見出し画像

「尼御台(尼将軍)北条政子」について

第百四十八回 サロン中山「歴史講座」

令和四年11月14日
瀧 義隆

令和四年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の時代
メインテーマ「鎌倉時代初期の動乱」について
今回のテーマ「尼御台(尼将軍)北条政子」について

はじめに

令和四年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」も、終盤戦にさしかかり、いよいよ北条氏の勢力が増大し、「北条政子」と「北条義時」の姉弟による鎌倉幕府の政治体制が確立されてくる。そこで、前回までは、「北条時政」や「北条義時」等についての詳細を述べてきたので、今回の「歴史講座」では、「尼御台(尼将軍)北条政子」にスポットを当ててみたい。

1.「北条政子」について

  • 父・・・・北条時政

  • 母・・・・正体不明の女性・・・・・・・・・・・・・・・史料①参照

  • 保元二年(1157)?月?日~嘉禄元年(1225)七月十一日

  • 治承元年(1177)頃に源頼朝と結婚したのではないか?とする説が有力である。

  • 治承二年(1178)・・・・長女の「大(おお)姫」を出産。

  • 寿永元年(1182)・・・・嫡男の「万寿(後の頼家)」を出産。

  • 文治二年(1186)・・・・次女の三幡を出産。

  • 建久三年(1192)八月・・次男の「千幡(後の実朝)」を出産。

  • 建久六年(1195)・・・・頼朝と共に上洛する。

  • 建久八年(1197)八月・・長女の「大姫」が病死(20歳)する。

  • 建久十年(1199)一月・・頼朝が死去する。これにより、出家して「尼」になり、「尼御台」と称されるようになった。

  • 正治元年(1199)七月・・次女の「三幡」が病死(14歳)する。

  • 元久元年(1204)七月・・嫡男の頼家が暗殺される。

  • 元久元年(1204)閏七月・義時と謀って、父の時政と妻の「牧の方」を伊豆に追放する。

  • 建保七年(1219)一月・・三代将軍の実朝が、鶴岡八幡宮の階段で、甥の公暁によって暗殺される。

  • 承久三年(1221)五月・・皇権の回復を望む後鳥羽上皇が、義時追放の院宣を下し、鎌倉幕府打倒の挙兵に走った。この時、政子は御家人に対して大演説を行う。(詳細後述)

  • 幕府軍は、総勢19万騎の兵力となった。

  • 貞応三年(1224)六月・・義時が急死する。(死因は、脚気と暑気あたりが重なった為と伝わる。)

  • 貞応三年(1224)閏七月・義時の妻の「伊賀の方」を伊豆に追放する。

  • 嘉禄元年(1225)七月・・69歳で死去し、鎌倉の寿福寺に埋葬される。(病名は不明)

2.「尼と御台所」について

この項では、「北条政子」が通常「尼御台」と呼ばれていた、この「尼御台」を「尼」と「御台」とに分けて検証してみたい。
①「尼(あま)」について
そもそも、「尼」の語源は何なのか?を調べると、【尼の起原は、原始仏教の時代からで、最初に尼となったのは、仏陀の養母である“マハ―パジャーパティーMahapajapatiだと言われている。『日本書紀』によると、日本における最初の尼は、飛鳥時代の「善信尼(ぜんしんに)」ら三人とされている。この三人が住んだ桜井寺は最古の尼寺である。

尼は、インドの古代語であるパーリー語で、アムマーaMma、サンスクリット語では、アムバーambaで、母の意味がある。】『世界大百科事典 1』平凡社 2007年 428P

また、「尼」は「比丘尼(びくに)」とも言われており、この「比丘」を調べると、【比丘とは、インドの古代語であるパーリー語で仏教僧の事を言うもので、サンスクリット語では、「ビクシュ二ーbhiksuni」であり、僧の意味である。】『世界大百科事典 1』平凡社 2007年 401P

次に、「尼」についての史料を見ると、「宗教部 二十三佛教 二十三僧尼總載 上僧ハ、ソウ、又ホウシト云ヒ、尼ハ、ニ、又アマト云フ、男女ノ頭髪ヲ剃リ、染衣ヲ著シテ、以テ佛道ニ帰依シタル者ヲ謂フナリ、(後略)」『古事類苑 10 宗教部 二』吉川弘文館 昭和四十三年 427P

「染衣(ぜんえ)」・・・・黒く染めた僧の着る衣のこと。出家することを意味する。
「帰依(きえ)」・・・・・すぐれたものを頼みとして、その力にすがること。自己の身心を捧げて信順すること。このように、佛教に全身全霊をもって身を投じた者を、男は「僧」と称し、女は「尼(あま・に)」と称することが明記されている。

また、この「尼」は日本の歴史上では何時頃から見られるものなのか?を調べると、「敏達天皇ノ十三年ニ、帰化人司馬達等ノ女出家シテ、善信尼ト称ス、是レ實ニ僧尼ノ事ノ我國史ニ見エタル始ナリトス(後略)」『古事類苑 10 宗教部 二』 吉川弘文館 昭和四十三年 427P

「敏達(びたつ)天皇」・・第30代の天皇で、敏達天皇元年(572)~、敏達天皇十四年(585)まで在位していた。欽明天皇の第2皇子である。
「帰化人(きかじん)」・・古代から、奈良時代にかけて、朝鮮や中国から渡来し、技術や学芸等を伝えた人やその子孫を指す。
「司馬達等(しばたっと・しばたちと・しばのたちと・とめたちと)」・・・・・生没年不詳で、飛鳥時代の人である。日本に仏教が伝来する以前から仏教を信仰していた人である。敏達天皇十三年(584)頃に高麗から渡来したようである。
「善信尼(ぜんしんに)」・・・・6世紀後半の仏教の尼で、仏師・鞍作止利(くらつくりのとり)の叔母で、名前を「嶋」と称していた。恵善尼や禅蔵尼とともに、日本最初の僧尼の一人となった。
以上の史料に見られるように、「尼」が日本の歴史上に見られるようになったのは、飛鳥時代の6世紀後半頃からである。また、武士の妻が「尼」になる理由は、「貞女は二夫にまみえず」とする貞操観念からである、とされている。

②「御台所」について
この項では、「御台所」とは何なのか?を調べてみたい。『古事類苑』では、「承久軍記語 一かまくらには三代将軍の跡たえ、しよくをつぐべき君たちもましまさねば、あまみだい所○平政子しばらくせいだうをきこしめしけり、」『古事類苑 45 人部 一』 吉川弘文館 昭和四十三年 154P

「せいだう」・・・・・・・「政道」のことで、幕府の政治の実権のこと。
「きこしめし」・・・・・・「聞し召し」のことで、「関心をおもちになる。」の意味である。
このように、「北条政子」が「あまみだい所」と称されて、幕政にも関与していたことが窺える。更に、『古事類苑』では、身分的に高位にある人の妻を「御台所」と言うその訳を、次のように説明されている。

「貞丈雑記 二 人品一貴人の妻を御臺所といふ事は、御臺盤所と云事を略したる詞也、飯の事をだいと云、女の詞に、飯をおだいとも、ぐごとも云事、上﨟名の記にも見へたり、膳の事をば臺盤と云、其臺盤を置く所を臺盤所と云、今も食物を調ふる所を臺所と云も、臺盤と云も臺盤所と云を略したる詞也、男は表に居て、家の仕置其外表向の事をつかさどり、女は奥に居て、夫の食物を調ふるはづの事なる故、臺盤所にて世話をする心にて、御臺所と云也、貴人なれども、人の妻たる者の所作を、わすれぬ為の名なるべし、」『古事類苑 45 人部 一』吉川弘文館 昭和四十三年 154P

「臺盤(だいばん)」・・・・平安時代の宮廷において、食べ物を皿の上に載せる木製の机状の台のこと。
「上﨟(じょうろう)名の記」・・・・「上﨟名の事」・「女房之事」ともされる有職故実の本である。応永十四年(1407)の奥書がある。
以上に示されている通り、「御台所」とは、妻が主人の為に食事を用意する場所を意味するもので、それが「妻」そのものを指す言葉となったことが判明する。

3.「北条政子の子供達」について

この項では、「北条政子」が源頼朝と結婚して、子供をもうけるが、その子供について明記してみたい。

大姫(おおひめ)
長女(源頼朝の子としては、第1か2番目の子供?)
治承二年(1178)~建久八年(1197)七月十四日わずか6歳にして、源義仲の嫡男である源義高と婚約するものの、頼朝が義高を殺害した為に大姫は心の病気となる。その後、頼朝は大姫を後鳥羽天皇に入内させようとしたが、大姫の病気は悪くなる一方で建久八年に20歳で死去してしまった。

頼家(よりいえ)
嫡男(源頼朝の子としては、第3番目の子供)
寿永元年(1182)八月十二日~元久元年(1204)七月十八日
頼朝の跡を継いで、鎌倉幕府二代将軍となったが、22歳の時に将軍職を追放され、修善寺に幽閉された後に、元久元年の七月に北条氏の手勢によって暗殺された。

三幡(さんまん)
次女(源頼朝の子としては、第5番目の子供)
文治二年(1186)~正治元年(1199)七月二十四日大姫の代わりに入内(じゅだい)させようとしたが、急病
となり、14歳で死去してしまった。

実朝(さねとも)
次男(源頼朝の子としては、第6番目の子供)
建久三年(1192)八月九日~建保七年(1219)一月二十七日兄の死去により、鎌倉幕府三代将軍に就任したが、28歳にして二代目将軍であった頼家の子供の公暁(くぎょう)の手によって暗殺された。この暗殺には諸説があって、北条義時が関係していた、とする説もある。

※源頼朝と北条政子以外の女性との子供千鶴丸(せんつるまる・ちずまる?・せんづるまる?)
『源平盛衰記』や『曽我物語』によると、伊東祐親の娘の「八重(やえ)姫」との間に出来た子供である、とされいるが、系図として明確なものはない。

貞暁(じょうぎょう・ていぎょう)
源頼朝の子としては、第4番目の子供である。母は、常陸入道念西の娘である大進局である。
文治二年(1186)二月二十六日~寛喜三年(1231)三月二十七日 通称を「鎌倉法印(かまくらほういん)」といっていた。

以上のように、「北条政子」と「源頼朝」との間には、男女4人の子供達が誕生しているが、「源頼朝」の女性関係が複雑で、「北条政子」以外に生れた子供は判明しているだけでは2名であるものの、実際には不明な点が多く、子供の実数も不明なのである。

4.「承久(じょうきゅう)の乱」と「北条政子の演説」について

かねてから、古来からの朝廷を中心とした政治体制に戻す事を切望していた後鳥羽上皇は、承久三年(1221)五月十四日、「流鏑馬揃え」を口実にして諸国の兵を集めて、北条義時討伐の院宣を発し、鎌倉幕府打倒の暴挙に出たのが「承久の乱」である。

後鳥羽上皇の挙兵を知った北条政子は、動揺する鎌倉の御家人に対して、後に「北条政子の演説」と称される、大演説を行った。

その演説とは、
「皆心を一にして奉るべし。是れ最期の詞なり。故右大将軍朝敵を征罰し、関東を草創してより以降、官位と云ひ奉禄と云ひ、其の恩既に山岳よりも高く、溟渤よりも深し。報謝の志浅からんや。而るに今逆臣の讒に依りて、非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等を討ち取り、三代将軍の遺跡を全うすべし。但し、院中に参らんと欲する者は、只今申し切る可し。者へり。」『新訂増補 国史大系 第三十二巻 吾妻鏡 前篇』吉川弘文館 平成十二年 767P 出雲 隆編『鎌倉武家事典』 青蛙社 昭和四十七年 240~241P

「故右大将軍」・・・・・・ 源頼朝のこと。
「朝敵(ちょうてき)」・・・・この時の朝敵とは、平家一族を指す。
「征罰(せいばつ)」・・・・・罪ある者や反逆者を攻め討つこと。
「溟渤(めいぼつ)」・・・・・果てしなく広大な海のこと。
「報謝(ほうしゃ)」・・・・・恩にむくい、徳に感謝すること。
「讒(ざん)」・・・・・・・・事実にないことを言って、他人をおとしめること。
「非義(ひぎ)」・・・・・・・道理にはずれること。
「綸旨(りんじ)」・・・・・・天皇の意をうけて発給する命令文書のこと。
「秀康(ひてやす)」・・・・・藤原秀康のことで、検非違使として京都の治安維持を担当する武士であった。
「胤義(たねよし)」・・・・・三浦胤義のことで、検非違使判官を務めていた。
「遺跡(いせき)」・・・・・・ここで示している遺跡の意味は、過去の人物が残した所領や地位、財産等を指す。
「院中(いんちゅう)」・・・・京都の天皇や上皇等が住む院の御所のことで、ここでは、後鳥羽上皇の居る院を指している。

この北条政子の演説は、「政子自身が行った」とする説と、そうではなく御家人の「安達景盛が代読したのだ」とする説があって、どちらが正しいものか?まだ不明なままである。

この演説によって、鎌倉の武士達は奮起し、19万人もの幕府軍が出来上がり、大軍して京都に向かって進軍することとなった。一方、後鳥羽上皇は、上皇自身が武具を付けて戦いに臨んだものの、朝廷軍は3万の軍勢でしかなく、僅か1ケ月もしない内に敗北濃厚となり、上皇はあわてて京都の御所に逃げ帰り、御所の門を厳重に閉ざしてしまった。そして、上皇の命令に従って討幕の軍を率いた藤原秀康や三浦胤義を追討する命令を下し、藤原秀康は幕府軍に捕まり処刑され、三浦胤義は自害してしまった。

この乱によって、首謀者となった後鳥羽上皇は隠岐の島へ、土御門上皇は自ら望んで土佐国(後に阿波国)に、後鳥羽上皇の皇子である雅成親王や頼仁親王も、但馬国や備前国に配流となり、そして、仲恭(ちゅうきょう)天皇も廃位となった。

北条政子・義時の姉弟は、「承久の乱」という、鎌倉幕府の最大の危機を守り抜き、執権政治継続の安定体制を築きあげることが出来たのである。

この後、北条義時が元仁元年(1224)六月十三日、脚気と暑気あたりが重なって62歳で死去した。この死去には異説があって、義時の3番目の妻である、伊賀の方によって毒殺された、とするものである。そして、翌年の嘉禄元年七月十一日に北条政子69歳で死去してしまうのである。

まとめ

今年の「歴史講座」も、新型コロナ感染拡大の為に、中止せざるを得ない期間もあり、メインテーマである「鎌倉時代初期の動乱」に添った講座となったか?充分に鎌倉時代を振り返る事ができたか?

決して満足できるものではなかった、と思われるが、源頼朝や北条一族について理解をする上では、少しは役にたったのでは、と考える。2月の上旬から始まった、ロシアによるウクライナ侵攻、自分の利益の為に、人が人を殺してしまうという、何と愚かな事を、あのロシア大統領プーチン氏が選択してしまったのであろうか。武力で人を征服すれば、そこに残るものは「憎しみ」だけである。今年の「歴史講座」で見た北条一族も、「自分さえ良ければいい」とする「我欲の塊」そのものであり、時代や国が違っても、ロシア大統領プーチン氏にも、その根底に流れているのは、「我欲の塊」そのものだけではなかろうか。恐ろしい事である、としか言いようがない。一日でも早くウクライナに平穏な日々が戻る事を願うばかりである。

北条政子の家系図

北条政子の家系図

参考文献

次回予告

令和五年1月9日(月)午前9時30分~
令和五年NHK大河ドラマ「どうする家康」に因んで
メインテーマ「徳川家康の人生模様を考察する」
次回のテーマ「幼年期の家康」について

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?