感想①「白」〜シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇〜(ネタバレあり)

 3/8公開「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」(以下「シン」)を観た。
 およそ四半世紀という途方もない年月をかけ、並々ならない愛があらゆる人間により注がれ続けたエヴァンゲリオンが、ここに一つの大きな区切りを迎えた。まずは率直な気持ちとして、そこに立ち会えたことを大変幸福に思う。……とか書いているけれど、今はまだ、エヴァンゲリオンにこれからもしがみついていたい!どうかどうか、私を振り解かないで、、私から離れて行かないで……と、面倒な喪失感が渦巻く。しかし一方で、気持ちはどこまでも晴れやかである。……お天気雨かしら。そして冒頭で強調したいのは、「シン」はどうしても「:Q」と続けて観られるべき作品という至極当然にも思える事実だ。3.0+1.0である「シン」は3.0の「:Q」があってのものであり、再起をもって私達に数多の清々しさ、そして遥かな別れをもたらした「シン」には、それだけ「:Q」のカタストロフィが間違いなく必要であった。そうして、「エヴァは繰り返しの物語」という言葉の意味の重厚さに改めて気づく。人間描写については、あまりにも十分な説明が与えられた今作がありながら、半ば安易な形でインターネットミーム化した「:破」「:Q」劇中のセリフを、そうした浅はかな解釈で捉えて取り上げるのは、もう誤用以外の何物でもないことは、誰の目にも明らかになったと言えるのではないだろうかと思う。
 そして、少し反省もした。「:Q」の難解さには、エヴァシリーズの機体の仕組み(細かいナンバリングの意味や建造方式、アダムスの器など)がどうしても存在し、そこに深くとらわれる私があった。もちろんその理解の必要もあるのだが、一方で広い視野でもっと考えるべきものがあるんじゃないか、それを見落としていませんか?と、「シン」を見るにつけ、おおらかな心で促された気がしている。

以下、ネタバレ含。今回はまず、全体を通じて常に考えていた、「白」について文字を起こしてみる。


 「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q」において、渚カヲルからはじめ聞いた「世界の修復」とは程遠いフォースインパクトの発動、そして理解者であるカヲルの、シンジの眼前での死を受けて途方もない衝撃を受けた碇シンジは、コア化した大地を式波・アスカ・ラングレーと綾波レイ(仮称)とよろめきながら歩く。そして車を乗りつけて来たある男性と合流し、コア化を免れた村落、「第3村」に三人は向かう事となった。そしてそれは、シンジにとっての相田ケンスケとの突然の再会だった…。そして第3村では、ケンスケだけではなく、かつての第壱中学校クラスメイトの鈴原トウジ、洞木ヒカリとも、第3村で立て続けに再会する……。

長く、深く漂う白さ 

 「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」の四作品には、それぞれに色が割り振られている。「シン」には白が充てられる。このカラーリングをそれぞれの作品の中で意識することは、勿論これまでにもあった。

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 「:序」では、物語の始まり、シンジのあどけなさとエヴァに乗るということの意味の希求、暗中模索しながらも一丸となって一分一秒、最後の一発に懸けながら使徒と闘う人々に、一方では原始的であり、また一方では闘志が沸るような、赤い熱を帯びる。
 「:破」では、その赤さに、更に人間の優しさが色濃く加わる。アスカが物語に加わる事で、エヴァに乗ることの意味を再び見つめながらも、シンジはレイやアスカらとの束の間の温かい日常をここで繰り広げる。シンジの温かさに触れたレイは、食事会を画策したり、シンジへのほのかな恋慕を見せる。孤独がちなアスカも、温かな日々を通して、他人といる幸せを見出すようにもなった。このそれぞれに変化をもたらした温かさには、間違いなく、ほっとするオレンジ色の温かさが差していた。しかしそうした日々を崩したのは、やはり使徒であった。綾波を取り返す、その固い決意のもとに覚醒した初号機の腕には、そしてシンジの瞳には、オレンジが宿る。
 「:Q」ではシンジに対する風当たりが激変し、シンジの困惑、14年前と比べれば絶望的な世界に変容した世界と向き合うヴィレクルー、そうした事態がもたらすヴィレクルーの冷淡さ、終盤のシンジの慟哭と絶望、激変した世界の中でのそうした悲劇的な感情が織りなすものは、深い青さに収斂する。そしてその青さは、これまでよりもかなり色濃く、映像の中にも通底する。こうした急激な展開を見せる中でも、空の色は、大抵青さを持っている。US作戦時、カヲルが見上げる空の深い青、ヴンダー発進時、一気に晴れ渡る空の爽やかな青、mark.9によるヴンダー急襲時の空の青、フォースインパクト中断後、混沌とした地表の一方で、広がるのは青い空……。
 繰り返しになるが、「シン」には白が充てられている。しかし「シン」ではこれまでの三作に比して、格段に白を意識する時間が長くなり、そしてその意識の深度が大きくなった。

 白さは、誰であっても包み込む。「シン」の前半では第3村での日々が描かれる。正直、ニアサー、サード、フォースと続いた破滅的な14年間の為に、ヴィレクルー以外の人間が生活している日常世界というものを半ば諦めていたのだが、ここに束の間の日常が垣間見られたのが私にとってはどこか救いであった。ここでしか生きられず、またいつ命を落とす事となるか分からない絶望的な状況の中で、いつ尽きるかも分からない脆い一日一日を大切に、誠実に生きる人々があった。この人々の生への誠実な態度の清々しさ。田んぼに張る水、せせらぐ小川の透明さ。空の雲の白さ。シンジが家出をして過ごした廃墟の建物の数々の白さ。第3村での日々は、透き通るような白さで満ちていた。ここでのストレスフリーな白は、誰であっても優しく包容してくれる色であり、そして心を洗うような色である。白さで満ちた小さな箱庭のこの村は、シンジにとっても束の間のユートピアとなり得たはずだし、トウジも、シンジのこれまでの日々を思い、この先この村で生活することを提案した。第3村での暮らしの描写は多少冗長なようにも感じられるかもしれないが、この村の中での日々は、「繰り返し」のための再起を要するシンジにとっても、また観客にとっても、来たるヤマト作戦との間に間違いなく緩やかな橋渡しと、守るべき世界の再確認をさせた大切な時間であり、この透き通った白さのモチーフこそが、そのプロセスを意義深いものにし、その時間のかけがえのなさをストレートに伝える。その結果としてシンジは、第3村を居場所ではなく、守るものとして答えを出した。

 また、白さは美しい。シンジがエヴァンゲリオンに別れを告げることを選択し、天から降るエヴァンゲリオン。降りしきる雪のように美しい。この白の美しさは、シンジの選択をどこか必然的で崇高な、尊ぶべき選択として祝福を与えているようにも感じる。

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  そして、白さはほのかな別れの淋しさを帯びながら、色が含み持つカジュアルな希望を湛える。「シン」の最終盤、エヴァンゲリオンのない世界。宇部新川駅の空はまっさらな白色として映える。鮮やかな青がここで伺える訳ではない。だけれども、この光る白さは別れに相応しい白であった。この白は、主人公らの日々を私たちから突き放すような格好で鮮烈に別れるのでもなく、私たちが主人公らのまた続いてゆく日々を想いながら、主人公らと軽くハイタッチでもするように別れを告げる、私たちと主人公らの間の爽やかな別れを適切な距離感で行うような、カジュアルな希望を持たせるもののように思う。ここでもし、鮮やかな青が広がっていたとすれば、この別れはどこか重い別れになっていた気がする。青という色はなんだか長い別れを告げるような、そんな鮮やかな別れに感じられたかもしれない。その点で白は、私たちの別れをもう少しカジュアルな希望を含ませながら実現させている気がしてならないのだ。もう少しだけこちら側にいるような、そんな気持ち。それでも涙は流れるけれど。宇部の白い空を見渡しながら、ここでかかるOne Last Kiss、白の美しさが数十倍にも増幅するね。。
 最後に、この白さは「シン」の数々の他作品のオマージュを伺いながらも、そこに庵野総監督のあり方という形で思い知るものでもあった。

 「庵野の色は何かといえば、真っ白なんだよ。あいつの好きだったものが全部、反射されているだけ。芯というものがないんだけど、それが庵野という存在。一応言っておくけど否定的な意味じゃなくて、客観的にそうだといってるだけだからね。ただしその反射する能力は天下一品であるということ。コピーの天才であるだけで、本当にたいしたもんだと思うよ。」

 以上は押井守監督の言葉であるが、「シン」のセルフオマージュ・他監督のオマージュの数々をもって、改めてこの庵野総監督の白さ、そしてそれらのオマージュを通じて力強い作品へと統べてゆく天才さを思い知る事となった。

 「白」は数々のカタストロフィを含む前作からの再生、再起に必要な優しい包容力を持ち、完結へ向かうのに相応しい美しさを兼ね備え、完結に際し、私たちとの別れによる仄かな淋しさを含ませながら、しかしそこにはどこかでまだ、私たちと繋がり続けるようなカジュアルな希望を持たせ、さらには庵野秀明の、ささやかな拍手を差し上げることしか出来ないまでの非の打ち所のないセンスをもって行うオマージュのスタンスを改めて明示する、そんな色だった。


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