私(のもの)ではないらしいアセクシュアル

少し前の話になるが、ツイッター上でとある漫画がバズった。

アセクシュアルの主人公の話がツイッターに登場した。GSRM=性的マイノリティの中でも、まだまだアセクシュアルはメディアに取り上げられにくい存在であるため、見つけた時は純粋に、言い換えると単純にお、と思った。その中には嬉しい、という思いがあったのも嘘ではない。
読み終えて、全体にどうも違和感を感じた。何だかもやもやした、そして何だか胸が押しつぶされるような苦しい気持ちになった。今回は、あの漫画からアロマンティック、かつアセクシュアル寄りの私が感じた違和感とはどんなものなのかを書いていく。ツイッターにはメモとして断片的に載せていたが、それらを一つの文章にまとめることで、自分の考えを明らかにさせておきたい。


・無性愛者と性嫌悪

作者のツイート本文にアセクシュアル=無性愛者の話と漫画が掲載され、1/1で「性って必要ですか?」、2/8で短いスカート丈やおそらく性風俗の広告など、周囲に溢れかえる性的なものに対して「僕にとってこの世界はあまりに発情しすぎている」、そこから主人公の苦しみとして描かれる4/8のアイスのくだりで性的欲求を喚起させるものとして描かれる胸に対して「気持ち悪い」、その気持ち悪いを理解されないで嘲笑されたことに対して「誰からもちんこ入れたり入れられたい人間ばっかと思ってんじゃねーよ!」そしてこれをきっかけに自分を自覚した、とある。


まず大前提として、私は主人公=厚樹のこの苦しみを否定するつもりはないし、否定することはできない。厚樹の苦しみは厚樹のものだ。
その上で、厚樹が感じた苦しみは、無性愛者であるゆえに浴びるものも確かにあると思うが、性嫌悪が認識されていないゆえの苦しみとの境界が曖昧であるように感じた。厚樹はアセクシャルとして性愛の文脈で語られることへの嫌悪感は持ってると思うし、アセクシュアルでありなおかつ性嫌悪がある人なのかもしれない。でも無性愛者を描くと掲げている以上、性愛規範に乗れないことで受ける苦しみが描かれてないと、看板に偽りありというか、不誠実じゃないか、と思う。嫌悪と性愛を持ち合わせていないことは、似ているように見えるし、実際近いところにあるのだと思う。しかし、これらは別物だ。アセクシュアルは「他者に対して性的魅力を“感じない”」セクシュアリティだ。この「ない」ことを理解されないことでの苦しみがAの苦しさだと私は感じている。性的な問題に対しての欲求が「ない」からそれが「わからな」くて、それが理解されないから苦しい、ということは成立しうるが、「わからない」と「ない」をイコールで結ぶことはできるのだろうか。もし結ばれたとき、その存在が覆い消されるのは誰だろうか。

性嫌悪と性愛を持ち合わせていないことの区別は、もしかしたら明確にするのは難しいのかもしれない。私自身、あのアイスのシーンは「生理的に無理」だと感じた。多分厚樹の感じた気持ち悪さと同じものだと思う。

しかし、その気持ち悪さに行き着く道のりは、嫌悪とAセクシュアルゆえでは違う道を辿ってきているのではないだろうか。
「違う道のり」について、アロマンティックの私は、自分を恋愛の文脈で語られるのが苦痛であるため、それに当てはめて考えてみる。

あの中で主人公の感じる「気持ち悪さ」とは、性的なアピールに反応する根拠がわからない→持ち合わせていない性的な行動をするように押し付けられることへの拒絶感、というプロセスなのかな、と感じた。
これを私の経験で書くと、恋愛に沸き立つ意味がわからない→持ち合わせていない恋愛の文脈で自分まるで恋愛することができる人間のように扱われることへの違和感、というプロセスと似ているのだろう、なんて想像した。


さらに、性愛を楽しめないことでコミュニティから疎外された、というのが4/8だ。あの場面で厚樹が強いられたのは、他者のプライベートゾーンを触らせられる(胸元を拭くことを強要される)ことだ。

これ、Aセクシュアルじゃなくても嫌じゃないだろうか。少し問題の本質とずれるかもしれないが、性器を触らせることは性的虐待の一つにあたる。つまり、嫌がる人に対して触ることを強要する、触らせるという行為自体が、その人のセクシュアリティに関係なくハラスメントの意味を持つ。厚樹が何者であろうと、どんな理由であろうと、嫌だと感じて拒むのは当然なのだ。厚樹が嫌悪感を抱いたことについて、アセクシュアルだから、という理由だけを背負わせるのは間違いだ。
厚樹は男性のアセクシュアルとして描かれていると思うが、男性は女性と比べて性に対して積極的(なものである、そうであるべき)という考えが流通しているために、男性はその規範に乗れないとより疎外される、ホモソーシャルなセクハラ的な側面とアセクシュアルが曖昧にされていると感じた。

アセクシュアルの苦しみとして私が親近感を覚えたのは、アイスのシーンの直後、4/8の4コマ目「ゆっくり好きな女の子探せばいいよ」のあとの主人公の暗い顔だ。これらはAセクシュアルが感じる疎外感としてリアルなものだと思う。ここら辺を掘り下げたシーンがあったら、私の感想も変わってきていたのかもしれない。ただ胸を触らせられることが嫌なのではなく、性愛を持っていないことを理解されないしんどさを捉えられているなと思った。


・アセクシュアルとアロマンティック


7/8で「生まれてから一度も恋愛感情を持ったことがない」「性欲もない」とあるので、おそらく厚樹は「アロマンティック・アセクシュアル」と呼ばれるタイプだ。実際、3/8ではバレンタインという恋愛的行事に乗れない、疎外感を感じているような描写がある。

作者はテーマに「無性愛者」と掲げている。それなのに、描かれている無性愛者は実はアロマンティック・アセクシュアルだった。アセクシュアル=アロマンティック・アセクシュアルの認識で話を進めるのは、性愛と恋愛の区別をつけずに、アロマンティックの存在を消している。私はアロマンティック当事者として、ここが一番しんどかった。日本ではアロマンティックは、肌感覚でしかないがアセクシュアルよりさらに認知度が低く、やっとヒットした記事で「アセクシュアル=アロマンティック・アセクシュアル」 と本来分かれているものを(乱暴にも)まとめられたり、そもそもアロマンティックに関する文章になかなかたどり着けない、というのはしょっちゅう体験している。それと同じパターンだな、と思った。平たく言うとまたかよ、と思った。この手のことには慣れているが、だからといって怒りが収まるわけがない。


・アセクシュアルの人生には色がない?


「(無性愛者だから)キミのキャラには色がない」性愛・恋愛を持たない人は人として欠落している、というのはAが言われがち、思われがちなことだ。それを作品中で否定せずに流れていったのは、偏見の再生産と感じた。Aとは欠落ではなく、この状態こそが完全体であるセクシュアリティだ。


・孤独であることについて


親友には彼女ができて、結婚して子どももできて(そして離婚を経験してといった)ライフイベントを着々と経験しているのに、自分はそれができないどころか理解すらできない。
主人公は性愛・恋愛をわからないゆえに孤独に置かれている。この孤独というのは、

①パートナー、理解者がそばにいないことの孤独②社会の規範に添えないことで社会から疎外される孤独

の大きく2つに分けられる。

7/8、シスオに「人を好きにならないのが 一人が寂しいのか?」と聞かれ、厚樹は子どもの頃は恋なんかしなくても寂しくなかった、そしてシスオ=友人がいて、ゲームや漫画の話ができて、毎日幸せだった、と言っている。
主人公はシスオに友情による信頼、絆を寄せていたのかもしれない。もしかしたら、恋・性・愛と分類したときに愛に近い感情をなのかもしれない。しかしこの漫画では、厚樹のシスオに対する感情よりも、世界から感じる孤独、というものがより描かれている。この世界は厚樹とシスオだけで構成されているわけではなく、私が生きているのと同じような社会の中を生きている。

コメント欄を読んでいると、同棲のくだりでBL的文脈、恋愛の文脈を読み取った方もいるようだが、少なくとも厚樹にその思いはない。なぜなら主人公はアロマンティック・アセクシュアルなのだから。シスオはどのような思いを抱いているのかはわからないが、少なくともこの話の主人公はアロマンティック・アセクシュアルの厚樹であり、これは全て厚樹視点の話なのだ。


シスオは主人公に「これから時々助けてくれないか?」と、(恐らく)時々生活を共にしてくれないか、と提案する。また一緒にゲームをすることができるようになる。しかも今までのように恋愛が人生に絡んでくることもない。そして、いっそ3人で暮らすか、と提案される。シスオの子どもという、結婚の象徴のような存在とも共に人生を歩むことができる。主人公は孤独から脱却した。そういうエンドが展開されている。

この物語の中で厚樹が脱却したのは、①パートナー、理解者がそばにいないことの孤独の面だけしか描かれていないように見える。確かに厚樹は恋人ではない、性行為をする必要のないパートナーを手に入れた。その面では孤独からの脱却は叶っている。しかし、発情しすぎている世界、広告、性愛・恋愛を経験しないことが理解されない、そんな人間は色を理解できない欠落した人間である、という社会からのメッセージを跳ね返すような場面は描かれていない。

(色と欠落に関しては、8/8の最後のコマで厚樹が彩羽=シスオの娘の描いた絵に色を塗ろうとする場面があり、新しく色をつける、と言う意味なのか?と考えた。しかし、書かれている「色彩は、想像力の中にあるー」の意図するところが本当に分からなかった。想像することが解決と言われても、厚樹の絵には色がないと判断を下す社会は何も変わっていない。)

7/8の、発情しない(できない)人間は孤独に追いやれられる、バッカみてー、と呟く厚樹へのアンサーは、シスオの「これから時々 助けてくれないか?」だ。これは一見孤独から脱却するための助けに思えるが、②社会の規範に添えないことで社会から疎外される孤独へのアンサーは漫画の中では描かれていない。これは、Aceたちに今の社会=性愛・恋愛至上主義社会に適合するように、社会が変わるのではなくお前が変われ、と言っているようなものだ。コストがかかるのはAceだけで、社会は何のアクションも起こしていない。こう考えるとわかるだろうか。パートナーを得るだけでは、事態は解決し得ない。

ただ、Ace当事者として言うと、この状況こそがリアルな世界ではあるのも事実だ。


・一人でいられない社会

厚樹はシスオとの友情という人間関係、そして友情由来のパートナーシップを組むことで救われる。

ところで、人はパートナーがいない限り永遠に孤独なのだろうか。孤独のレッテルを貼られるのだろうか。
この作品は厚樹の話なので、彼がパートナーシップで孤独から救われることは否定できるものではない。しかし、結局この話では「パートナーを持たない・持ちたくない」人たちの世界の規範に添えないことで社会から疎外される孤独は依然として残り続ける。Aセクシュアル/Aロマンティックはパートナーを持てない孤独な人々である、という偏見、抑圧の再生産の側面もあるな、と読みながら悲しくなった。ただでさえ、生殖能力があるとされる(=子どもを生み育て、家族を作ることができるとされている)男性と女性のカップルだけができる「結婚」というパッケージ以外、法律では認められていない社会で、私は「(社会に想定される)パートナー」を得られるわけがない。恋愛を一切持ち合わせていないアロマンティック、性行為への欲求がないアセクシュアル寄り、惹かれる相手のセクシュアリティはパンセクシュアル傾向という私には、無理に無理を重ねても無理だ。
私は確かにパートナーを持つべきという規範に乗れない。しかし今のこの状態で満たされているし、パートナーがいないことだけが孤独の原因ではない。Aceというセクシュアリティが世界からないことにされるから孤独を感じているのだ。


・アセクシュアルは誰のもの/こと?

この漫画を読んでどう感じた?と親しい仲間(私がAceだとカミングアウト済み)に漫画を見てもらって、上記のような私の考えを言ったところ、


・言葉足らずなところはあるけれど、絵で伝えられることが漫画の醍醐味であり力ではないのか
・漫画というストーリーの作り方的にはあまり違和感はない、そういうラストもありだと思った(あれはアセクシュアル全体の話ではなく「アセクシュアルの厚樹」の話だと感じた)
・性嫌悪のシーンはAじゃなくても嫌というのは納得

という感想を貰った。

これらを聞いて難しいなと思ったのが、漫画という媒体で伝える、表現する、ということだ。私は小説、ノンフィクション、雑誌に至るまで、またインターネットで情報を得る時にも、文字がメインで構成されるものばかりを好んで読んできた。漫画のカルチャーに対しては無知で、文字での説明だけでなく、絵(のみ)でも表現されることに慣れていない。漫画という表現の媒体をほとんど通ってこなかったから、漫画にどれだけを求めていいのかわからない。絵と文字で構成される漫画に対し言葉の説明量を増やすように要求するのはお門違いなのだろうか。確かに厚樹の表情からは孤独、怒り、苛立ち、苦しみが滲み出ている。それに、確かにあれは厚樹の物語でありA全体の話ではない。啓発マンガではなく、ただ厚樹の日常や人生を描いていて、そして厚樹はアセクシュアルだった、という話だったのかもしれない。



では、読み終わって胸が押し潰されるようなこんなしんどい思いをする作品って、何?感じなかった訳ではないが、私はそこまで読んで不快にはならなかった。代わりに、ものすごくしんどくなった。こうやって、アセクシュアルやアロマンティックが存在していない相手に説明を繰り返して、理解してくれたり否定しないでいてくれる人ももちろんいるけど、説明する度に悪意のない偏見や無理解にぶち当たってひっそりしんどくなるのも、そのせいで自己紹介が嫌いになるのも、アセクシュアルやアロマンティックに対しての無理解や偏見を無邪気に表明されるのも、紛れもなく私の日常だ。あの漫画に救いを求めることはしない。ただ、間違ったことは言わないでほしい。私は厳密な区別ではなく、誠実な判断の上でアセクシュアルを描いてほしかった。

なんでこんなにもやもやする、しんどい思いが消えないかというと、やはりあの漫画に無意識であっても偏見を忍ばせているからだと思う。漫画が描かれた経緯はわからないし、描く上で何をどう調べたのかもわからない。作者のセクシュアリティだってわからない。



アセクシュアルは、そしてAce界隈は、まだまだ当事者の言葉が足りなすぎるセクシュアリティだ。相変わらず性愛と恋愛は一緒くたにされ、「ない」と選択としての「しない」は混同され、一人で孤独な奴、とされる。また、選択的夫婦別姓や同性婚の報道を見る度に、これらが認められない社会はおかしいと憤ると同時に、結婚に至るための性愛や恋愛を不自由なく持ち合わせていて、人を好きになることに疑いを持たずにいられて、生きやすそうでよかったね、と卑屈になる自分にとてつもなく嫌悪感を抱くのも、親しい人が恋愛の話をしているのを聞いて辛くなるのも、セクシュアルマイノリティとして括られているレインボーに怒りを向けるような人間で、そこに一切の帰属意識を持たず、でもそこにいる仲間を裏切っているようで申し訳なくなるのも、Aceである私の事実だ。どうしたってこれらを大々的に声を上げるのは憚られる。今の社会に対して前向きになれないし、正直なりたくもないのだ。

だから、アセクシュアルを描くのなら、我々が社会に対して感じている怒りや思いを聞いてほしい。自分の思うストーリーにアセクシュアルを使うのではなく、今実際に社会に生きているアセクシュアルの言葉を聞いてほしい。文献を読むのでもいい。「アセクシュアルのすべて」がおすすめだ。どうか、今実在している我々を無視しないで。今の社会と同じように、我々からアセクシュアルを奪わないで。