですが、すごいですね。

この内容は本を読み始めて1/10ぐらいで説明に入ります。僕なんかはもう単純だから、ここでグッときますし、のめり込むだけの余地は十分です。

そして「大切だなぁ...」と改めて思うのは、『リンク・シェア・フラット』って別に今でこそ真新しいものではありませんし、各種SNSが勃興して、隆盛をしている中で当然のような存在になってきてるじゃないですか。

けど、それを支えているのはインターネットっていう「伝える仕組み」なんですよね。

それが根本だし、重要だし、地盤なんですよね。これなくしてSNSもメールもLINEもないわけです。

「おい、遠藤、そりゃ当然だろ」なんて言われそうですが、割と今、若い人に話をしてみると「インターネット」と「SNS」って別物だと捉えている人もいるんですよ。

「インターネットっていうのは遠い世界の話で、Twitterとは別のものでしょ?」みたいな。

だから、こんな風に根幹的な仕組みの話って、表層的なものだとしても把握しておくことだけでも、その中で動いているものについて考えられるようになるよね、なんて思うんです。


そういえば、リンク・シェア・フラットがカギである「インターネット的」世界で、糸井さんが最後の方で重要だっていってることがあるんですね。

それが立候補することについて、です。

しかし、これからの時代は、大きさは別にして、あらゆる場面で立候補しないで生きていくことが、困難になるのではないでしょうか。どっちの道に行きたいのか、何がいやで何がしたいのか、何を美しいと感じ何をみにくいと思うのか、そういったことを自分なりに生きるための「軸」として持っていないと、他人とリンクしたり、他人の協力を得られたりができないでしょう。

これにはもう、頚椎が折れ曲がってしまうのではないか、というぐらいに首を縦に振りまくってしまいました。

自分の大切にしている、自分の価値観をもっと表明しましょう、と。別に総理大臣に立候補しろ、というのではなく、自分は何がすきで、どんなことをしているのが楽しいと感じるのか。

大量生産時代の(ある意味では脅迫感的な)共通認識的な価値観ではなく、個別の充実度合いをきちんと言葉にし、態度で示し、行動していくことの大切さを「インターネット的」世界だからこそ必要だと。

あぁ、なるほど、確かになぁ、と思う次第です。

フラットな世界が前提になるのであれば、社会的な立場ではなく、自らのポジションが重要になるのだということです。もっといってしまえば、あなたが「誰であるのか」を明白にしましょう、と。

最初から最後まで「うん、うん」といっているような状態でした。

ぜひ、どうぞ。


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