ジョアン・ミロへの感想文

 ミロの絵が高校生の時から好きだった。画集で見ていたものを大学の時は美術館に足を運んでホンモノの作品を見て改めて感動したものだった。
共鳴したところは、その自由な線や形であった。その線は人の体毛に似ていた。ちょうど大学の時私は体毛の存在に興味を持っていた。なぜか私たちは体毛をちょっと気味の悪いものとして捉えて、肌の色からひょろひょろと生えてくるあの形と色と存在を強く意識し、さらに排除する。
ひげとか脇毛とかすね毛とか他にも・・・
そんないつもは排除しがちな生命力溢れるその存在にミロの線は似ていた。
私はミロの形を見ると少し安心した。

ミロの描く絵には常に生命に象徴される形がある。それは目であったり顔であったり足であったり。象徴された形は散りばめられるも私たちが人間や犬などと認識する正常な形ではない。正常な形ではないわけだから、異常なのである。異常な形がふわふわと楽観的にキャンバスの上を漂っている。そのことが私を心地よくさせるのである。

  多くの人は自分のことを正常だと感じる。現代私たちは統一の教育を受け、おおよそ共通の道徳感や常識をもち、資本主義のもと、労働と生産、消費することを当たり前とし、あるべき正常な人間像を共有している。その像から少しずれると、それは異常な人間とか、変わった人間とか、時に落ちこぼれた人間などのネガティブな像をもつのである。

ミロの作品を見ていると、生命体は正常な形を保ってはおらず、体毛のような人々が排除するような形をキャンバスの中に表し、形は軽やかで楽しげに踊り、それはなんとなくあるべき人間像でなくても良いと肯定してくれているようだ。

 ミロの作品の何点かは巨大だ。巨大というのはそれだけで力で、権威である。作品が単色である場合その強さはさらに強度を増す。私たちが身近に見ることのない非日常的な存在だからだ。その大きな色を背景に手前に描かれる形はひょろんと落書きのような細い線。軽やかである。漂うだけかもしれない。時にシールのように薄っぺらいかもしれない。それらはなんだか、権威の前に薄っぺらく浮ついて存在していること、体毛のように頼りなく軽く息を吹きかければ吹き飛んでしまうようなそんな存在である。
私は権威が苦手だ。しかし一方で権威に守られるときもある。権威を前にしてミロの線や形は無責任に飛び回る。気軽でいいのだ。姿さえも自由自在でいいのだ。大きな青色の背景を前に保護と自由を感じるのだ。

ミロの作品から私は人間としての形からの解放を感じ、細く身軽な線や平面的で単純な形からその存在の意味性を薄くさせ、気楽に世界に存在することを許されるのだ。

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