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子どもを「育てる」とは言いません。いや、いえません。

どうも、遠藤(@ryoskue_endo)です。

最近、我が家にも新しい他人が増えたことは記事にしまして、多くお読みいただきました。ありがとうございます。

...で、記事中にもあるんですが、家族のことを"他人"と呼称し、記事にもしている僕ですが、本質的に言いたのは他人だから冷たくしましょうということではなく、むしろ逆です。

相手のことを思うのであればあるほど、家族というくくりで縛り付けることは酷なことですよ、といいたいんです。

生まれてくる子どものこと、僕たちは選べません。出てくるまで、大きくななるまでどんな人格の持ち主なのかわかりません。けど、それって子どもたちの立場で考えてみても同じことで、一緒に生活をしてみないと僕たち大人のことは分からないわけですから条件は同じです。

僕は正直にいいますと、子育てとか育児とか、あらゆる力(身体的・金銭的な意味の力)を持っている大人の立場からみた子どもたちを見下ろすかのような物言いが好きじゃなくて、すごく傲慢な態度だと思ってます。

嫌いだとすら思ってます。

我が家は、子どもと生活を始めて4年半が経過し、先日三人目が一員として加わってくれました。もちろん、多分に漏れず、我が家でも決して順風満帆に過ごせているわけではありません。

この4年間で2回ほど職を変えていますし、その中で僕が精神疾患に見舞われたこともあります。

その時、子どもと過ごす時間がすごく好きだったのに、喜びや嬉しさを感じられなくなったことは本当に虚無感というものを実感したのですが、それとともに、生活における僕のパラメータとして子どもとの生活でどう感じるのか、という項目がすごく大きな割合を占めていることに気づきました。

その時から僕は「子育て」だとか「育児」なんていう、身長を生かした上から目線で子どものことを見下ろすような物言いをしたくなくなった、というのが理由です。

子どもは生まれた瞬間から保護を受けなければならない存在で、一人で食事をすることはもちろん、歩くことも、話すこともできないため、誰かに頼み事をすることなんてできません。だから養育者が必要で、扶養義務や看護教育の義務があるわけです。

しかし、看護教育の義務を負うからといっても、持ち物ではなく、立派な人格を持つ人間ですから、何でもかんでも親が自らの思う通りに子どもの意思や思考を強制的に強いることは子どもには自由意志は存在せず、親の言うことを聞くべきだというのは傲慢だ、ということです。


子どもと生活をすること、いや、できることは僕の中で大きなことです。それは僕が精神疾患を患った際に異常を検知する上でのバロメーターとして機能していた点から「あぁ、そうなんだね。」と思っていただけるとおもいます。

おそらく、おそらくですよ。

子どもと生活を共にしている方々は子どもに救われたことが少なからずあるのではないかと思いますが、それがどんな場面であれ、子どもの存在自体が憩いの場所になっていることは実感値として理解してもらえるのではないでしょうか。

そんなことを圧倒的な実感値として抱いているぼくの意見は、子どもって育てるものではないです。

カブトムシとかオタマジャクシじゃないんだから。大人ってのは、育つ過程を見させてもらう立場な訳で、それを見てやってる立場じゃないのではないか、と。

だからと言って、生活の中で何でもかんでも子どもがいた方がいいという訳ではありません。血が繋がっていようがいまいが、子どもであろうが奥さんであろうが「他人は他人」ですから。

大人は大人の時間を大切にするべきだとは思いますし、それが前提になって然るべしだとも思います。子どもは勇気と誇りを与えてくれますし、機会を提供してくれる一員であり貴重で稀有な存在です。

だからこそ、僕は「子育て」だとか「子どもを育てる」なんていう上から目線で子どもを見ることはできません、という意見でした。

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