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当事者性を放棄できない痛みの神殿とエース・ローを待ち焦がれる園芸用手袋 : 『ディスコ エリジウム ザ ファイナル カット』感想

原語版のPVを見たときから楽しみにしていた『ディスコ エリジウム ザ ファイナル カット』の日本語版をいざプレイしてみたところ、予想どおりその世界観設定やキャラクター描写は琴線に触れまくる素晴らしい表現で埋め尽くされており、誇張抜きで寝食に弊害を及ぼすほど面白すぎて痺れるくらいの感銘を受けてしまった。本当に素晴らしいゲームだった。なので、ハードコアモードを含め5周ほどプレイした体感が薄れる前に、個人的な備忘録として感想をしかとしたためておきたいと思う。

当記事は未プレイの方が読んでもちんぷんかんぷんな内容になるかと思われますので、もしこの時点で少しでもディスコエリジウムに興味を持ってくださったのであれば、本作の日本語版発売に合わせて10回に渡り公開された『doope!』さんの素晴らしい特集記事をぜひ読んでみてください。本編内容のネタバレを上手に回避しつつディスコエリジウムの魅力がしっかりと紹介されているので、今すぐプレイしたくなること請け合いです。

▲『doope!』さんの素晴らしい特集記事

※以降はゲーム本編ラストまでの様々なネタバレをガッツリと含んだ内容となります。ゲーム本編が膨大なシナリオテキストを有しており、それを網羅とまではいかないもののそれなりにやり込んだ上で色々と語りたくて仕方がないので、1周クリア済みの方であっても未取得の要素に触れる可能性がかなり高いです。未クリアの方はもちろん、クリア済みであっても引き続きご自身のプレイを大事にしたい方は読まない方がいいかと思われます。また、言わずもがなですが以降の感想や考察は完全に私の独断と偏見でしかなく、“正解”がどうこうといった提言をするつもりは毛頭ございません。初見時における自身の高揚感を可能な限り言語化し、今後ディスコエリジウムという素晴らしいゲームを思い返し何度も反芻したいがために書き残す妄言のようなものです。ご自身のプレイ体験を何よりも大切に抱えつつ、(やたら長いので)ひとつの読み物として暇なときにでも読んでいただければ幸いです。ちなみにプレイしたのはSwitch版です。

日本語版の製作に携わった方々に深い感謝を

とにもかくにもまずは日本語でプレイできるようローカライズに注力してくださったすべての方々に頭を下げて腹からの声で「ありがとうございました!」と伝えたい。ひたすらにテキストを読み進めるディスコエリジウムの仕様を考えると、素人の自分でもローカライズにかかる労力が他のゲームと一線を画するものだということは容易に想像できるため、(オリジナル版の製作に携わったクリエイターたちへの感謝は前提として)このゲームについて考えたとき一番最初に出てくるのはやはり翻訳をはじめとしたローカライズの仕事をやり遂げてくださった方々への深い感謝と畏敬の念である。英語がままならない私にとって、日本語版のリリースがなければそもそもディスコエリジウムというゲームに触れることすらできなかったと思うので、本当にありがたいの一言に尽きる。海外のゲームをプレイするたびにローカライズへのありがたみをかみ締めてはいるものの、本作はその物量を考えると気が遠くなるレベルであり、そして何よりその神経を行き渡らせて翻訳された文章こそがゲームにおける最大の魅力でもあるため、心から謝意を表するとともに「次回作も何卒よろしくお願いいたします!」とすがり付くような思いを抱いてしまう。

▲翻訳の監修を担当された武藤陽生さんがディスコエリジウムの翻訳について解説している動画。オリジナル版(原語版)の魅力を深く感じ入っている翻訳者が監修した洋ゲーをプレイできるというのは、いちプレイヤーとしてとても幸運なことだと思う。本当に感謝しかない。

脳内の事情を白日の下にさらされた主人公の
うそ偽りない“いじらしさ”

本作には様々な魅力がたっぷりと詰め込まれているが、私が惹かれた一番の魅力はなんといっても主人公の所作・反射・思考・感応にまつわる刺激的かつバリエーション豊かな文章表現の素晴らしさだ。特に読んでいるこちらが気まずくなってしまうほど包み隠さず具体的に描かれ続ける主人公の脳内描写は、“読む栄養”といってもいいくらい一文一文が独特で印象的だった。本作の文章表現(シナリオテキスト)が独自性の強い魅力を発揮していると感じられた大きな要因は、ざっくりと分けて3つある。

まず第一の要因はゲームシステムの仕様として“主人公ハリーの内面が24以上もの多種多様な見解によって描かれている”という点だ。様々な事象がその都度24+αの見解(スキル)によって語られるシナリオ構成となっており、何かしら事が起こるたびに複数の情報が多角的に飛び込んでくるため、初プレイ時はその情報量の多さやどの見解を信用すればいいのかといった戸惑いによりプレイヤーの意識はあっちこっちに振り回される。本編序盤で味わうその“わけのわからなさ”は「まったく識らない世界にやってきた」という緊張感と高揚感そのものでもあり、記憶を無くした主人公と同じ歩幅でエリジウム世界のことを徐々に識っていくというある種の追体験はゲームへの没入感を一気に深めてくれた。そういった“情報の量と具体性に飲み込まれてあっけにとられる感覚”や“早く識りたいという気持ちを呼び起こす文章そのものの興味深さ”こそが、本作の根源的な魅力なのだと思う。理解と不可解を行き来しながら本編を手探りで進めていくうちに、ハリーを助けたり混乱させたりする“見解たち”にはそれぞれ固有の役割や機能が振り分けられており、それらはもはや“人格”と呼んでもいいくらいに作り込まれているということが分かってくる。それに伴い、そのうるさいほどに細やかで濃厚なインプット表現こそが、ハリーの危うげな感受性の強さや刑事としての優秀な観察眼を物語っているのではないかという実感も強くなっていく。そのようにして事件の捜査と主人公自身の現状把握が同時に進行するシナリオ展開にはとても好奇心がそそられるし、とにかくどの文章表現も(たとえ使われている単語自体が下品なものであっても)いちいち耽美的かつ興味深いので熟読に飽きがこなかった。いわゆる“脳内会議”の表現自体は様々な創作物を通して何度も見てきたものであり別段目新しいものではないのだが、本作が有する尋常ではない情報量の多さを的確に制御しつつ、効果的なミスリードや誘惑を交えながら、各見解の細やかな“キャラクター設定”を主人公の置かれた状況や秘めたる内情と複雑に絡ませることで常に“テキストそのものが魅惑的で面白い”という状態を維持し続けるその文章の圧力には、正直ちょっと怖いくらいに感動を覚えた。ひとりの人間に備わった脳や身体の各機能に対して個別に愛着を持つことでその人の内面をとことん具体的に慈しむという体験は、実生活の中ではそうそう獲得することのできない奇特な体験だったので、それが味わえただけでも本作をプレイして良かったと心底思う。自身の中に“他者(キャラクター)を慈しむ技法”の引き出しが増えることは創作物を愛する者にとってとても喜ばしいことなんだと痛切に実感できた。それが本当にただただうれしかった。複雑な情報を複雑なまま、入り組んだ事情を入り組んだまま次から次に与えられる感覚は、誰かに精査され端的になりすぎた情報ばかり浴びることに慣れてしまった現代人の脳にはかなりカロリーが高い。しかしテキストを読み込むことで入力情報の多さは段々と快感に変わり、いつの間にかできるだけ多くの見解が介入するやり取りを望むようになってしまうのがこのゲームのすごいところだ。しかも割り振ったスキルポイントや固定化した思考によって介入してくる見解や選べる選択肢が増減し、それに付随してシナリオの流れややり取りの内容も絶妙に変化するため、プレイスタイル(ゲーム開始時におけるステータスの振り分け)の違いによって物語やキャラクターたちの見え方(見えている面)も変わってくるという仕様なのが心憎い。臨場感という意味でも様々な見解に介入されることでシナリオテキストが賑やかになっていく様はとにかく愉快で楽しい。個人的にはハリーが興味を持っている対象の味やにおいを感じ取ったときの表現が特に好きだ。ハリーがキムのジャケットのにおいを嗅いだときにわらわらと犬のように集まってくる“電気化学”、“知覚(嗅覚)”、“修辞学”たちのやり取りは本当にかわいくてほほえましかった。“知覚”がかわいいなどと自分でも妙なことを書いていると思うが、これが本作の大きな特徴であり、他にはなかなかない魅力なのだと思う。

続いて第二の要因は“客観的意見を装った二人称視点や地の文らしき文章も含め、すべての文章が結局のところハリーの一人称視点(脳内処理)でしかない”という点だ。本作は前述した通り24の見解(スキル)に加え、“古代爬虫類脳”、“辺縁系”、“脊髄”からの“語りかけ”によってシナリオが進行する。この二人称視点ともいえる成り立ちがTRPGにおけるゲームマスターとプレイヤーの関係を踏襲していることは想像に難しくはないのだが、本来固有の人格を持っているはずのないものたちから偉そうに「お前」と呼びかけられる感覚は極めて斬新だ。しかも本編においてプレイヤーが読むシナリオテキストは基本的にすべてハリーの脳内に存在しているため、ハリーの身体の外で起きた物事を客観的に語る二人称視点としての見解も実態としてはハリーが知覚し認識していることでしかない、という“疑念”がついて回るような感覚が本作特有の面白みになっている。簡潔な例を挙げるとするならば、キム(本編中もっとも共有している時間の長い他者)からの好意的な反応が二人称視点や地の文として事実かのように描写されていたとしても、それがハリーの願望でしかないという可能性を捨てきれない、ということである。こうした“ハリー以外のキャラクターに関する描写にハリーの意思や欲求が紛れ込んでいる”という事実が、想像以上にハリーの人となりや現在の内情をむき出しに描いており、それはもはや彼を残酷なほどに辱めているといっても過言ではなかった。また、様々なやり口で自分自身の記憶や心情に対して一線を引いて逃避し続けているハリーがついつい「あなた」としてシナリオテキスト内に登場し、本音をポロリと漏らす瞬間があるのも本作の面白みのひとつだと思う。「あなた」と表記されているせいでプレイヤーはその一文をまるで自分自身の思考かのように錯覚させられるのだが、これは紛れもなくハリアー・デュボアというキャラクターが唯一“直接的”に自身の感情を露呈させている瞬間に他ならない。こういった“口を挟まずにはいられなかったハリーの本望”が丸裸で現れるたびに、彼の無防備な痛々しさや心根の優しさが伝わってきて、それがたまらなくいじらしかった。ほかの語り手(のように見えるハリーを分解した存在)やハリーが妄想する仮想キムにもいえることだけれど、彼らはなんだかんだ厳しい態度を取ったりしながらも基本的にはハリーのことを“大切にしよう”としている。この複雑怪奇な構造を用いた“ハリー本人が自分自身を大切に扱おうと努めている”という表現こそ、私が本作を愛してやまない大きな理由のひとつになっている。なぜなら、自身の男性性に中毒を起こし深く傷ついた中年男性が必死に自らを改め、接待を放棄し、他者からの恩に報い、自身を健全に愛そうと努める姿は、現代において意識的に“応援すべき姿勢”のひとつであると常々感じているからだ。何よりストリートギャングから体育教師を経て刑事になったというホモソーシャルの権化ともいえるハリーの経歴を考えると、自らの存在価値に致命的なダメージを負っているタイミングでキムのような“生得的な素養により幼少から痛い思いをしてきたが故にタフなアップデートを済ませている頑強な男”に出会えたことそれ自体がハリーの現状をよりドラマティックにしているようにも思える。本作に学ばせてもらったことはたくさんあるが、この“二人称に擬態した一人称という複雑かつ特殊な文章表現にはそのキャラクターの秘めた痛みや欲求を徹底的に暴いてしまう働きがある”という発見は自分にとってとりわけ大きな収穫だった。また、こういった“剥き身にされたキャラクターの心情や秘匿したい事実を常に覗き見している”という体感が文章表現をより一層耽美的に魅せており、ときとして官能的だとすら感じる場面も多々あった。キムやタイタスの手に触れるときやリリエンヌの隣に立っているときに見えるハリーの身体的な繊細さや感受性の強さは、彼の多少痛々しくも前向きな“他者に対する好意の抱き方”が見事に表現されていた。また、山場のひとつである吊るされた男の検屍シーンはいっそ“濡れ場”といってもいいほどにハリーと死体の接触が肉感的に描かれており、劇中でも抜きん出て彼の性的な素養が際立っていた。そうしてハリーの内側を覗き続けていると彼の激しい自慰行為を目の当たりにしているかのような気まずさと背徳感が湧いてきて、ゲームの構造やインターフェイスそのものがひとりの中年男を好色な視線で取り囲んでいるような、そんないかがわしいイメージを抱く瞬間もなくはなかった。とういうか、大いにあった。このいやらしい感情については、“記憶喪失状態である自身を捏造した”という前提がなおさらハリーの“防衛本能”を赤裸々にしてしまっているという点も含め、制作陣の“嗜好”も少なからず関与しているのではないかと勘ぐってしまう。しかしだからこそ、今生の別れになるかもしれない銃撃戦の中、(ラストシーンにおけるトラントの発言から察するに完全なウソではないものの)自身のついていたウソをキムに白状するハリーの唐突な選択に暴力的ともいえる強いカタルシスを得てしまうのだろう。ハリーの自己防衛や祈りにずっと寄り添い続けたからこそ得られる痛みを伴った感動こそが、このゲームを通して味わえる旨味であるとつくづく思う。
※ただし、“団結心”によって語られることだけは完全に神の視点で語られているとしか思えないので、例外的にそのまま“事実”として解釈してもいいような印象を受けた。この辺についてはプレイヤーの解釈に一任されているような気もする。

そして第三の要因は“ハリーの思考を通してしか、他のキャラクターの人となりを識るすべがない”という点である。これは第二の要因とほぼ同じ仕様を指してはいるのだが、前述したものとは逆説的な指摘になるため分けて語ることにした。より端的にいうならば、赤裸々に描かれるハリーの思考とは裏腹に他のキャラクターにおける思考や感情が確定的に描写されることがない、ということである。前述したとおりこのゲームのシナリオテキストはハリーの一人称視点と二人称視点を装ったハリーの思い込みで成り立っている。なのでプレイヤーはハリーの感受性や欲望を通してしか他のキャラクターの心情や反応に関する情報を得ることができない。いうなればプレイヤーにとってハリー以外のキャラクターに関する情報は“口に出された言葉”以外“事実”がないのである。口に出された言葉にすらハリーの手垢が付いているのだとしたら物語は破綻してしまうので、そこはハリーを信用するしかない。だが、各キャラクターに対する“印象”については常にハリーが先に干渉してしまうため、結局は彼の解釈だけを受け取ることになる。これはこのゲームに限らず登場キャラクターの一人称視点で書かれた文章には必ず発生する“不確定事項”であり、叙述トリックなどでも使われている不透明性を利用した普遍的な仕掛けでもある。しかし本作が主人公を操作してあちこちを探索し、様々な他者に話しかけ物事を識りながら事件の真相を追求していくゲームである以上、他者の本意を探るためにアル中でジャンキーな記憶喪失はちゃめちゃオジサンを媒介にしなければならないとなると、その寄る辺のなさたるや相当なものなのだ。だがしかし、その“確信の持てなさ”こそが深い感情移入によって主観的に物語へと没入できる要因になっているのだと感じられる場面も多々あって、そういった体感が本当に面白かった。ハリーを完全に頼ることができないからこそ彼を信じてあげたいという気持ちが芽生え、「それでいってみよう」と背中を押したくて彼の手を握るように選択肢を選ぶあの感覚。現実の世界と同様に“他人の思惑や感情を100%読み取ることは不可能”といった制約的体感をシナリオテキストの仕様を通して実感し続けることで、プレイヤーからハリーへの“憑依”がスムーズになるとでもいえばいいのか。そうした“信頼するには心もとない主人公の脳内から出られないという制限により他者を他者としてより強く認識し続けなければならない”といった感覚がプレイヤーと主人公(操作キャラクター)であるハリーを強く結びつけているように感じられた。他人に対する少々みっともない願望や祈りを共有することで、ハリーへの共感や愛着が着実に増していく感覚はとても艶かしくグロテスクだ。“まるでたくさんの他人かのような自分自身に囚われたまま他者の言葉と接していく”という感覚は現実世界のやりきれなさやきまりの悪さを彷彿とさせる。まさにこの体験こそが“ロールプレイ”の醍醐味であり、能動的にゲームを愉しむことで得られる特別な興奮なんだと、本作をプレイすることで改めて深く思い知らされた。

「識らない」が担保する期待と安堵、
「識りたい」がはらむ憧憬と畏怖、
「識っている」が増長させる非当事者たちの錯覚

※ディスコエリジウムについて語るときはどうしても“知る”ではなく“識る”の方を使った方が適切な気がするので、この感想文では“識る”の方に統一してあります。

ものすごい量の設定情報によって細密かつ具体的に描写されるユニークな世界観や、諦観が漂う生々しい社会構造も本作の素晴らしい魅力だ。現実の社会問題がそこかしこに落とし込まれているため、本編序盤は識らない言葉や事象と出くわすたびにそれが現実社会におけるプレイヤー自身の知識や経験不足によるものなのか、それともゲーム内の舞台設定における主人公としての情報不足によるものなのかが判断できないといった状況も少なくなかった。前項でも似たようなことを述べたが、このように物語の開始とともに記憶喪失状態のハリーとプレイヤー自身の“何も識らない”という状態が同期されることで、ハリーと一緒に超綿密に作り込まれた世界の成り立ちをゼロから識っていくためのお膳立てが整うわけだが、私はディスコエリジウムが与えてくれるゲーム体験の中でもとりわけこの“まっさらなゲームスタート”が非常に好みであり、プレイ開始直後にこうして主人公共々“何も識らないという状態に置かれる”ことは本作が持つ重要なテーマのひとつなのではないかと勝手に解釈している。同時に、エリジウム世界における大きな固有要素である“識域”の存在が人々にとっての憧憬や畏怖の象徴として描かれていることにも、何かしらメッセージが込められているように思えてならない。「識らない」という状態のもどかしさを否が応でも深く味わうからこそ「識りたい」という欲求や憧れが膨れ上がり、「識っても大丈夫なのだろうか」という恐怖や「正しいことを識れているのだろうか」という不安と向き合いながら、時には「識ってよかった」と安堵や満足を覚え、また時には「識らなきゃよかった」と後悔させられる。このプロセスの繰り返しはまさに“社会人になる”であったり“新しい人間関係を築く”といった、現実社会における“閉じこもっていた自我を外界にさらす”ときの肌感覚に近しく、われわれプレイヤーはそんな身につまされるような体感を抱えながら、強い痛みによって自分自身から逃亡を図ろうとするハリーをどうにかこうにか“日常”に引っ張り戻さんとキムと一緒に奔走するのだ。こうして本作を通して得られる“誰かの苦しみを見つめながら危険なほど近くで寄り添い支え続け再起のために背中を押す”という体験には筆舌に尽くしがたい庇護や慰めの精神、もっというと慈愛のようなものが宿っており、私はそういった気持ちを疑似体験できたことに心から感動したし、社会性の乏しいアラフォーオタクオジサンとして自分自身もどこか救われたような気持ちになった。「劇的でも完璧でもない日常に戻れ!その是非は考えても仕方がない!それしかないのだ!お前は間違っていない!」という激励や鼓舞は一見かなり“どうしようもない”けれど、そのどうしようもなさと共存することでしか得られない優しさや本質的な安堵があることも私たちは“識っている”。そういった“プレイヤーが識っていること(持っているもの)”を信頼していないと挑めないような表現がディスコエリジウムにはこれでもかというほど詰め込まれていた。

また、本作はシナリオの構成や遷移という観点から考えても“識らない”と“識りたい”のバランスが本当に絶妙で、ミステリ作品としての高揚感も十二分に味わうことができる。本作はとにもかくにも文章を熟読することと格闘しなければならない。膨大な情報を具体的に取り込み、精査し、ひとつずつ丁寧に理解して先に進むという労力を支払った先に様々な見返りがある。この快楽は読書にも通じるが、次に読むべき文章が自動的に提供されるわけではなく、プレイヤーが行動したり選択したりする先に次の文章が出現する仕様となっているため、ロールプレイングゲームである本作の方がより文章を読む(識る)という行為に能動的であり続ければならない。なので、未知が故に期待を込めて読み進めた大量の文章が望んでいたものとは違うところに行き着いたときのやるせなさは結構なものだし、既知の積み重ねによって確信を持って選択したことに核心を突くような一文が返ってきたときの気持ちよさはひとしおである。そうして“識っていることが増える”という充足感と“識らないことが減っていく”という喪失感の相互性を鮮明に痛感できるのも本作の魅力だと思うし、本作が書籍ではなくビデオゲームとして生み出された意図であり意義のようにも感じられる。また、テキストの量や設定の細密さを考えると途中でくじける人もそれなりにいそうな本作だが、このご時世にひたすら文章を読ませるビデオゲームを世に出すこと自体が、“識ることに対する能動的な執着の重要性”を問いかけているような気もする。脳を介して得る興奮や知識を必要とする快感は、手間のかかる情報の精査や地道な思考を積み重ねた先にしか存在せず、実体験としてのフラストレーションが伴わないと知覚できないカタルシスがあるのだということを思い知らされるような場面は劇中何度もあった。

それだけにとどまらず、“識っている”という自負からそういった当事者性(実体験)が抜け落ちると一体どうなってしまうのかということについても一切手を抜かずに描き、急所を狙うかのように突きつけてくるのが本作の恐ろしいところである。こうした“当事者性の欠落した知識”に関する描写もいたるところに散りばめられており本編中幾度となく実感できるのだが、劇中もっともそれを体現していたのがワイルド・パインズの交渉役であるジョイスだったと私は感じている。ジョイスは登場人物の中で誰よりも教養があるように感じられるし、ウルトラリベラルである彼女はマルティネーズでは考えられないほど豊かな教育環境で育ったであろうことも容易に想像がついた。記憶を失った無知なハリー(と、そのプレイヤー)がジョイスの助力を仰ぐ必要性に迫られることからもわかるように、彼女は本作においてキムよりも格段に“ガイド”の役割を果たしている。よくよく考えるとジョイスのような立ち位置のキャラクターほど疑った方がいいのはある部分ミステリ作品における定石でもあるはずなのに、なぜ彼女の言葉はあんなにも“事実”として受け入れやすいのだろうか。実際、物語の一部始終を見届けた後に思い返してみても、あえて言わなかったであろうことや解釈の相違はあったとしても彼女が口にした言葉にうそはなかった。しかし、警戒心がもっとも高まっているはずであろう初プレイ時の自分が、あれほどジョイスの言葉を素直に頼ってしまったということをゲームクリアを済ませた今考えると少し怖くなったりする。このように彼女の言葉が信ぴょう性を持つと感じた理由について改めて考えたとき、私の中でもっとも強く思い当たるのが彼女の一貫した“非当事者性”なのである。劇中ジョイスがマルティネーズに滞在しているのは自身の失態を最小限にとどめるためであり、人の血が流れるようなことが起きてほしくないといった人道的であろうという姿勢は感じられるものの、あくまで彼女は自身の仕事のためにその財源であるマルティネーズの現状を悪化させたくないと考えている。その上で彼女はそんな自身の打算をはっきりと開示し、そうすることでハリーたちからの信用を得ようとすらしてくる。彼女は自身を過度に擁護しようとしたりはせず、現状水面下で起きていることを淡々と“説明”してくれる。そういった感情面での執着や羞恥心が抜け落ちたジョイスの姿勢によって彼女の信用度が高まるという現象は言語化するとどこか奇妙な感覚だが、このように“非当事者であることが信ぴょう性を演出する”という現象はSNSが普及した近年では頻繁に見かける光景なのではないだろうか。Twitterなどでトレンドに上がる話題においても、当事者が生々しい(多少攻撃的かつグロテスクですらある)憤りや嘆きをぶちまけた投稿よりも、非当事者が冷静に批評した(ように見える)投稿の方がより多くの賛同を得ているなんてことは往々にして目にするものだ。嫌味に近い自戒としてこれを述べるが、それらの現象は厳密にいうと“自身にとって気持ちのいいもの(安心できるもの)を選択させられているだけ”なのだが、にもかかわらず複数のソースを照らし合わせたり根拠の整合性について自分の頭を使って考える習慣のない人たちの多くが“非当事者による冷静で中立的な批評(のように見える個人的な意見)”を何かしらの“正解”として取り扱ってしまい、結果当事者たちが混沌の中からなんとか絞り出した実情の方が封殺されてしまうといった気色悪い事態に陥ることも珍しくない。部外者(第三者)が当事者たちの具体的な内情を知る由もないことですら、逆張りアピールや仮想敵を攻撃するための足がかりとして利用する人が後を絶たないのは、それだけ“自身が発信した机上の空論が誰かのオナペットとして消費されることで得られる快楽”の費用対効果が高いからだ。インターネットで拾ったそれらしい意見をコピペ改変するくらいの労力を払えば非当事者として、特に匿名の非当事者として当事者たちにマウントをとることは“誰にでもできる”し、同じ穴のむじなが多ければ多いほどその“承認の実感(承認の規模や数)”は増していく。一度身を委ねてしまったその安全安心安易な自慰行為の渦から自身の意思で脱出することはなかなかに難しいし、定年退職により社会からの承認手段を失った人たちが延々とテレビに向かって偉そうな説教を吐き続ける習慣と同様に、“自身の価値を実感できる機会がない”人たちにこそ、この手の自慰行為はより強い中毒性を発揮してしまう。日頃から恐怖や危機感を覚えている事柄なので少々長い脱線をしてしまったが、本作のプレイヤーである私が初プレイ時にジョイスの言うことを“案内役”としてなんの抵抗もなく受け入れてしまったことを後になって怖いと感じたのには、こういった“当事者性に目をつむることで得られる安心感”を無自覚に頼っていたことに気付いたからだ。“頭の良さそうな人”から事情の上澄みだけを理路整然と語られると、いつの間にか自分自身で内情を究明してやろうという猜疑心や執着はそがれ、なんとなく全貌を識った気になって安心感を抱いてしまうのが人の常だったりする。でも、それはとても怖いことのはずだ。非当事者が語るいかにも冷静に物事を考察しているような論理的な言葉というのは、常に安心を求める人間の心理を非常に気持ちよく寝かしつける。しかし、“識る”ことがもたらす本質的な価値や意義とはハリーとキムが成し遂げたように当事者たちの複雑極まりない内情の奥の奥まで深く執着し、どうしようもないものがどうしようのないものとしてそこに存在する事実を能動的に受け止めた先にあるのではないだろうか、ということを私は本作のプレイ体験を通して強く感じた。ジョイスから聞き出した情報は実際ゲームをプレイする上でしっかりと役に立ったし、ハリーを助けてくれたのも事実だ。それでも、彼女の言葉は結局事件の渦中にある当事者たちにはとても届きそうになかった。なぜなら問題の実情や内情というのは常に混沌としており整合性を確立できないほど“感情的に支離滅裂”だからだ。そうして内包された複雑さと向き合うことが非当事者であるジョイスにとって一銭の得にもならないことを私は心のどこかで感じ取っていたからこそ、彼女の言い分を“説得力のある言葉”として受け取ってしまったのかもしれない。そのことを踏まえると、ジョイスの素性を確認するためにレヴァショール生まれの彼女がヴェスパーのパスポートを持っていることを確認するくだりがとても示唆的に感じられる。ただ、ジョイスの人となりをフォローするというわけではないが、そんな彼女にもふと当事者性を垣間見せる瞬間があったことをちゃんと述べておきたい。娘たちに十分な教育と生活を与えてやるために今回の事件で大きな損失を出したくない(財源としてのマルティネーズを失いたくない)というジョイスの気持ちが彼女の実体験から得た教訓であることは一瞬感傷的になる様子から強く感じられた。こういった“熱の在り処”が明白に伝わってくる体感は、やはり高品位な文章力によるところが大きい。また、集合住宅の前に停泊していた前半と漁村に移動した後半とでは、ジョイスに話しかける際の物理的距離感があからさまに違うのだが、そういったハリーに対する身体的な距離の違いから彼女があの漁村に対して抱いている哀愁や郷愁の念が本物であることが伝わってくるような感覚はとても良かった。まあ、抗争が避けられないと判断した途端すごいスピードでマルティネーズを離れるところもジョイスらしいと言えばらしいのだが……。

こういった“置かれた立場”と“実際の居場所”の表現から考えると、やり口には賛同できないものの睡眠時以外あの場所を離れないイヴラートの方がジョイスよりもずっと当事者としてマルティネーズに執着していることがわかるし、銃撃戦の真っ只中に躍り出たハリーと“お互いの死を覚悟して”後を追ったキムの少々行き過ぎた当事者性の“気負い”に胸を打たれるのもうなずける。ハリーはジョイスに“優秀な手駒”として重宝されるほど知性や知識にあふれてはいるものの、彼は自傷とも呼べるほど深い他者との共感(もはや他者への侵入ともいえるほどの感応)によりリスク(当事者性)を痛々しいくらいに負っている。また、ハリーの背負うリスクとは毛色は違うものの、イヴラートも良い意味でも悪い意味でも自身の欲と野望を“賭けている”。しかしジョイスの知識はあくまで教養や情報でしかなく、前述したとおり当事者性を垣間見せるような感情を漏らすことは少ない。そんな彼女が“識域”に魅了されているのは、実体験として心身にためこんできた痛みや快感の量に満足していないからなのかもしれない。そう考えると、自身が体験できなかったことに憧れ、識域の中毒ともとれる状態に陥っているペイルドライバーはある部分ジョイスの成れの果てのようにも思える。ハリーとジョイスが頭脳では互いを認め合いながらも感情的な部分で相容れない感があるのは、この当事者性の有無によるところが大きいのではないかと思ったりする。とあるシーン(後述する“労働者階級の女”の項参照)にて他者の辛い姿を見たハリーが“意志力”から「お前の出る幕じゃない。彼らの人生は彼らが生きる」と釘を差されてしまうくだりがあるのだが、彼はそうして自身を引き止めなければならないくらい当事者の痛みに“引っ張られてしまう”男であり、同じく当事者性を重んじるキムがハリーを見捨てない理由もそこにあるのかなと私は感じている。ちなみにあの“意志力”の忠告には、無意識なパターナリズムに対する否定や抵抗も含まれているような印象を受けたし、本作は(医療の現場ではないにしろ)インフォームド・コンセントのような思考態度の大切さを説いているように見えるくだりも少なくないので、あの“意志力”からの戒めは特別記憶に残るものだった。そういったやり取りからもわかるように、正確には当事者ではないにしろハリーには自身を痛めつけてしまうくらいの想像力と感応力がある。それこそが“正しくない”面も多々見せる彼を見捨てられない人たちがまだ少なからず残っている所以なのだと思う。蚊帳の外にいる非当事者たちよりも痛みと憤りで煮えくり返った当事者たちが発露する熱の方に惹き込まれてしまうハリーを応援したくなる自分の体感はどうしたって無視できないし、その是非を問いにくい当事者の“どうしようもなさ”に対する共感や同情こそがフィクションとして描かれた社会や人間関係を疑似体験することの意義なのだと再三思い知らされ続けるのが本作の“すごみ”なのだと思う。創作物を真剣に愉しむということには自身には識り得ない痛みや理不尽を味わっている当事者たちの心情を想像するという習慣を根付かせるような、そんな修行的な効果もあるのではないかということをしみじみと考えさせられるゲーム体験だった。

また、ずっと行動を共にしてきたキムが捜査の総括としてプレイヤーの様々な選択を評価する形でハリーについての私見を語るくだりは本作の“オチ”ともいえる重要な見所となっているが、かなり具体的かつそれなりに辛辣な評価を述べながらもまだまだ“ハリーのことを把握できていない”ということがじんわりと伝わってくるキムの語りが好きすぎて、何度クリアに至っても毎回あのくだりは飽きることなく感極まってしまう。ハリーの脳内を覗き続けていたプレイヤーからすれば「キムの洞察力もまだまだだね」とイマジナリー越前リ○ーマが登場してしまうのだが、その“把握しきれてない”という“不完全な理解”にこそ人間の愛おしさが詰まっており、なおかつ彼らの“これから”に様々な予感や妄想を残し尾を引くようなエンディングとなっているところが非常に粋だなと感じる。そして、互いへの不可解を残しつつもハリーが体育教師だったということに合点がいったときのキムの反応には、ひとつ年上のはちゃめちゃディスコ刑事に対する興味や好意があふれており、人が人を好きになっていく過程を見せつけられるようなほほえましさと照れくささに胸がいっぱいになる。あの「今思い返してみれば……」といった風にキムが捜査中のハリーにまつわる記憶を反芻している様子は、彼の中にハリアー・デュボアという男が居着いている証拠のような気がしてとてもお気に入りのくだりだ。それに対し、そんなキムの気持ちを識ってか識らずか、新しい相棒とのエース・ローやフィスト・バンプにまつわるハリーの思考には当事者としての心細さが「もうやめてくれ!」となるほど痛切に描かれており、私はハリーのああいった思考をたまらなくいじらしく愛おしく描くディスコエリジウム制作陣の“嗜好”がたまらなく好きなのだ。

帰属意識のために消費されるイデオロギー

本編3日目の就寝時に問われる選択によって分岐する4つの“政治ビジョンクエスト”も本作の興味深い特徴だ。前置きで挙げた特集記事でも述べられていたが、この政治ビジョンクエストは本作がどういったイデオロギーに属しているかの表明などではなく、“政治思想を拠りどころにすること”自体をこき下ろしまくるその様は(かのサウスパークのように)全方位に喧嘩を売っているとしか思えない内容となっている。これらのクエストに関わる会話や思考には様々な指摘や示唆が執念深く練り込まれており、そのシニカルで意味ありげなやり取りを深く理解するためにはより具体的な知識が必要となってくるため、私は自分の中にある漠然としたイデオロギーについての知識を改めて補強するべく図書館でいくつかの本を借りて勉強し、それなりの態勢を整えてから各政治ビジョンクエストに挑んだ。そして突貫とはいえ前もって知識を取り込んでおいて正解だったと、各クエストをすべてプレイしたあと強く感じた。そう痛感させられるくらい、どのクエストも各政治的イデオロギーの成り立ちや背景の知識をそれなりに要する濃厚なやり取りで描かれており、それぞれの政治的イデオロギーのメリットやデメリットをかなり具体的に問いかけるような内容となっていた。本作は理想としての共産主義と結果(失策や悲劇)としての社会主義の違いがまずはっきりと細やかに描写されており、民主主義とポピュリズムが実質的に似通っていながらも体裁的には明確な違いがあることを本編の端々で描き分けている。そうした共産主義の起こりから倫理主義や自由主義の台頭に至るまでの精細な歴史描写などは、それを本筋にしたかったんじゃないかと思えるくらい濃厚かつ具象的に(現実社会と直結しているかのように)描かれていた。それこそ、ネット上で散見される帰属意識の確保や共通の八つ当たり相手を捏造するためだけに“歴史を持たない空洞の政治的イデオロギー”を利用している方々が裸足で逃げ出すくらいの“腹黒い情熱”を感じる作り込みだった。しかも、その“帰属意識を錯覚するためだけに用いられる虚構のイデオロギー”についても相当鋭利な言及がなされており、コピペしただけの政治的イデオロギーを掲げている実体験の乏しいオルト・ライトやインセルたちへのまったく手を抜く気配のない“痛めつけ”が本当に恐ろしかった。その“傷付けの火力”たるや、そういった文面と出くわすたびに「勉強しておいてよかった……」と体が強張るほどだった。本作からは“思慮や自問自答を軽んじた知識の意図的な誤用乱用”に対する心からの軽蔑と嫌悪がふつふつと伝わってきて、頼もしいと同時にいつ自身が糾弾される側に回るのかヒヤヒヤするといった緊張感もあったりする。それはきっと前項で触れたことにも通じるが、「実体験の積み重ねや勉学および情報収集を怠った者が自身にとって都合のいいハリボテの知識を“正しさ”として振りかざすことは無知でいることよりも悪質である」という“敵意”に近い感情を表現の節々から感じられてならないからだと思う。そこが本作の面白みでもあるのだが、日本でも増殖しつつある詭弁を鎧とした“ネトウヨ”や“弱者男性”と呼ばれる人たちが本作をプレイしたら白目を剥いて泡を吹きながら失禁してしまうのではなかろうかと心配になるくらいの“押し潰すことを意図した圧”を感じる場面も多々あった。しかもそういった人々には救いや慰めの手が一切差し伸べられていない感も非常に残酷だった。以上のような熱気を実感しつつ、私が各クエストをプレイして感じたことをそれぞれざっくりとまとめてみた。

共産主義クエスト
「準備を整えろ」の雑感

本作においてある意味もっとも“実現不可能”なイデオロギーとして扱われているのがこの共産主義だった。というよりもそう感じるように作られていた、といえるだろう。なぜなら本クエスト中、共産主義は徹底して手の届かない崇高な“理想”として描かれているからだ。もはや本作における共産主義は主義(イデオロギー)というよりは“信仰”のようなものとして扱われており、最終的には“星々”に置き換えて語られることからもわかるように、“目指すべき価値のあるものではあるものの現実問題実現は不可能なもの”として存在していた。私はこの共産主義にまつわるクエストの「準備を整えろ」というタイトルがとても好きだ。共産主義の実現を夢みる(不可能だからこそ信じている)ステバンやエコーメイカーが、思考が生む強い力を信じながら来ることのないその日を夢みて読書会を続けるその様はまさに言葉通り“準備”と呼べるものだった。そんな彼らの姿はマルティネーズでは貴重な“若者の未来”を予見させるものであり、一見切ないながらもある部分政治ビジョンクエストの中ではとりわけ前向きな“日常性”が感じられる。マルティネーズのいたるところに爪痕を残す死や悲劇と根深い関係にある共産主義にまつわるクエストなのでかなりとがった内容なのかなと身構えていたのだが、本クエストがもっとも穏やかな内容となっていることが逆に痛々しさにも感じられるのが印象的だ。どんなに慎重に積み重ねたとしてもマッチ箱の山はいずれ崩れるようにできている。それでも密かにマッチ箱の山を積み重ね続ける意思が存在することを誰も咎められないし止めさせる権利もない。本来主義とは彼らの“準備”のように極めて内的なものであるべきなのかもしれないと考えさせられる感慨深いクエストだった。ちなみに、本クエストの最中に発生するハリーがキムに「俺たちの関係はかなり特別だよな?」と問いかけるやり取りは現状のふたりの関係性を色濃く物語るものなので個人的には必見のくだりだと思う。

ファシズムクエスト
「時間を巻き戻せ」の雑感

政治ビジョンクエストの中で唯一メリット(ポジティブな側面)を提示されることなく徹底して批判的かつ惨めな思想として描かれていると感じたのがこのファシズムクエストだった。本作におけるファシズムの概念は政治的イデオロギーという側面よりもファシズムが増長させてしまったエスノセントリズムやレイシズム、引いては教育の不備や全体主義的抑圧の反動として発生した様々な脆弱性(セクシズムやインセル問題およびトキシック・マスキュリニティ)の問題に焦点をあてていたように思う。より個人的な所見を述べるならば、本クエストは政治的観点やその性質ではなく、自身が帰属する民族や性別をひたすらに優遇しながら屁理屈をこねにこねて他の民族やイデオロギーをおとしめる理由を無理やり見繕うといった厄介な性質を持つ人たちが“なぜそうなってしまったのか”を問いかけるような、“人々がファシズムに陥ってしまう要因”の方を一切の手加減なしに描いていた印象が強く、前述した“腹黒い情熱”のすごみをもっとも感じられたのが本クエストだ。本クエスト一番の見所であるメジャーヘッドとの対談では、彼があれほどの理論武装を必要とする理由を嫌というほどうかがい知ることができる。というよりも、うかがい知らされるといった方が体感的には正しい。彼のひとりよがりなエスノセントリズムや「精液保持教会」だの「マスターベーション中毒更生会」だのといった独自の持論は相変わらず荒唐無稽ではあるものの、彼のゆったりとした口調や自信に満ちた態度によってその詭弁的な理論武装が何かまっとうなことを話している雰囲気を醸し出しているのが面白い。そしてその“なんとなく理にかなったことを言っていそう”な空気の演出こそが彼なりの処世術となっていたことが段々と透けてくるあの感覚は非常にグロテスクであり、本クエストの要点のようにも感じられた。その冗長すぎる話を素直に聞いていたハリーが途中からメジャーヘッドの奥にあるものを察して、ふと唐突に「全部俺の話しにするのはやめろ」と突き放す瞬間のあの気まずい空気感はなんとも言えない痛々しさがあった。クーノにまつわる描写にもたびたび出てくるが、本作が描く“脅威としての父性”はかなり生々しくてしんどい。メジャーヘッドが父親に虐待を受けていたのかもしれないという疑念が膨らんでいくくだりはなんだかとても悲しかった。自身のことを三人称で呼び続けたクーノの末路がメジャーヘッドなのかもしれないし、ハリーが失恋の痛みを鎮めることができないまま女性への憎悪や責任転嫁をひたすら肥大させ続けてしまえば、その場合もやはりメジャーヘッドのような男になってしまうのかもしれない。対談の様子を聞いてキムは茶化していたけれど、ハリーの言う“妙な気分”というのは、傷ついてる人に同調して「優しくしてあげたい」とか「なんとかしてあげたい」という気持ちになってしまうことを指してるような気もした。ハリーはメジャーヘッドが理論武装する理由もその必要性も深く理解していて、こじれにこじれたメジャーヘッドに対して何かしらの感応をしてしまったような、そんな印象も受けた。

また、道中のルネやトラック運転手とのやり取りも相当キツいものがあった。ルネが自身に根付いたセクシズムを「82年間自分の目で見てきたことを言っているまで」と話すくだりは、彼の言う「自分の目で見てきたこと」が下駄を履かされた男性たちの未熟な主観でしかなく、その視界を世界のすべてだと信じ続ける限り彼にとっての“事実”は揺らぐことはない、といった滑稽さに対する的確な指摘がなされていた。また、これは詳しく後述するつもりだが、ファシズムに傾倒していたルネが必死に抑圧していた“本望”のことを考えると、その痛々しさに声を上げて泣きたくなってしまう。

レイシストのトラック運転手とのやり取りにいたっては、インセル問題の成り立ちを救いの手を差し伸べることなく淡々と描いており、かなりいたたまれない気持ちになってしまった。トラック運転手の“何かを殴りたいのか、泣き出したいのか、決め切れないといった表情”という的確すぎる描写力が残酷極まりない。“倫理”による「進化、改善、努力…彼はそのどれにも興味がない。存在するだけで他者から愛され、尊敬されると思っている。しかし、世の中には彼のような男が大勢いて、女をひとり残らずめぐっての争奪戦がおこなわれている。あの態度で勝ち抜くのは無理だ」という指摘はあまりにも容赦がないし、「もっと早く愛に出会っていたら、ひねくれ者にはならなかったかもしれない。が、詮なきことだ」という“とどめ”の文章には「時間を巻き戻せ」というクエストタイトルの真の意図がぬん!と顔を出した感じがして「ひぃ!」と声を上げて正直だいぶ引いてしまったくらいだ。本クエストが性別に付与されていたハンディキャップの“返還”をしぶり続け駄々をこねるまくる“彼ら”に警鐘を鳴らしていることは火を見るより明らかなのだが、啓蒙にしては食いついた牙がするどすぎるしデカすぎる。“導く”というよりも完全に息の根を止めにかかってきている。レイシストのトラック運転手のように他責のスパイラルに陥り、セクシズムや責任転嫁に満ち満ちた幼稚で独善的な持論を毎日のようにSNSへ連投したりネット記事に仕立て上げたりして、それを“弱者男性”などとラベリングした同様に未熟なだけの同類たちとシェアハピすることで自身の本質的な問題から逃げ続けているどうしようもない男性たちは昨今日本国内にも社会問題となりつつあるくらい増えてきている。彼らはもっとも承認を求めている相手(女性)をひたすら攻撃し続けるという苛烈な自己矛盾の惨めさと正面から向き合えるほど頑強ではなく、“自身の人間的魅力を磨く以外道はない”というそれ以外ありえない現実と向き合うことができないでいる。その反面、非論理的かつ無根拠な言い訳を必死で見繕い続ける痛々しいその様からは、自分自身の“実情”と向き合わない限り性的な魅力からも遠のく一方であるということを内心では自覚しているようにも見える。本質的な意味で徹底的に傷つく勇気を持たない限りその地獄から抜け出せないことや人としての魅力を培えないことは、ある程度成熟した大人の目から見ればわかりきったことであり、“彼ら”に必要なのが“今現在の自身には魅力が無いという事実を心の底から受け入れ、個人としての魅力や知性をたった今から身につけようとする意欲と努力”であるということもわざわざ言うまでもない。しかしそんな弱りきった男たちに「ただただ邪魔くさくて迷惑だからさっさと消えてください」と言わんばかりの本クエストは、少々痛めつけが過ぎるような気もした。それともやはりここまではっきりと指摘して“彼ら”の逃げ場をなくしていかないと、本質的な改善にはならないのだろうか……。私自身も男体を持って生まれた個体であるため、自己矛盾や自家中毒に陥る弱さへの体感的同情をどうしても捨てることができず、本クエストの内容を読み進めていくのは正直だいぶ辛かった。本音を言えば、レイシストのトラック運転手のことをふいに抱きしめたいとすら思った。ハリーが鏡に映った“どうにもできなかった者の顔”と向き合うオチまで含めてとにかくしんどかった。ゲイの私にとってセクシズムやホモフォビアは相容れないものではあるけれど、それでも「そこまでやる?」というのが素直な感想だ。表現力の豊かさはどこまでも殺傷能力の高い武器にもなり得ることを再認識させられるようなクエストだった。(私が日頃から執着している“社会的抑圧によって性的フラストレーションを蓄積する男体の仕様”という議題をモロに考えさせられる内容だったためかなり長くなってしまった)

ウルトラリベラルクエスト
「懐が潤った男になれ」の雑感

4つのイデオロギーのうちもっとも収まりよくまとめられていたと感じるのがこのウルトラリベラルクエストだ。逆にいうともっとも“刺激が弱かった”クエストでもある。これは邪推だが、4つに色分けしたイデオロギーの中で現状もっとも現実社会に馴染んでいる(多くの人たちがその選択に関わらず身を委ねている)イデオロギーであり、なおかつ多様性の広がりが同調圧力を頼りに生きてきた先人たちを抑圧するなどといった現在進行系で難解な問題を抱えているイデオロギーでもあるため、明確な答えをメッセージとして伝えにくかったのかなと感じた。それ故に他の政治ビジョンクエストと比較するとかなりご都合主義的展開が目立つクエストでもあった。それが物語性としては小奇麗にまとまりすぎている理由なのかなと個人的には思っている。ただ、光を曲げる超大金持ちの男が言及した“金を持たない人間が自衛として発露する「金持ちは不幸せ」というレッテル”の話は結構残酷で耳が痛かった。彼に近づくと手持ちのリァルが急激に増える演出もかなり下品で良かった。それとは打って変わって違反切符まみれの銅像を前にキムと佇むシーンはとても耽美的だった。キムの「これを楽しめる僕らは“運がいい”」というセリフやハリーの(プレイヤーの)「“自分のために”いいと思ったからだ」という正直すぎる答えに本クエストの皮肉が集約しているようにも思える。また、本クエスト終盤に“修辞学”が述べる「正しい言葉を選択し、伝えることは、正しい批評を選択するくらい大事なことだ。人々は自身が得たあらゆるフィードバックによって自分自身を形作ってゆく」という言葉には、私が本作から強烈に感じている“当事者性の力”についての観念が強く宿っており、あのメッセージは個人的にとても気に入っている。そして本クエストの結びとしてイディオット・ドゥーム・スパイラルがさらっと口にした「それがまさしく俺に必要なものだった」という言葉はかなり胸に染み入るものがあった。本作はこういった人の本望に触れるような描写がとにかく良い。改めて反芻してみてもアートを題材にしているだけあって、やはりとても耽美的なクエストだったと思う。

倫理主義クエスト
「“責任(ラ・レスポンサビリテ)”を引き受けろ」の雑感

共産主義とはまた別の意味で“実態”を捉えることの難しさを感じさせられるのがこの倫理主義(モラリズム)クエストである。人の“善性”とは結局のところ何でありどこに宿るのかという難解な問いかけと向き合うような、かなり哲学的な内容となっていた。クエスト終盤の選択によって、もっとも胸くそ悪いクエストになるか、もっとも胸熱なクエストになるかが大きく分かれるのも本クエストの特徴だ。本クエストにおいても当事者性と非当事者性の対比がはっきりと描かれていたように思う。胸くそ悪い結末に行き着いてしまう選択肢はまさに“当事者性をないがしろにすることの危険性”を描いているように思えたし、本作における倫理の権化でもある連合はたとえ共感のレッド・スキルチェックを成功させたとしても事務的かつ冷酷な判断しか下さず、どうあっても空の上の非当事者であることに変わりはなかった。通信士個人がマルティネーズの現状に同情を示す反応には、まさに人間のグロテスクな偽善を見せつけられるような寂しさがあった。前項で触れたジョイスとの物理的距離感に関する表現にも通じるところだが、倫理の象徴である連合の連絡艇がマルティネーズに“着陸しない”という描写も非常に示唆的だと感じた。また、マルティネーズに住む青年と関係を持ち、北端の小さく貧しい地区へ実際に“足を運んでいる”サンデーフレンドが本クエストに関わっていることにも連合の振る舞いとは逆の含みがあるように思える。本クエストで描かれる様々なやり取りは、倫理や道徳と呼ばれるものの“所在”とそれが恩恵をもたらす“対象”を常に問いかけてくる。だからこそハリーがキムに「“これ”がすべてだとしたらどうする?」と問いかけるあのくだりが本作屈指のクライマックスシーンになり得たのだとも思う。あの問いかけに普段と変わらず地に足のついた「当事者でありたい」という実直な答えを返すキムの姿は本作が訴えかけるメッセージそのものだと感じたし、あの呼びかけは劇中でも群を抜いてキムの格好よさが光るくだりでもある。それに対し所在不明な机上の倫理よりも自身の置かれた“実情”を選ぶハリーが示したどうしようもないほどの当事者性がさらに胸を熱くする。ハリーの言う“これ”について考えれば考えるほど胸が高鳴る素晴らしい“山場”だった。連合から投げられる最後の質問が「貴君はひとりだったか?」という問いかけなのが本当に素晴らしい。その質問に否定を返すことでソーナやアンドレたちにも何かしら連合の手が回るのではないかという懸念も含め様々な考えが頭をよぎるものの、どうしても「いいや」と答えたくなるあの感覚。あれこそがプレイヤーがディスコエリジウムというゲームをプレイすることで得た放棄することのできない“当事者性”そのものなんだと思う。あのタイミングであの問いを投げかけられることで本作の道中で培ってきた他者との繋がりを思い知らされるという体感、自分自身が痛みの神殿として存在しているような逃げ場のなさ、オタクの大げさ表現抜きに鳥肌が立ってしまった。政治ビジョンクエストはどれもよく作り込まれていると思うけれど、個人的にはこの倫理主義クエストがもっとも感情の“高ぶり”を覚える内容だった。

“勤務時間外”の男たち

同性愛者地下クラブメンバーの私としては、耽美な文章によって描かれるハリーの“揺らぎ”のような感情表現も本作の魅力として語っておきたい。

多様化した当事者性や実体験としての具体的な知識を重んじる“現代的”な表現にあふれた本作をプレイしているとなにかと先進的な印象を受けがちだが、本作が製作されたエストニアは日本と同じくいまだに同性婚が合法化されていない国であり、欧米市場を視野に入れていたとはいえ同性愛の取り扱い方やその描写から得られる肌感覚にはどことなく“背徳感”が残っている。そういった同性愛との“距離感”が恥じらいのような身構えとなり、かえって官能的な表現となっているくだりもところどころに見受けられた。私はこれまで自身が散々がっつり成人に向けたゲイポルノを制作してきたこともあって、本作のように17歳以上対象といったゾーニングがなされている作品においては、同性愛を背徳的なものとして扱ったり、いちキャラクターが個人の価値観により同性愛的感情を秘匿していたりする方が、描写としては好ましい場合もあると感じている。なので、ハリーの同性愛に対する戸惑いや好奇心といった“揺らぎ”の表現は(本作においては)非常に効果的だったと感じている。前述したようにこういった“まだ普遍的な価値観として行き渡っていない”という感覚はどうあってもその国々の事情が影響してしまうものではあるが、本作の場合、ハリーから漏れるあの“幅広い性愛の可能性を秘めている感じ”は意図的に仕込まれたものであると個人的には解釈している。少なくとも、同性愛者地下クラブという思考が存在し、なおかつハリーが女性相手にトラウマ級の失恋を経験しているとなると、そういった可能性(バイセクシャルやパンセクシャルである可能性)を秘めたキャラクターとして彼を描くことはむしろ避けられないような気もする。ディスコエリジウムの同性愛者地下クラブにまつわる表現は同性愛者全体への言及というよりも、ホモソーシャルによって(ジェンダーとしての男性性によって)抑圧された潜在的な同性愛的感情そのものに対する言及といった印象を受けた。“ホモセクシャルである可能性”に言及されるよりも“ヘテロセクシャルであることの証明”を求められたときの方が男たちは戸惑うものであり、本作における“ホモソーシャルが秘匿するホモセクシャル”に関する非常に的確な描写の数々には、私自身のお株が奪われるような悔しさすら覚えてしまった。バルコニーの喫煙者がハリーに対して同性愛者地下クラブについて説くくだりには当事者が故の憤りによる弱点としての固定観念も漏れており、それはゲイの私にとって赤面するくらい身につまされるものだった。ディスコエリジウムにおける同性愛描写にはそういった不安定さや気まずさを体感としてはっきりと思い知ってきた当事者が指示を出しているような気配がある。ゲイとしての自覚を持ちながらもホモソーシャルに順応する努力をしたゲイ寄りのバイが組み立てた思考態度とでもいえばいいのか、そういったやるせない当事者の痕跡を感じる。同性愛者地下クラブの思考を獲得した際に登場する文言の一部に“勤務時間外”という表現があるのだが、これには器用に生きるクローゼットゲイに対する怨念のようなものを感じてしまった。完全に余談になるが、こういったホモソーシャルに暗黙の了解として潜む同性愛的感情を「男はみんなちょっとゲイ」という簡潔かつ逃れようのない一言で表現した(しかも1999年の時点で!)サウスパークってやっぱり偉大だなと改めて思った。

また、本作には性愛や性欲もひっくるめて中年の危機に陥った男による承認欲求としての「触れてほしい」や「触れることを赦してほしい」といった切実な感情も多々散りばめられていて、個人的にはこういった赦しや慰めとしての身体的許容の表現にはかなり涙腺を刺激されてしまった。(改めて言うまでもないことだとも思うが)2000年代に入って以降、“有害な男らしさ(トキシック・マスキュリティ)”や“ジェンダーとしての男性性が及ぼす抑圧”からの脱却がテーマとなっている創作物は日に日に増え続けている。そしてそれらは結構な頻度で“中年の危機”とセット売りされがちでもあり、例に漏れずディスコエリジウムにもそういった側面があると私は感じている。前述したファシズムクエストなどは説明不要なくらいに“それ”である。“中年男性の生き惑い”に強い固有性と独特な魅力が宿るのは、やはりその逼迫や渇望と性的な承認(身体的な受容)が切り離せないからだと思う。ファシズムクエストでも触れていたことだが、繁殖や種の保存のために“選ばれる(承認される)”という関門突破の必要性を生物的仕様として埋め込まれた雄の身体が適齢期を過ぎ、社会的な風潮や通念から“性的な魅力を失ったと認定されてしまう”という事態は、中高年男性たちにとって少なからず抑圧になってしまうものである。現代のように誰も彼も長生きするようになってしまったのであれば、なおさらその抑圧を抱える時間も長くなる。しかもそれが身体の構造的問題である限り、(床屋に行くくらいの感覚で去勢ができるようになるのであれば話は変わってくるとも思うが)どんなに社会的な価値観が変容したところでその承認欲求がなくなることはないのだろう。なので、前述した“弱者男性(和製インセル)”を自称する人たちが「モテることだけが救い」のように説くことも、こういった身体的仕様の側面から考えるとあながち間違ってはいないのかなとは思う(ただ、その解決策や慰めの手法として提示される意見が壮絶にキモくて幼稚だから相手にしてもらえないという問題は相変わらず解消されないが…)。こういった性的な観念は個人差が大きく性別で分けること自体ナンセンスだとも思うので、これは私が自身の人間関係や社会経験の中で得た体感から推察した超個人的な偏見として述べるのだが、現代において女体が抱える性的な承認欲求というのは男社会が男体の性的な承認欲求の“身代わり”として(女性が男性を選んでいるのではなく男性が女性を選んでいるのだという体裁を確保するために)長きにわたる男尊女卑社会の構造的イニシアチブを利用して捏造してきたものであり、本来生物として“選ぶ側”である女体には、男体ほど逼迫した承認欲求は備わっていないのでは?と感じることはよくある。端的にいうと、“異性(同性)に対する性的承認に固執している個体”の比率は、女性よりも男性の方が目に見えて高いという体感がどうしても私の中にはあるということだ。これは結婚願望や性欲への言及ではなく、あくまで性的な“承認”欲求に限った話ではあるが、どんなに腕力や社会的地位を利用したとしても、男体が抱える“性的承認を喪失する恐怖”が女体の抱えるそれを下回ることはない、というのが私の個人的な見解もとい偏見である。暴力や闘争の必要性がなくなってもなお自身らの“権威”が脅かされたとき男性が女性に対して加害性をちらつかせるのは、この“性的承認を喪失する恐怖”に対する過剰防衛なのではないかとも感じている(こういった性的な自尊心や自己肯定感に深く関与する観念は信用に足る正直な統計を取ること自体が難しいと思われるので数値という意味でのデータはこの先も提示することはできなそう)。

そういった男体が抱える“性的(身体的)承認への固執”を踏まえると、“男性が中年の危機を抜け出すためには性的(身体的)承認も含めた自己肯定感の再構築が必要不可欠である”といったメッセージ性の強い創作物が増えているのも必然のように思う。たとえ使い古された描写だとしても、自身の価値に対する信頼を失った中年男性にとって、相手の性別はどうであれ優しく体に触れられるという“慰め”は、身体的な意味での許容を意味するからこそ、そこに痛々しいほどの赦しが宿るのだと思う。キムはハリーを慰めたり勇気づけるとき、それとなく軽いスキンシップを用いるけれど、それは自身の記憶から逃避を図るほど自分の価値を見失ったハリーにとってはかなりの“承認”になっていたはずだ。だからきっと彼が他者の体に触れる、自身の体に触れられる際の文章表現があんなにも痛々しいほど切実に描かれていたんだと思う。本作はハリーの承認欲求にまつわる描写が本当に絶妙だった。「この人をどうにかしたい」という善悪を問えない人間の根源的な承認欲求というのは、いってしまえば本能から表出したリビドーのようなものでもあり、何かしら身体的な熱が(ときには暴力性が)伴っている方が“自然”であり“誠実”であるとすら個人的には思う。これはなにも「セックスがしたい」というレベルの性欲が発生するとかそれが許容されることが救いに繋がるという意味ではなく、性欲を持って生きる者(性的な触れ合いを必要だと自覚している者)は「あなたをどうにかしてあげたい」と思われているという事実を身体の所作やその触れ方を通して色濃く認知してしまう(せずにはいられない)という意味で、である。私はハリーが「キムが一瞬腕をあげて自分の肩に手を乗せて励まそうとしてくれたものの結局はそうしなかった。しかしその意図は確かにあった」という内情を漏らすとあるくだりがものすごく好きなのだが、この「キムが自身に触れようとしてくれた」という“かみ締め”にも「自分にはそうして手を触れて励まされるだけの価値があるはずだ」という身体的魅力の自覚を見失った中年男の切羽詰まった“祈り”が熱くにじんでいるように思う。ドーラに追いすがる夢の中で子供を堕ろした事実が告げられるくだりや「使いものにならないディルドーのように」という比喩からも、ハリーの中で自身の性的な魅力に対する“確証”が致命的に損なわれているのがわかるからこそ、私は“相棒の手を待ち焦がれているとき”に露呈するハリーの心もとない内情に涙が出るくらいのいじらしさを感じてしまうのだ。

「彼らはみんなやさしいだろう?」

ディスコエリジウムの高品位な作り込みに礼を尽くさんと足りない頭を使って色々と語ってきたけれど、最後は本作に登場する愛すべきキャラクターたちについての雑感を一気に吐き出していきたいと思う。関係性萌えをこじらせたBL大好きオジサンによる妄言も多々含まれるので、キモいと感じたらその都度読み飛ばしていただきたい。なるべく本編の流れを意識した順番でまとめてみたが、本作においてより重要だと思われるキャラクターは後尾に回した。

▷ガルテ
ワーリング・イン・ラグズの支配人。なんだかんだハリーの話を聞いてくれるし、散々振り回されているのに物腰はやわらかいままだし、全面的にハリーが悪くても謝罪すれば許してくれる、かなりチョロい男。シルヴィーの反応を見る限り、非攻撃的で普通に良い人なんだろうな。こういった“他者に対して強い敵意を向けるのが苦手な人”が物語序盤における主人公の“拠点”に居てくれることはとてもありがたい。だからこそ銃撃戦に巻き込まれないで本当に良かった。私刑を止めるために身を挺したハリーに対し、“部屋をきれいにする”という素直な義理の通し方をしているのも非常に好感が持てる。特別仲良くなったりするわけじゃなかったけれど、最初から最後までポジティブな印象しかなくて個人的にはかなり好きなキャラクターだ。チョロさとは毒気のなさであり、ひいては相対的なかわいらしさや懐の広さに映ることが多いなと思う。

▷レナ
駆動音が格好いい車椅子に乗っている親切な女性。ガルテ同様ゲーム開始直後に出会う彼女がハリーに対して優しく接してくれることはとてもありがたかった。未知動物について語るときの彼女の描写は、話している本人が一番うれしそうなのがキュートで良かった。自身の記憶が信じられなくなって夫からの愛情を失うかもしれないと不安を抱える様子も(夫のモレルと話していればそんな不安を抱く必要などないことがわかるので)未だに恋心が残っているように見えてほほえましかった。だからこそ、終始穏やかで親切なレナがキムに対してびっくりするくらいの差別発言をした際のやり取りは忘れられない。生物を研究している学者を伴侶に持つ彼女が民族間の身体的差異をフラットに“ただの事実”として認識しているといった表現にも見えたけれど、それにしたってさすがに失礼すぎるでしょ!と驚いてしまった。レナの差別発言に苦言を呈するハリーを見て“良い意味”で驚いているキムの描写も含めて印象的なくだりだ。また、彼女と別れる際の選択肢のひとつである「ほかはどうしようもないことばかりだ。いくばくかの光をありがとう」というセリフは本作の中でも特に好きな言葉だし(毎回これを選んでしまう)、その光が物語の結びとしてああいった形で成就するのが、思い出し泣きをしてしまうくらいに良い。

▷モレル
未知動物学者の男性。レナの夫であり好きピ。ハリーの厚意に一旦きちんと一線を引こうとする姿勢に好感が持てる。キャラクターデザインも非常に好みだった。ただ、レナにも同じことが言えるのだけれど、彼は“あの”ゲイリーの親友であり、家に泊めてもらっているということはゲイリーがどういう人間か知っているということでもあるので、彼自身も何かしら“厄介なもの”を抱えている可能性が拭えない。レナとモレルがゲイリーの親友という関係性、絶妙に嫌だ。友達のそのまた友達に自身にとってどうしても受け付けられない欠点があるとその友達にも疑念が湧いてきてしまう、みたいな感覚。まさに人間関係という感じがする。

▷隠れファシストのゲイリー
モレルの調査を手伝っている男性。隠れている人。差別を弱い自身の慰めや支えにしているという恥を自覚しているようには見えたけれど、例のマグカップコレクションなどを見てしまうとやはりどうしても好きにはなれない。彼のような“隠れ”の場合、前提としては自身の思想や主義が人から疎まれたり迷惑がられたりするものだと理解はしているということであり、そこまで理解しておきながらそれでもなおそういったものから脱却しようとしない姿勢は、自家中毒に陥りパニックを起こしているレイシストのトラック運転手などよりもはるかに気色の悪さを感じてしまう。どうすれば人から好かれるのかを理解している(体裁としての道徳的観念は発揮できる)のに、こっそり隠れて特定の何かを非論理的かつ理不尽に見下し攻撃する快楽から抜け出せない彼のような人間の方が“重症”なのかもしれない。見つからないようにしているその姿勢が、より深刻さをにじませている。

▷ゴランツェ・クベク
ワーリング・イン・ラグズの厨房で働いている男性。ボルシチにウォッカを追加してくれる人。さすがのハリーも言語の壁に阻まれるといまいち洞察力を発揮できないようで、言葉による意思疎通の重要性を感じさせられた。マニャーナの名前を出したときの反応描写が良かった。キャラクターイラストがかなり好みだ。処世術として染み付いたであろう困ったような笑顔を際立たせる下唇に色気を感じる。

▷クーノース
口の悪い少女。ただでさえ危うい状態にあるクーノにさらなる悪影響を与えている。実際に殺人を犯したことがあるかどうかの真相は、最後まで語られることはなかった。彼女にものっぴきならない事情がありそうだが、父親の問題や自分自身のことを三人称で呼んでいる現状を鑑みると、クーノとクーノースを引き離した(お互い今の状態のままつるむのを止めさせた)のは正しかったように思う。すでに自身がキャパオーバーな問題を抱えている子供に、もっと問題を抱えた子供のケアをさせるなんて危険なこと、させたくない……。この件に関する直感的判断にはハリーの教師経験が生きてるようにも感じられる。というよりも、“子供”に関する描写は制作陣の価値観や思考態度がかなり露骨に発露するものなので、クーノースとつるむのをやめたクーノを前向きに描いていたことは、私の中で本作に対する信頼感をさらに高めたと感じている。子供を守るのは大人の役目であって、子供が子供に対して罪悪感を持つような状態や環境は不健康でしかないとはっきり明示してくれる創作物は見ていて安心できる。

▷プレイザンス
『犯罪とロマンスと偉人伝』(書店)の店主でありアネットの母親。自身の母親からも夫からも早く逃げ出してほしい人。“呪い”に対する過敏な反応など、彼女が見せる神経質すぎる気質は全体的にコミカルに描かれてはいるものの、それは自身が母親から受けた仕打ちを娘のアネットにも引き継ぎかねない深刻なものであり、見ていて心配になる。スキルチェックでは減点となるものの、アネットに対する教育の姿勢にはどうしても口をはさんでしまう……。こういった“親や血の呪縛”を“呪われた商業地区”とリンクさせて描いているのはさすがといった感じだ。

▷アネット
『犯罪とロマンスと偉人伝』の前で呼び込みをしているプレイザンスの娘。すぐにでも温かい店内に入ってほしい少女。とにかく早く安全な場所にかくまってあげたくなるような描写がやり取りの端々に込められていて、その言動や所作から彼女の“家庭”に潜む深刻な問題がじわじわと伝わってくるようなあの感覚は創作物(フィクション)の中でしか味わいたくないなと思ってしまう。彼女の健気さや人当たりの良さはプレイザンスの少々歪んだ厳しい教育のたまものだったりもするので、それがまたグロデスクに感じられる。アネットが自身の抑圧をハリーに見抜かれた際、困ったり同情を得ようとしたりするのではなくほのかな怒りを発露するところが“親から深刻なプレッシャーを受けている子供”の表現として的確過ぎて舌を巻いてしまった。

▷労働者階級の女(ビリー・メジャン)
『犯罪とロマンスと偉人伝』の前で本を読んでいる女性。ふいに夫を亡くす人。彼女に夫の訃報を伝えるシーンは個人的に(まあ誰にとってもそうだと思うが)かなりしんどかった。明日もあさってもその先もずっと自身の生活圏内に居てくれると高をくくっていた近しい人が突然居なくなるこの世の無情を追体験させられるのは、どうしても自分のトラウマに触れるような疲弊を伴う。それでもキムのハンカチを渡せなかった私はエゴの塊であり本物の人でなしなのかもしれない……。彼女の夫が命を落とした場所に美しい観覧車が現れるシーンは、“かつてこの世に存在していたもの”を重ねて弔っているようにも見えて、その美しい描写に涙してしまった。

▷ニーハ
“呪われた商業地区”の呪いを免れたカスタムダイス職人。もしくは呪いそのものかもしれない存在。彼女とのやり取りはあえて緊張感が張り詰めるような描き方になっており、最後まで「本当のところ彼女は人ならざるものなのではないか?」という不穏さを残す、あのなんとも言い難い雰囲気がたまらなく好きだ。彼女にまつわるスキルチェックが“悪寒”であることがその不穏さをより強くあおっていてドキドキしてしまう。そんな彼女があの心地の良い優しい声音でしゃべるのも良い。(彼女に失礼なのは承知の上で)悪魔的な不穏さをにじませる存在が大好きなので、彼女はかなり印象に残っているキャラクターのひとりだ。

▷東インスリンデ中継局(イボンヌ)
ラジオコンピューターのログイン情報を管理する中継局のオペレーター。目にした瞬間「コンピューターおばあちゃんだ!」と思ってしまった。彼女が自身の仕事を「寂しくない」と述べるくだりはほっこりする。世界観をより具体的に表現するために存在するこういった端役にも、しっかりとこだわりが行き渡っているのが素晴らしい。

▷スカル族のシンディ
スカル族のストリートアーティスト。発言や態度とは裏腹にガルテと並ぶくらいチョロくてかわいかった。最終的にはブラシもくれるし、なんだかんだ言いながらアーマーの在り処も教えてくれるし。そのチョロさとウルトラリベラルクエストにおける立ち位置のせいか、どことなく“搾取されている”という印象が残るキャラクターでもある。銃撃戦の現場にフランス語で書かれた「いつかまた一緒に」という彼女のメッセージには、どうしても火をつけたくなってしまう。ああいった“弔い”を彷彿とさせるシーンの表現が“強い”のも本作の良さだと思う。欲をいえば彼女のことはもう少し掘り下げてほしかったな。

▷ジョイス・メシエ
ワイルド・パインズ取締役会の代表を務める年配の女性。マルティネーズに上陸することをイヴラートに拒まれているため、物語前半は朝から晩までずっとヨットのデッキに佇んでいる。ちなみに、ジョイスはハリーが就寝しない限り時計が止まる2時までずっと起きているのだが、これは識域被爆によって彼女が不眠症になっているためだ。彼女からは聞きたいことがたくさんあるので不眠不休でハリーとおしゃべりしてもらえるのは大変助かる。彼女については前項で語ったことがほぼすべてだ。ジョイスとの会話で複数のイデオロギー関係の思考が同時に獲得できてしまうゲームシステムとしての仕様はどこか嫌味のようにも感じられる。ひとつのイデオロギーに固執し、ファシズムクエストに関与していたキャラクターたちのように個人としての人生を損なうレベルで思考が偏ってしまった人たちの目には、淡々とイデオロギークエストのためにポイントをためる(知識として取り込む)ハリーの“こだわりのなさ”はどう映るのだろうか。

▷清掃婦
岬の集合住宅を清掃している女性。世間話をする相手も少なそうで寂しそうだった。老体の身であんな状態の集合住宅を日課のように掃除していると思うと頭が下がる。彼女のような心がけや習慣がある意味本物の“保守”と呼べるのかもしれない。

▷不動産業者(マリエル・シャルパンティエ)
岬の集合住宅を管理している不動産業者。初めて見たとき顔つきが(特に目つきが)怖すぎて話が入ってこなかった。ただ、話を聞いてみるとあの顔になるのも無理ないとも思った。

▷クーノの父
その名のとおりクーノの父親。マルティネーズ(レヴァショール)の社会問題を絵に描いたような存在。彼もまた、ハリーの末路のひとつとして描かれているように感じた。父親になれたとしても(父親になったからともいえるが)社会の不条理に打ち負かされることは往々にしてあるのだということを悲しいほど体現している彼の現状を見ていると、ハリーの橋の下バッドエンド(社会的リアリズムによる退職エンド)とはまた違った閉塞感を覚えてしまう。それなのに彼がわざわざ仰々しい仕草で「豚ども」とつぶやくシーンは声を上げて笑えるほど面白い。こういったやるせなさや物悲しさの中にふと発生する抗えない笑いの表現も本作の魅力だと思う。心が痛む状況下にあっても瞬間的な笑いには抗えないという人間の不合理さを的確に表現した描写だと思った。

▷ステバン&エコーメイカー
共産主義の実現を夢みる青年たち。共産主義クエストの項でも述べたことだが、彼らには「不可能であるからこそ信じている」という合理的思考が優先される現代では理解を得られにくい信念があり、現実社会の現状を見つめながらもそういった奇麗事や理想を日常の習慣として持ち続けることの大切さを教えられた気がする。“実質的”ではないことに目を向けるのは、人間の想像力が可能にする“贅沢”のひとつだとも思った。

▷バルコニーの喫煙者
岬の集合住宅のバルコニーでたばこを吸っている青年。“暗示”のスキルチェックが似合う妖艶な身なりをしている。立ち振舞や仕草は魅惑的に感じられるものの、彼の物言いや思考はかなり生々しくグロテスクであり、彼なりの“弱点”も多々露呈していたので、同じ同性愛者地下クラブのメンバーとしてはなんだか肝が冷えてしまった。特に「人々がしがみつかざるを得ない最後の藁、そして心の平穏の象徴…つまり男と女、父と母、彼らの婚姻の意義を壊したい」という発言には、「高尚な言い回しだけど結局は嫉妬だよね……」という“身に覚えのある”の恥を叩きつけられた。しかも自身より社会的優位性を持った年上男と関係を持つことで生活が潤っているという彼の背景を考えると、婚姻に付随する最たる弊害でもある“家父長制”に自らの属性が飲み込まれているという構図も見えてきて結構気まずかったりする。何よりも「つらいときにそばにいない」という発言からサンデーフレンドが既婚者である可能性も浮上してくるため、一番身近な“それ”を壊せていないという皮肉めいた描写がフケ専ゲイの中に眠る若気の至り的な記憶を無遠慮にかきむしってくる。また、「“性”の本質にまつわる、とても深遠なミステリー」という発言からもマイノリティである自身のセクシャルを特別視するような優越感を感じてしまい照れくさかった。なぜなら性に本質(固有の特徴)が宿るという考え方は生物学への深い知見や知識を有している人であってもかなり慎重に取り扱わなければならない概念であり、同性愛者が主観的に語る性にまつわる見解は結局のところその人“個人の本質”でしかない場合の方が多いからだ(私が前項で性的承認について語る際あえて“偏見”と表現したのもそういった理由からである)。劇中彼が本名を名乗らないところもゲイの生き方に対する様々な(多少意地悪な)示唆があるように感じてしまった。ただ、社会的に抑圧された同性愛的感情が解放されることを「素敵」と表現する感性はそれこそ素敵だなと思った。その人の身体が本質的に求めていることや可能性が広がることを一緒に喜べる共感力は、同性愛者として生きてきたからこそ色濃く発揮されるのかもしれない。ちなみに彼は、本作(スイッチ版)におけるバグともっともゆかりのあるキャラクターでもあるかもしれない……。

▷サンデーフレンド(シャルル・ヴィーユ・ドゥルィン)
連合政府に仕える役人でありながらマルティネーズに“降り立っている”紳士。つらいときにそばにいない人。“個人的な繋がり”を持ってしまったが故にマルティネーズに愛着と執着を持つようになったであろうことが生々しく伝わってくる彼とのやり取りはどこかばつの悪さを感じてしまった。知識をたくわえることももちろん必要であり、それが大前提ではあるにせよ、内情としての痛みを抱えている当事者と実際に深く繋がる(相手を個人的に思いやらずにはいられないくらい近しい関係を築く)ことの方がずっと深い当事者性を得ることができる(できてしまう)ということを体現しているようで、(私自身の境遇に響くという個人的な理由もあって)登場回数は少ないもののとても強く印象に残っているキャラクターのひとりだ。当事者性を責任や理念といったベクトルで描かれることに異議があるわけではないけれど、痛みや弱みとして描かれる当事者性の方が信用できるし共感できるという体感がどうしてもあったりする。卑しい感覚だとは思うものの、この卑しさは自分だけのものなので手放したくないなと常々思う。

▷小便く***野郎 & ファック・ザ・ワールド
スカル族に憧れる純朴でかわいいコンビ。良き先人や良き師に出会って健康的に生きていってほしい。ジャケットはありがたく頂戴しておくよ。

▷ルネ・アルノー
広場にてペタンクに興じている老男。日がな一日生涯のライバルであるガストンと一緒に過ごしており、ガストンと会話しているとなにかと反対意見で割り込んでくる。熱心な王党派で元陸軍に所属していた退役軍人であり、物語序盤から会話できるキャラクターの中でも群の抜いてプレイヤーの知らない歴史的なキーワードを説明なしに乱発してくるキャラクターだ。彼の語りはレヴァショールの歴史をある程度把握してからでないと理解するのは難しいのだが、正直何周もプレイした体感としては、戦争の悲惨さと彼が口うるさい説教好きな老人であることがわかれば充分な気がする。ところどころに優しさや気遣いも感じられるので(勲章もくれるし)悪い人ではないことも伝わってくるのだけれど、それにしたって面倒くさい爺さんであることには違いない。それでも、彼の壮絶な体験談は一聴の価値があると思う。彼が港湾労働者組合から形ばかりの夜警として雇われていることが発覚する一連のくだりには、現実社会の高齢化問題が如実に反映されており、いたたまれなさと世知辛さを感じた。ルネとガストンは互いの性質を引き立て合うためのニコイチであり、政治ビジョンクエストを終えた段階で彼らの抱える主義やイデオロギーを考慮すると、非常によくできた相互関係になっていることがわかる。ルネの抱える秘密を含めれば余計に……。前項で少しだけ触れたが、ファシズムクエスト中に発生するルネとのやり取りにおいてレッドスキルチェックに成功すると、彼がかつて“踏みつぶし、もみ消さなければならないほどの愛”をガストンに対して抱いていたことが露呈する。それが性愛を含んだ恋愛感情であったのかどうかはっきりと明言されるわけではないのだが、それでもハリーが(“共感”が)「彼の中で何か“大きな”もの(後悔)がうごめき、外に出ようとしてる」と感じ取っていることや、ルネが“苦痛か、それよりも暗い何かに歪められたやさしさ”をたたえた顔でガストンを見つめていること、そして最終的に“意志力”が「誰も足を踏み入れていない心の闇へと引き戻される。分かち合うことも、目に触れることも、向き合うことも運命づけられていない」と述べていることから察するに、やはりそれはルネが抑圧し続けてきたガストンへの同性愛的感情なのだろうと私は思う。ちなみにガストンと口論になる別のシーンでも、「老兵は何も言わない。しかし、ガストンに向けた一瞥は妙な色を帯びている」とあったので、少なくともルネの方は必死に本望を抑圧し続ける同性愛者という設定を背負ったキャラクターとして見て間違いないのかなと感じている。それらの表現はルネの痛みを際立たせるためにあえて“明言しない(必死で言語化を避けているルネ自身の切実な体感にハリーが感応している)”という表現になっているようにも思える。同性愛を描く上で“ファシズムに傾倒しているが故に根付いてしまった同性愛嫌悪に自分自身が抑圧されることとなってしまった男”を表現するというアプローチの仕方は、ここ最近で見た表現の中でも群を抜いて高品位かつ“強力”で、正直その表現力の圧に震え上がってしまった。“同性愛が社会的に虐げられてきた実情”をこんなにも多層的かつ精確に描く作品はなかなかないと思う。本作が描くホモソーシャルに潜む同性愛的感情のなんと痛切なことか。奇麗ではない部分まで“描写としては”奇麗に表現されており、フィクションで描かれることの意義と価値を恐ろしいほどに感じてしまう。

▷ガストン・マルタン
広場にてペタンクに興じている老男。日がな一日生涯のライバルであるルネと一緒に過ごしており、ルネと会話しているとなにかと反対意見で割り込んでくる。ルネに張り合うように組合の一員であることを主張するものの、組合からはルネよりも更に小さな雑務を頼まれているだけだったりするところが切ない。見せびらかすようにバカでかい美味しそうなサンドイッチを持っており、ハリーがどうにかして彼のサンドイッチを頂戴しようとする様はとてもほほえましかった。手に入れたそのサンドイッチをキムと分け合って食べるくだりは必見である。ルネの死後、喪失感に打ちひしがれるガストンと話すと、彼がルネを愛していたこと、そしてその口ぶりはおそらくルネの秘めた想いを感じ取っていたのであろうことが推察できる。ルネを亡くしたガストンに対するハリーの「彼のことは好きだったか?」という問いかけは、あまりにも鋭利でしばらく手を止めてしまった。ルネがいなくなって放心しているガストンの描写は喪失感についての解像度が高すぎて、ルネとジャンヌマリーの写真を見て泣きながら礼を繰り返し、「なんだか、何もかもわけがわからなくなってしまった」とぼやく彼の姿を見ていられなくて嗚咽するほど泣いてしまった。彼がルネと同質かつ同等の想いを抱いていたのかどうかは(原語ではハリーもガストンも「love」を使っているが恋愛感情限定の表現ではないので)はっきりと明言はされていないものの、ふたりのやり取りを繰り返し読み込んでみた体感としては、やはりガストンもルネを友人として以上に愛していたのではないかと感じている。このふたりの隠された両想いがただの憶測や願望に留まらず“意図的”な表現であると感じるもっとも大きな理由は、ふたりが取り合っていたジャンヌマリーとの関係にある。より濃厚に同性愛的感情の可能性を描かれていたルネはともかく、結局はガストンの方も“ジャンヌマリーと結ばれることはなかった”という事実こそが3人の社会的および思想的に抑圧された建前としての複雑な関係性を描いているように思えてならない。そういった関係だったと仮定したとき、ルネとガストンの想いをもっともはっきりと感じ取っていたのは他ならぬジャンヌマリーだったのではないかとすら考えてしまう。時代やイデオロギーに阻まれたふたりの男がそれでも“互いに触れられる距離で生き続けていた”という事実が泣けて泣けて仕方がなくなる。間に挟まれたひとりの女性のことを思うとなおさらだ。3人がそれぞれ察していながらも“決定打”を示せないという抑圧は相当なものだったと思う。だからこそ彼らの真実がファシズムのクエストによって暴かれるのは本当に皮肉だ。どんな形であれ人が人を好きだと想うことそれ自体が社会に阻まれるというのは許しがたく、不毛で、誰の得にもならないと痛感させられるような関係性描写だった。ジャンヌマリーも一緒にあの世で再会し、彼らの封じ込められた熱に何かしらの慰めがもたらされることを祈らずにはいられない。

▷アリス
RCM57分署の無線オペレーター。捜査を進めるためには必要不可欠な人。登場人物の中で数少ないキムの同僚という貴重な立ち位置でありながら、彼女の人となりが伝わってくるような掘り下げた描写がなかったのが残念。キムとの関係性や57分署での彼の振る舞いが推察できるくらいのやり取りは見たかったな。

▷シルヴィー
本編が開始する前日までワーリング・イン・ラグズで働いていた女性。ガルテ同様、ハリーが真っ先に詫びを入れなければならない人のひとり。ハリーがやらかした問題行動の数々を確認しながら彼女の泣き声を聞いてしまうと、どうしたって初回プレイは面目ない刑事になってしまうのでは? それはそうと、ガルテとシルヴィーの仲に進展はあったんだろうか(お節介野次馬オジサン)。

▷DJ Mesh & DJ Flacio
キムが聞いているラジオ「ハーブフリークス」のパーソナリティ。登場する場面が非常に少なく、DJ Flacioにおいてはリリエンヌの双子絡みのタスクにしか登場しないので初見プレイではなかなかお目にかかれないかも。ふたりとも下品な下ネタが好きそうな絶妙にいやらしい笑顔がキャラクターイラストに描かれていて面白い。

▷ジュール・ピデュー
RCM41分署の無線オペレーター。面倒なオジサンとオジサンの橋渡しをしなければならなかったり、同僚から言いたくない下ネタを言わされるなど、パワハラやセクハラに日々耐え忍んでいる様子が見て取れる気の毒なオジサン。ただ、「トーソン巡査部長があなたはまだ生殖器を所有しているのか訊いています。どうぞ」という通信には、申し訳ないと思いつつもほのかな興奮を覚えてしまった。物腰もやわらかく言葉使いも丁寧なオジサン……。ものすごく気になる……。キャラクターイラストもとってもキュート。続編でたくさん絡めることを期待している。

▷ニックス・ゴットリーブ
RCM41分署の医療班(と注釈があったが、いわゆる警察医的な役割の人のようだ)。会話から察するにうんざりするくらいハリーの面倒をみていた模様。このオジサンも口調や態度からかなり好みのキャラクターだと思われるので、彼にも続編でガッツリ絡めることを期待してしまう。正直キャラクターイラストを見た限り、ダントツで好みの見た目をしている。プライス警部との関係性も非常に気になるので是非次回作で濃密に描いてほしい。

▷チェスター・マクレーン
RCM41分署の警察官。パートナーであるマックと一緒にハリーの様々な“やらかし”を茶化して楽しんでいる様子。彼らの“いじり”が親しみによるものなのか悪意によるものなのか微妙にわからないのが歯がゆい。少なくとも、キムのようなサポートはしてくれなかったように見えた(まあ41分署はかなり厳しい状況にあるため、当人たちにも余裕などないのかもしれない)。キャラクターイラストからの印象だと相棒とは雰囲気がだいぶ違うし体格差もかなりありそう。このコンビも気になるのでやはり続編を……。

▷マック・トーソン
RCM41分署の警察官。チェスターのパートナー。まぶたを接着剤でくっつけていた。かなりガタイがよさそう。もっとたくさんチェスターとの掛け合いが読みたかったな。ハリーとジャンの関係を「ヘテロセクシャル(異性愛者)のライフパートナー」だと茶化していたので「詳しく聞かせて!」と鼻息を荒げてしまった。ハリーの同僚に関してはジャン、ジュディット、トラントとしか実際に顔を合わせてはいないので、彼のこともぜひ続編で掘り下げてほしい。続編、お願い……。

▷トミー・ル・オム
トラック運転手兼詩人。ルビーのことを自分の口からは伝えたくないという彼の抵抗は非常に生々しくて良かった。ルビーが発する自殺の予兆を感じ取っていたのは劇中彼とハリーだけなので、“共感”のスキルレベルはかなり高そう。ルビーを逃したあと、事の顛末を聞いた彼が見せる安堵の様子は“隣人への優しさ”を感じられてじんとしてしまった。ちなみに、最速で“実質的芸術学位(超有用思考)”を獲得するため、彼の詩には毎回お世話になった。

▷ペイルドライバー
南の高速道路に吸い込まれたトラック運転手。支離滅裂なようでいてかなり芯を食ったようなことも言うので会話がとても楽しかった。彼女に対してキムが“触らぬ神に祟りなし”的な態度をとるのが良い。なおさら話しかけたくなってしまう。個人的に声優さんの声がとても好きだった。彼女の人生自体が断片的になり過去がぼんやりしていることもあって、ジョイスの成れの果てのようにも感じられる。彼女の崩壊が悲劇的なだけではなく、同時に魅惑的でもあることがなおさら怖い。

▷シーレング
陽気な露天商。置かれた環境やもたらされたリソースを最大限活用しながらも自身の中で超えてはならない一線をきちんと決めていそうな感じがして憎めない人。おそらくはとても合理的な人なんだろうな。元来人道支援の名目で無料提供されるはずだった物資にお金を支払うことで目の前のトラック運転手を一時的に助けるというのは、まさにマルティネーズの現状が現れているようなやり取りだった。まあ、キムが目をつむってくれることは基本的にマルティネーズでは“致し方ないこと”に分類されるので(これはハリーにとってもっとも信用に足るルールである)、彼が転売している物資はありがたく使わせてもらった。

▷鳥の巣ロイ
質屋『鳥の巣ロイ』の店主。大きくて長い体躯を持ちながら手先がとても器用であり、漂う色気がすごかった。長きに渡る除染隊としての経験でトラウマを負っている。薬物中毒に陥るほどのダメージを負うような“絶対に誰かがやらなきゃならない壮絶な仕事”から逃げなかった(逃げられなかった)という事実が物語る彼の性質にはかなり惹きつけられるものがある。こういった魅力は“責任感が強い”と一言で表現してしまうと少し語弊がある気がする。責任の有無とは無関係に“やるべきこと”の中にいると反射的にそれに飲み込まれてしまう生真面目さや、自身が被る痛みを“やむを得ないもの”として静かに受け止める忍耐強さ、なおかつその苦境を生き抜ける頑強さや運の良さ、そういった“生き残るために必要な素養が揃った身体を持っている”ことに惹かれているのだと思う。彼の語る身の上話からはそういったものがひしひしと感じられて、登場キャラクターの中でも特に色気のある男性という認識になっている。

▷レイシストのトラック運転手
名が体を表しすぎているトラックドライバー。隠れファシストのゲイリーと同じく精神をむしばんでいる“固執”が名に明示されているだけでなく、この人の場合は(ペイルドライバーと同じく)もはや“それ”自体が名前にされてしまっている。ファシズムクエストに触れる際にも前述したが、無知や未熟さからくる差別以外に“自己表現”の術を持たないもしくは失った人間はいち個体として認識される前に“唾棄すべき思想”の権化として認識されてしまう、といわんばかりのこういった示唆はかなり強烈だし残酷だ。個人としての名を失うほどに自身の心を守るためのトンデモ理論(認知能力および非認知能力ともに未熟であることが要因となった加害性の強い思想)で凝り固まってしまった人というのは現実社会にも多々存在しており、そういった人たちが様々な個人性を著しく喪失してしまうことや、どれだけ同類と群れを成したところで個々人同士が信頼関係を深めるには至らない(同類と集まったとしても孤独を埋められるほど互いに精神が成熟していない)ことを「レイシストのトラック運転手」というキャラクターを通して辛辣なほど的確に表現しており、その容赦のなさに正直若干引いてしまう。確かにただただ有害な存在となり、手に負えなくなってしまうような人たちも少なくはないけれど、彼らの中にも社会の進化と自身らが受けた教育に齟齬(時代による模範解答のズレ)が発生してしまった真の意味での“弱者”も確かに存在しているはずなので、自死や自棄に追い込みすぎるような表現を見ると個人的には結構悲しくなってしまう。私自身が手を差し伸べようとか身を切ってサポートしようとまでは思えないものの、彼らには彼らにしかわからない当事者性を伴った痛みがあるはずなので、痛めつけるだけでは多分問題は解決しないんだろうなとは思ってしまう。この気持ちは同じ男体を持って生まれた者としての祈りみたいなものなのかもしれない。“対処や反応の手法には一切同意はできないものの、そこに痛みや嘆きが存在していることは理解できる”といった感覚は、やはり身体的なものなんだろうなと思うことはよくある。そういうとき、やはり性別は性“別”なのだなと痛感してしまったりもする。

▷フリッテの店員
それなりに礼儀正しく、それなりに優しく接してくれる少女。自身に直接関係があること(実際に今現在直面している問題や人間関係)以外に思考を割かない彼女の姿勢は、当事者性を合理的に保持している状態といえなくもないし、“社会”に対する執着なんてものは本来あの子が示す関心程度が適量なのかもしれない。

▷コール・ミー・マニャーナ
港湾労働者組合の一員。劇中登場するキャラクターの中では組合の長であるイヴラートからの信頼が一番厚いように感じた。友好的な話し方をしてくれるが、労働に対するシビアな考え方にはそこはかとない冷淡さもにじんでいる。情になびきそうで全然なびかないタイプのような印象。彼が投げたコインを落としてそのままにしたときのなんともいえない空気感が好きだ。アーマーに関するやり取りの中で、クーノの面倒くささに根負けして早々に手を引いた感じが出ていたのが面白かった。

▷メジャーヘッド
港湾労働者組合の一員。体格とスト破りに対する役割を見る限り、用心棒的存在だと思われる。彼についてはファシズムクエストの項で述べたことがすべてだ。どれだけ理論武装したところで痛みの神殿である自身の本質から目を背けている限り、彼はハリーのように“見下せると感じた同性”の前でしか安堵できないままなんだろうな。

▷メジャーヘッドの取り巻き
その名の通りメジャーヘッドの取り巻き。常にメジャーヘッドへの賛同を示している。ただでさえ味のあるほほえみを浮かべたキャラクターイラストの右上にメジャーヘッドが見切れていると気付いた瞬間、声を出して笑ってしまった。

▷謎めいた両目
ゲートの隙間から覗くふたつの目。“知覚”のスキルレベルが9必要な上に1日目だけしかインタラクトできない(この条件がキツすぎる!)という、普通にプレイしていたら見つけられないであろうキャラクターだ。おそらくはイヴラートがマルティネーズ中に飛ばしている“鳩”のひとりだと思われる。私は彼(彼女?)をインタラクトするためになけなしのスキルポイントを知覚に全振りしてしまったため、他のパッシブスキルチェックで表示される会話を聞くことはできなかった。あんなのモッドでも使わない限り無理だよ……。

▷光を曲げる超大金持ちの男
名が体を表しすぎている大金持ち。彼に関してもウルトラリベラルクエストの項で語ったことがほとんどである。あのようにコンテナを使って移動しながらひとりで愉しそうに過ごしているところを見ると、自身の望むことがある程度金で解決してしまう生活であれば孤独が毒になることもないのかもしれないと少し思った。孤立してでも自身の価値観を大切にする強さを持ってるからこそ光すら曲げられるのかもしれない。“金持ち”の描き方としては目新しさを感じられるキャラクターだった。

▷お気楽なレオ
港湾労働者組合の一員。イヴラートの身の回りの世話や様々な雑務を担っている。本作で私がもっとも「お付き合いしたい……」と意識してしまった男性でもある。めちゃくちゃかわいい……。“お気楽な”と名前に冠される頑強さが魅力的だ。本作は痛みにまみれたしんどくて面倒くさいオジサンが次から次に登場してくるので、マルティネーズで生きながら“お気楽”でいられる彼のようなオジサンはものすごく頼もしい。人のネガティブな部分を見たり語ったりするのが苦手なことが会話の節々から伝わってくるし、ずっと楽しそうにおしゃべりしてるし、自分の機嫌を自分で取れてるし、本理想的男性だった。完全に余談だけれど、“本理想”という言葉はゲイ文化から生まれた言葉らしく、一般的には使われていないらしい……。

▷イヴラート・クレア
港湾労働者組合の長。一日中椅子から立ち上がらない巨体のオジサン。マルティネーズ内で起きていることは大体把握しており、それを可能とするための人脈や権力および多少手を汚す覚悟を有している。弱視であることを除きほぼ同じ形をした双子の兄がいるらしいのだが、本作ではお目にかかれず。残念。あの巨体が2つ並ぶ画が見たかった。ハリーの弱み(紛失した銃)を握っていくつかの汚れ仕事を要求してくるなど劇中のやり取りだけ見るとネガティブな印象が目立つものの、組織犯罪の防止や地区内のインフラ整備など実際にマルティネーズに必要なことを行い堅実に影響力を高めている。支持者や組合員からは好感を持たれており、マルティネーズの住民たちも概ねはポジティブな印象を抱いているようだった。とはいえクレア兄弟が用いている権力維持の手法は潔白とは言い難く、ドロス(吊るされた男事件の真犯人)の言葉が本当だとすれば組合長の座に着いた経緯自体に重大犯罪のにおいがしている。それらのことをひっくるめて考えたとき、レヴァショールの革命を目論むクレア兄弟が目指す共産主義的思想が、手段としては(組合の現状としては)社会民主主義的になりつつあることが非常に皮肉めいている。共産主義クエストにて、純粋な理想としての共産主義を夢見る前途ある青年たちを目の当たりにしていることもあり、クレア兄弟にまつわる描写がより一層“理想が現実に侵食されている”といった物悲しさに見えて切ない。やはりどれだけ手を尽くしても多種多様な人間によって構成された共同体である限り、マッチ箱の山はいずれ崩れるようにできているというやるせなさを感じさせられるキャラクターだった。

▷洗濯婦(イソベル・サディ)
漁村で暮らすお婆さん。ハリーに宿を提供してくれたり、拾ってきた汚いジャケットを文句も言わずに洗ってくれたり、訳ありのルビーを匿ったりと懐の深さを感じられる人。鼻歌を歌う様子もチャーミングだ。漁村に何があるのかと尋ねると「私たちだけ」と返してきたり、この村で得られるものは何も無いとさらっと言い切ったり、自身らの現実から目を背けずに向き合って日々を生きているその姿勢も個人的にとても好感が持てた。最後までルビーを擁護する彼女の言葉はかなり泣けるものがある。そして彼女がそうまでして擁護しているという事実がまた、ルビーの本質を浮かび上がらせているようにも思えてならない。

▷網漁師、リリエンヌ
剣を携えた漁師。海で夫を亡くした未亡人。とても強く印象に残っている大好きなキャラクターのひとりだ。とにかくやり取りにおける言葉やその含みが感傷的でありながらも非常に心地よく、もっとも近しい人を亡くした過去と折り合いを付けつつも甚大な喪失感と寄り添って生きているその様はどうしても同調が避けられなかった。キャラクターデザインも格好よくて、やり取りを重ねるほど「好き……」の気持ちが高まっていった。ハリーにとって(実際にリリエンヌと恋仲になるかどうかは重要ではなく)“女性に惹かれる”という体感をまた肯定できるようになるためのやり取りのようにも見えて、互いにとって何かしら前向きな“予兆”となっている感じもすごく良かった。ハリーのキニーマが水没してしまったことに対して葬式の必要性を問うやり取りも好きだ。戻ることのないものとの別れを自身に納得させるには“儀式”が必要だということを痛感している人の発想だなと感じてしんみりした。なによりも彼女とのデートは本作屈指の名シーンだと個人的には感じている。太陽について語られるそのデート内容は、日光が人間の体にとって普遍的な栄養であるというような身体的仕様によって「生きていくしかない」という生存本能に脅迫されるような逆説的諦観を抱かされる表現にあふれていてたまらなく好きだし、痛みを通した共感の表現として本当に素晴らしかった。「生きていこうね」という満面の笑みではなく「生きていくしかないね」という苦笑を共有するときの方がどうしても胸を打たれるものがあったりするのだ。たった数日限りの出会いだったとしても、死に際の走馬灯に一瞬現れてくれそうな、そんな魂に染み入るような素敵な女性だった。

▷リリエンヌの双子 & 別の双子
リリエンヌの息子たち。いかにも子供然とした返答に辛辣な言葉を漏らすキムに笑ってしまった。この子たちに対する反応や態度にもハリーとキムの“職業遍歴”がにじんでいるように感じた。左右対称にしただけのキャラクターイラストが印象的だ。

▷ちっちゃなリリー
すべてがかわいい女の子。“ただそこに居てくれるだけでいい”と感じてしまうような本作最強のかわいさを遺憾なく発揮してくる。声が良すぎる。あんなにかわいいことある? 子羊のぬいぐるみをハリーの頬にこすりつけてくれるくだりはなぜだか泣けて仕方がなかった。劇中もっとも居心地の良さそうな場所に居たり、インスリンデナナフシにまつわるオーブが彼女の周りに発生することからも感じられるが、彼女は本作の絶対的な“光”として描かれているような気がしてならない。夫を亡くしたリリエンヌがくじけない(くじけられない)のは双子とリリーがいるからなんだろうなと思い知らされるような存在感だった。

▷ローズマリー
漁村の酔っ払いトリオのひとり。やっていることも言っていることもその経歴も相当はちゃめちゃなオジサン。RCMの目の前で堂々と麻薬取引をするあたり、一番目を合わせちゃいけないタイプのオジサンかもしれない。ただ、本作においてはそのはちゃめちゃ具合は生命力の強さに見えなくもない。生き汚さが安心感にも感じられるのが本作の面白みだなと感じさせてくれるオジサン。

▷アビゲイルに電話するな
漁村の酔っ払いトリオのひとり。アビゲイルに電話するな。

▷イディオット・ドゥーム・スパイラル
漁村の酔っ払いトリオのひとり。Idiot(ばかまぬけ) Doom(凶運破滅) Spiral(渦巻)というあだ名、付けるほうも受け入れるほうもひどすぎる。ただ、どうにもしっくりきてしまうのが余計に不憫だ。“論理”や“電気化学”の言い分を聞いていると、彼の破滅はある部分解放でもあったのではないかと感じられたりもした。だからといって見捨てられた漁村で酒に浸ることが幸せかといえばけしてそうではないのだけれど。それ故に前述もしたが、ウルトラリベラルクエストにて彼が口にする「それがまさしく俺に必要なものだった」という言葉はかなりの重さを伴って印象に残っている。本作は“生活が少しずつ改善していきそうな兆し”を描くのが本当に上手いと思う。

▷アンドレ
古びた教会を利用してナイトクラブを立ち上げようとしている若者たちのリーダー。ナイトクラブ設立の話を聞いた直後は、私のクラブに対する偏見も相まって準備不足感の否めない計画の軽率さや集客や運営のためにドラッグのラボを運用しようとしているその危うさにばかり意識がいってしまった。しかし彼がドラッグラボの必要性を感じているのは自身の可能性に悲観的であるからであり、アクの強いメンバーをまとめようとする彼の責任感やマルティネーズに生きる若者ならではの鬱屈とした閉塞感が見えてくると、大人として若者の未来に何かしら手を貸したいと思えるようになってくる。何度目になるかわからないが、やはりこの“識らない”人を“識っていく”というやり取りと、それによって変わっていくその人の心証と自身の意思を体感できるところに本作の魅力が詰まっていると思う。アンドレもそれを強く実感させてくれる重要なキャラクターだった。彼が感じているストレスや痛みが頭髪に表れていることを示唆する描写も切なくて良い。そうして不条理に立ち向かう若い彼らの努力に手を貸し、危険因子を取り除きながら、識域の誕生という超自然的現象にも触れ、最終的には彼らのナイトクラブを「ディスコエリジウム」と名付ける最高の瞬間にたどり着くあの高揚感は本当に素晴らしい。ディスコエリジウム、なんて良いゲームなんだろう!

▷エッグヘッド
ナイトクラブ設立を目指すメンバーのひとり。メンバーの中で彼だけは最初からドラッグを利用するやり口には否定的な感情を抱いており、その態度からは音楽に対する純粋な熱意や愛が感じられる。陶酔したものの特徴や性質をわかりやすく自身に取り入れる傾向にあるようで、少々難のある会話もだんだんとクセになっていった。キャラクターイラストが彼の人となりを力強く表していてとても好きだ。ノイドがエッグヘッドの才能を当然のようにさらっと称賛するくだりは不意打ちでうるっとしてしまった。

▷ノイド
ナイトクラブ設立を目指すメンバーのひとり。反権威の主張として婦人服をまとっていたり、自身の社交性に難があることをはっきりと自覚して合理的なコミュニケーションを求めてきたり、あらゆるものを疑いながらも美学を頼りに生きていたりと、こんな軽薄ないい方もアレだがめちゃめちゃ“オタク受け”しそうだなと強く感じたキャラクターだ。建築史に対する造詣の深い大工であるということや、批判するものに対しては批判するなりの知識や具体的な認知が見受けられることからも、彼がとっつきにくくも芯のある魅力的な人間であることが感じられた。ノイドのキャラクターイラストも彼の少し暗くて重たい情熱が視線に宿っていてとても好きだ。というか、ナイトクラブの面子はみんなキャラクターイラストが良かった。自身が気に入らないことにはきちんと拒否や否定の意思を強く示すところも好感が持てる。やはりこういったライフスタイルを自身の主観的な体感と思考により補強して突き進む(それによって生じる問題や面倒事を受け入れる覚悟を決めている)人のことはすぐ好きになりがち。

▷エーシル
ナイトクラブ設立を目指すメンバーのひとり。ドラッグラボの計画について前もってイヴラートと取引していたり、父親譲りの冷静な悪どさを秘めていたり、出会ったときから薬をキメていたりと、実は仲間内で一番危なっかしくておっかない。そんな彼女がアンドレの野望を叶えてあげようとハリーにうそをつきまくっていると考えると、それはそれで「良い……」となってしまう。“銀の鳥(尋問に屈しない人の意)”である彼女の本意を少しずつ暴いていくやり取りからは、ハリーが“人間缶切り”として恐れられている所以を垣間見ることができる。また、彼女に自身の着用している帽子や上着を譲ろうとするオジサンたちの姿は必見だ。

▷チアゴ
教会に潜むカニ男。自分自身で在り続けることを放棄した人。本作には“もしかしたらハリーの末路もこうだったかもしれない”と感じさせるキャラクターが何人か登場するが、彼もそのうちのひとりだ。元ギャングであったことを語りながらも個人的なことはほとんど覚えていないと言う彼もまた、痛みの神殿から逃げ出し、当事者であることを放棄してしまった人なんだと思う。教会にまつわるタスクをすべて終えたとき、彼が心酔しているものが生まれたての識域だったという事実が発覚するオチは、彼が非当事者であることを選んだ何よりの証拠のようにも感じられた。

▷ソーナ
教会に潜む謎の解明に従事するプログラマー。プログラマーとしての腕は確かで、余計なコミュニケーションは取らずに自身の作業に集中している。自身が興味を持っていること以外には最低限のエネルギーしか払わない姿勢は非常に好感が持てる。過去携わっていたプロジェクトが頓挫した責任を理不尽に背負わされているにも関わらず、自暴自棄にならず自分を信じて“何が起こったのか”をひとりで究明しようとしている彼女の後ろ姿はとてもクールだ。ソーナの「とても興味深いけど、“知っている”のとは少し違うと思う。これは推論だ。これから実証しなくちゃならない…それも識域動態学者の手で」という発言に、彼女の魅力の真髄がぎゅっと濃縮されているような気がする。あのセリフめちゃくちゃ好きだ。“知識”に対する尊敬と畏怖、そして憧れがあふれている。本作においてハリーの危うさを補うのにもっとも適した思考態度を有しているのはソーナなんじゃないかなと個人的には思っている。ハリーは感受性も共感力も感応力も素晴らしい才覚を有してはいるものの、どんな状況においても地に足の着いた正確な情報による分析は必要である。スキルレベルの配分にもよるが、知識の面でもハリーのポテンシャルが相当高いのは確かだ。しかし豊富な知識と豊かな感応力がひとつの身体に収まっていることは危ういことでもあるんだと思う。堅実な知識には感情に左右されないある程度分厚い“壁”がなくてはならないが、ハリーはどちらかというとその壁を取っ払ったり壊したりする素養の方が強いのだ(だからこそああいった崩壊寸前状態に陥ってしまったんだろうし……)。それを考えると壁の分厚いキムのような人が支えになってくれているのは本当に“相性”としては最適解だと思うし、個人的にはソーナのような人にもぜひ恒常的に力を貸してほしいと切に願ってしまう。“世界に空いた穴”の座標を特定したことを労うハリーにソーナが返した「Thank you!」は心の底から喜んでいることが強烈に伝わってきてたまらなく愛おしい。こういったシンプルで率直で無駄がない人となりはとても魅力的であり、彼女は本作でも特別好きなキャラクターのひとりとなっている。あの「Thank you!」は何度聞いても良い。

▷ピッグス
ハリーの銃を所持しているニセ警官。その正体は家族に見捨てられたかわいそうなルブランテおばさんだ。彼女と対峙するくだりはとにかく緊張感がすごくて心臓がバクバクした。深夜に人気のない場所に行くだけでも怖いのに、銃を持った“完全に壊れた人”の相手をしなければならないなんて……。プレイヤーを驚かす気満々なあの青紫の光と突然鳴り響くサイレン音を絶対に許さない。ままならないやり取りを続けるうちに彼女が壊れた理由もぼんやりと見えてきて、キムの「ハーブはやってないと思う。むしろやっていないから、こうなってるんじゃないのか…」という指摘は相当胸に刺さるものがあった。“自分をだまくらかす手段を持たなかったからこそ自分を壊すしかなかった”という、非当事者になることができなかった彼女の現状も、ある部分ハリーを待つ末路のひとつのように感じられる。奇しくも彼女はハリーから“四肢と頭のついた、痛みとみじめな苦しみまみれの機械”という称号を頂戴している。ああいった“概念化”による見解はハリー自身が“そう”であることを暴露するような痛くて辛くて美しい描写だと思う。彼女のことをタイタスに報告するくだりは彼の根本的な“やわらかさ”を露呈させていてかなり泣ける。

▷エリザベス
庭師。かと思いきやその正体は組合(イヴラート)お墨付きの弁護士である。初対面時は検屍の際に超助かる園芸用手袋をくれたこともあり親切な女性という印象だったのに、ハーディー・ボーイズの弁護人として再登場してからは打って変わって敵意がすごかった。レオの話からもわかるように、それだけ組合に恩義を感じているのだろう。RCMを前に一歩も引かない威圧感やキャラクターイラストの眼光からも芯の強さを感じる。ボロを出しそうになったハーディ・ボーイズの面々を諌める瞬間の彼女の圧は、タイタスですらちょっと怯んでる感もあってたまらない。(ファイナルカット版の)声優さんの声音も勇ましくてとても良かった。

▷グレン
ハーディ・ボーイズのメンバー。タイタスの親友であり、もしかしたらタイタスに抱いているのは友情だけじゃないかもしれない男。本作は本当に自身の同性愛をひた隠しにしている男の“鎧”を描くのが巧みすぎる。同性愛者が秘匿のために用いるしらばっくれや弱者男性の理論武装など、制作陣に当事者がいないとここまで的確な表現はできないと思う。それぐらいグレンの“隠すための反射”がグロテスクなほどにリアルだった。まあ、彼はどちらかというと過剰反応するタイプだからルネよりはわかりやすい気もするが。彼がルビーと仲良しだったことが明示されているのも、なんというか“抜かりがない”。こういう反応(反射)は自身の社会的な危機感とは別に、性的なスキンシップや他者との身体的なやり取りをどれだけ深刻に捉えているかも透けてしまうものだけれど、あんな男性性の権化みたいなタイタスとの関係性やルビーとの距離感を踏まえてあの反応について考えると、グレンは同性とそういった関係になったことはなさそうだし、女性とも肉体関係を持ったことがないのではなかろうか。だとしたら、どんな条件下でも銃撃戦によって死んでしまう彼の一生を思うと胸が痛くなる。同性愛の自覚がある以上性的な憧憬の成就は本人にとってかなり重要なことになってしまっているだろうし、本望を自身の内に閉じ込めたまま逝ってしまった彼には同情を禁じえない。“共感”による「これは彼の問題であって、おまえは立ち入るべきではない」という解釈、優しいし正しいけれどとても残酷だ。いやしかし、ガストンにしろタイタスにしろ、頑としてゲイであることを秘匿する男のそばに性的指向のグラデーションが曖昧な男(“可能性”がまったくないわけでもなさそうな男)が寄り添っているという構図が複数出てきたとなると、本作制作陣の中にそのような男同士の関係性やホモソーシャルの特性に強い執着を持ったクリエイターがいるとしか思えない。ホモソーシャル内に潜むホモセクシャルは、発生する可能性の高さとは裏腹に隠す必要性も高くなるので(体裁的にはホモフォビックで在らねばならないので)、その避けようのない抑圧によって先に秘匿を始めた方の想いは余計に膨れ上がるし、憧憬を向けられた方も“全く気が付かない”ままでいるのはなかなかに難しいので、パンドラの箱的な状態になりがちなのだが、本作の制作陣はその傾向をかなりの深度で理解しており、しかもその“現象”を非常に好んでいるようにも感じる。ディスコエリジウムという作品と出会えて、本当に良かった。(BL大好きオジサンが登場したので長くなりました)

▷アラン
ハーディ・ボーイズのメンバー。話しぶりやタイタスとの掛け合いから察するにグループ内の参謀的存在。投獄されたエピソードなど、他のメンバーよりも過去の経歴が具体的に語られていた。タイタスの生死に関係なく、どんな条件下でも銃撃戦を生き抜く運の強い人。タイタスが死んでしまう場合のみに見られる彼の悲しみと動揺は、それまでの冷静な彼からは想像できないほどに激しく、不謹慎な表現になってしまうがかなり“情熱的”だった。

▷テオ
ハーディ・ボーイズのメンバー。最年長であり、タイタスの前にグループを仕切っていたであろう人。口数は少ないものの意味のある発言しかしない無駄のなさがクールだ。気が多くて恐縮だが、例にもれず男性として非常に好みのタイプである。本作は熟年男性のキャラクターイラスト(キャラデザ)がどれも本当に素敵だ。残念ながらグレンと同じくどんな条件下でも銃撃戦によって死んでしまう。悲しい。複数人が死ぬような展開だとほとんどの場合まず年長者は助からない。創作物における許しがたいセオリー。

▷太っちょアンガス
ハーディ・ボーイズのメンバー。ハリーがグループ内の弱点だと感じるくらいには肝が小さそうな男。無線通信を傍受して情報を集め、それを記録している。アンガスの仕事ぶりをユージーンが本心から感心している様子が伝わってくるやりとりが良かった。年下だからなのか、グループのメンバーの中ではとりわけタイタスから気にかけられており、その気遣いににじむ優しさも本物だった。だからこそアンガスがどんな条件下でも銃撃戦によって死んでしまうことは非常に痛ましい。

▷ユージーン
ハーディ・ボーイズのメンバー。さっぱりとした口調で会話してくれるし、初対面の時点から他のメンバーよりも敵意を感じない。グループの士気を高めるためにギターが弾けるという理由でメンバーに採用されたらしい。酒飲みではない彼を“論理”が褒めてたのが面白かった。タイタスが死んでしまう場合、彼がグループのリーダを引き継ぐ。その抜擢は意外ではあるものの、あのアランのダメージを見る限りではそうするしかないような気がした。

▷シャンキー
ハーディ・ボーイズのメンバー。グループのメンバーでありながら普通に嫌われているちょっとかわいそうな人。ハリーの行動によっては銃撃戦の現場から逃げ出してしまい残ったメンバーからめちゃめちゃ恨まれてしまう。ちなみに、ハリーの行動に関わらず(プレイヤーの選択に関わらず)グレン、テオ、アンガスは必ず死亡し、アランとユージーンは必ず生き残るのだが、この固定には多少メタ的な配慮を感じる。タイタスとシャンキーの生存はハリーの行動にかかっている。銃撃戦にはできるだけ銃を持って挑もう(当たり前体操)。

▷タイタス・ハーディー
その名のとおりハーディ・ボーイズのリーダー。たくましい体つきをしており、意思が強くかなりの頑固者。とはいえ人としての道理はわきまえており、むしろ弱点になりかねないくらい情に厚く、弱い者や困っている人を助けることにためらいがない男。組合の裏の部分にも精通しており、立場上物語序盤は敵対関係にあるものの、本作においてハリーの次に“やわらかいところ”が露呈しまくるオジサンでもある。ハリーよりも繊細さに欠ける感はあるものの、タイタスも他者の感情や境遇に“飲まれてしまう”タイプの男だと思う。だからこそああして腕を組みを、侵入されないよう自身を守っているんだろうなと感じてしまう。ハリーとキムのようなツーマンセルではなく、より数の多いホモソーシャルに包まれているので威厳が崩れることは少なそうだが、クラーシェのうそや裏切りに傷ついているくせに彼女が犯人ではないことを“願って”いたりと、そのやわらかさたるや他の追随を許さない。本当に良い。可憐だ。食べちゃいたい。股間を掴みながら自身のデカ○ラが目の前にあることを主張するくだりはついついグレンの反応が描写されることを期待してしまったし、「お前さんは誰かに新しいケツの穴をあけられたみたいに銃をしゃぶるしな」とハリーの問題行動をからかう発言には「あなたにはそう見えたんですね……」とかなりよこしまな感情が湧いてしまった。ハリーの方もタイタスに握手を求められるたびに彼の手の感触がもたらす安心感やそのたくましい身体からあふれる生命力を感じ入る描写が目立っていた。タイタスの言動がホモソーシャル特有のホモフォビックな下ネタとして描かれていることは承知しているものの、タイタスとハリーの間には性的な観念を意図的ににおわせるような描写がやたらとあって「制作サイドの嗜好が漏れすぎじゃない?」とは思った。正直なところ、それらのやり取りは“ホモセクシャルではないことを表明するために用いられるホモフォビックな下ネタにどこかホモセクシャルな当事者性が混在していること”を指摘する懐疑的な表現にも見えなくなかった。ただ、私の経験上、本気で隠している人の場合はグレンのように“存在自体の否定”といったベクトルで過剰反応する人の方が多いような体感があるので、タイタスのアレは“秘匿のための反動”ではなく、やはりホモソーシャル特有のホモいじりでしかないとは思う。彼がクラーシェに惚れていたことは誰の目にも明らかだったし……(本人の「惚れてねえ」という否定に対する“演劇”の「惚れていたようでございます」という返し、大好き)。ルビー捜索に向かう際、「なんとかなる」と口にしたハリーに対し「なんとか“しなきゃ”な」と返したタイタスの心意気には、魂をわしづかみされるような健気さがあった。ピッグスの項でも述べたが、「もし俺たちがここに逃げてきた連中を見捨てたら、この街は廃墟と貨物コンテナだけの場所になっちまう」という発言から見えるタイタスの共同体や人間関係に対する価値観は非常に難儀だとも思うが、それでもいち個人としては惹かれずにはいられない温かさがある。あの思考態度(というよりももはや使命感)には、“受け入れてもらえなかった者”による当事者としての痛みがあふれていて、だからこそ彼の強さだけでなく弱さにも魅力を感じてしまうのだと思う。そして銃撃戦後のやり取りの最後にキムがタイタスに向かって言う「君には両足で立っていてもらわないと」というセリフのなんと感動的なことか。事件の捜査にとって重要なキャラクターであると同時に、今のマルティネーズに必要なのは彼のような人なのだということ、そして“役割を受け入れている”のはハリーやキムだけではないんだという心強さを示してくれる素晴らしいキャラクターだった。銃撃戦の中でハリーが撃たれた際に彼が漏らした「刑事だ!やられてる…守ってやれ…」という動揺に、彼を好きになってしまう理由のすべてが詰まっているようにも思う。“修辞学”いわく「タイタスはおまえだけのもの」だそうだ。ハリーはタイタスをふにゃふにゃにした責任を取らなければならない。

▷扇動者ルビー
吊るされた男事件の重要被疑者。隠された“8人目”のハーディ・ボーイズ候補でもある。以前は犯罪組織ラ・プータ・マードレに所属しており、組合員に転身してからも、そのノウハウを活かして麻薬の密売を行っていた。しかしそれは古巣であるラ・プータ・マードレの“シノギ”を邪魔することと同義であるため、絶えずそのプレッシャーを背負うことになった彼女は定期的に髪を染めるようになり、自身の名を隠し、被害妄想を悪化させていったようだ。ハリーに対する誤解や過剰な怯え方もその被害妄想によるものである。身を潜めていた彼女を発見するシーンではレッドスキルチェックが2つ連続するので、初回プレイで彼女を自殺に追い込んでしまったプレイヤーも多かったのではないだろうか。ルビーとハリーたちが対峙する際、トミーやタイタス、イソベルたちが積極的に情報を売ったわけではないということをわざわざ伝える選択肢が存在していることがこのゲームの信頼に足る“強さ”だとしみじみと感じた。どうしてだかルビーには“人を信用する気持ちを失くしてほしくない”という同情を呼び起こす何かがあったように思う。あれらの選択肢はまるでそんなプレイヤーの心情を先読みしているかのようだった。キスくらいはしたかもと話すクラーシェとお遊び程度だが1度寝たこともあると話すルビーとで証言が食い違うくだりでは、この期に及んでクラーシェがまだうそを重ねていたという事実にもはや笑うしかなかったし、その反動でルビーの言葉をさらに信じたくなってしまい、感情が忙しかった。どっちもどうしようもない人たちなのだけれどね……。ただ、彼女ら(特にルビー)を“逃がす”選択をしたときの方が苦しくないのは、彼女たちの逃亡から“男たちが築いた組織や仕組みに組み込まれて不健康な状態にある女性たちがホモソーシャルの外に逃げる”という意味合いを感じてしまうからなのかもしれない。実際、ルビーはクラーシェに「一緒に逃げよう」と誘ったらしいし、そういった立場にあるキャラクターがふたりとも女性であること、ハリーはハーディー・ボーイズたちの佇まいを見てホモソーシャルの煮こごりである41分署を連想していたこと、そして男性であるハリーとキムが女性であるルビーやクラーシェを取り逃がすことにはそういった含みがあるのかなと思ってしまった。「人に好かれてもこんな目に遭うなら…ほかの人たちはどうやって生きてるんだ?」というルビーのセリフ、劇中のセリフの中でも特に記憶に残っている。彼女の自業自得ではあるのだけれど、それでも同情を禁じえない、そんな人が抱える普遍的な心細さに突き刺さる言葉だった。

▷デ・ポール
港湾労働者組合のストライキに“対処”するため、ワイルド・パインズによって派遣された傭兵。ジョイスが推測していた“マルティネーズの広範囲を視認できる建物に潜伏して情報を集める役割”を担っていたのが彼女だと思われる。どんな条件下であっても彼女がグレンを殺してしまう。ハリーがコーテネール(ラウル)の戦闘不能及び殺害に成功するとキムの命まで狙う。言動も怖いしキャラクターイラストも怖い。しかし、銃撃戦時に突然初登場するため非常に影が薄い。

▷ルード・ホーエンクローヴェン
港湾労働者組合のストライキに“対処”するため、ワイルド・パインズによって派遣された傭兵。戦地で壊れてしまった(もしくは生粋の)殺人狂。傭兵チームのリーダー(大佐)であるエリス・“レリー”・コーテネール以上に残虐。彼が身につけている頭部のアーマーはクーノが海に蹴り捨てたもの(物語ラストで手に入るアレ)と同一のアーマーである。スキルチェックに成功すればキムが彼を撃ち殺すが、逃げてしまう場合もある。この人を取り逃がしたとなるとエンディング後もうすら怖くなってくる。デ・ポール同様キャラクターイラストや伝聞による設定はおっかないものの、登場シーンが短い上にセリフも少ないので印象がかなり薄い。

▷コーテネール(スト破りのリーダー)
港湾労働者組合のストライキに“対処”するため、ワイルド・パインズによって派遣された傭兵。本名はラウル・コーテネール。物語後半まではスト破りのリーダーを装っている。義理の兄であるエリス・“レリー”・コーテネール(吊るされた男)の写真を見せると、これまで隠していた本物の感情をあっけなく剥き出しにして正体を表してしまうのが印象的だ。初見時はその巨大感情にBL大好きオジサンが敏感に反応してしまったが、後に不遇な生い立ちを共有した義理の兄弟だとわかり「なるほどね……」と納得した。彼から聞かされるセメナイン紛争時における義兄やルードの残虐行為の話は劇中でもかなり深い暗さが際立っていた。本作は一貫して戦争を“人間の心を壊し負債を後世に残す不気味で気色悪いもの”として描き続けており、ラウルの語りも相当不快感を煽るものがあった。彼は他のメンバーよりかは言葉による話し合いが通じそうだったので、事件の真相を知れば冷静になってくれる可能性もあったが、彼を殺さないとタイタスが死んでしまう(ハリーによるラウルへの攻撃が失敗した場合キムが彼を撃ってくれるが致命傷とはならず、結果タイタスが撃たれて死ぬ)ため、3周目辺りからは「タイタスのため!」と自分に言い聞かせながら彼の頬を撃ち抜いたり全身を焼いたりした。申し訳ないとは思っているが、タイタスのためなので……。

▷トラント・ヘイデルスタム
RCM41分署(Cチーム)重大犯罪課機動隊の特別顧問。ハリー警部補長長が精神崩壊および記憶喪失状態になったことでジャンの補佐をしつつハリーの精神状態や機動隊の指導者としての能力を評価している(これからも警察官として働くことができるのかどうか判断を仰がれている)。認知科学の愛好家であり、神経学への造詣も深いとのことだが、自身に特別顧問を任されるほどの知見が備わっているか疑問に思っており、ラストシーンでもジャンとハリーのごたごたに巻き込まれたくなくてそれとなく帰ろうとしているのが面白かった。厳密には民間のアドバイザーという立場らしい。インスリンデナナフシへの言及を見る限り、彼は相当な知識を有している人だと思われる。感心があることにはかなり食いつきがいいので、ジョイスよりも当事者性を宿した教養という感じだった。彼の場合、ジャンの強引さによって“巻き込まれて”いるので、非当事者でありたいのに当事者になるしかない、というのが彼の現状のようだ。トラントが刑事という仕事を「“世界のテープ”磁気読み取り機みたいなもの」だと例えるくだりの中でハリーのことを「ぴったりと寄り添ったんだ。すっかりインプットした」と表現したのがとても良かった。世界との共感力を上げるためにアルコールを用いるとは、なんて泥臭いやり方なんだろう。トラントは本作において数少ない“機能している父親”であり、息子のミカエルには色々な教養を与えようとしている様が印象的だった。

▷ジュディット・ミノー
RCM41分署(Cウィング)重大犯罪班機動隊の一員。階級は巡査。ハリーが壊れていく中で数々の仲間が去っていったらしいが、彼女はその忍耐強さからいまだジャンとトラントと共に機動隊に残っている。ところどころに垣間見えるキムへの気遣いから、穏やかな物腰の中に一本筋の通った信念のようなものを感じられる。本編が開始する2ヶ月前に41分署に配属されたらしく、ハリーやジャンとの付き合いもまだ浅いはずなのに、彼らの面倒な状態や関係性に甲斐甲斐しく付き合っているように見えるので、かなりタフなメンタルと広い懐を持ち合わせているようだ。正直私ならあんなメンタルヤバヤバオジサンたちに囲まれて仕事をしたくないと思ってしまうので、ミノー巡査はすごい。彼女もまた“役割を受け入れている”ひとりなのかもしれない。声がとても優しい。ハリーとキムにかける「見事な解決ね」の一言は、その優しさが身にしみて泣けてしまった。こういう人が残ってくれて、ジャンのそばにいてくれて良かった。ジャンはジャンで問題が山積みに見えるので、ハリーにとってのキムのような存在が彼にも必要なはずだから。ジャンがトラントを逃さまいとしているのは、その自覚があるからという可能性もある。惜しいことに彼女との会話はジャンほど多くなくて、まだまだ人となりは見えない部分が多いので、次回作でしっかり掘り下げて描かれることを期待したい。

▷ジャン・ヴィクマール
RCM41分署(Cウィング)重大犯罪班機動隊の責任者(完全にハリーの尻拭い)。ラストシーンの言動だけでも彼がどれだけハリーに執着し、怒り、憎み、愛してしまっているかが伝わってきて腰を抜かしてしまった。巨大感情男性ここにあり。ハリーのことを深く愛する人ほど彼のそばにいることが辛くなってくるというジレンマが切ない。だからこそ、あのような状態のハリーを適切に励まし、支え、絆を育み、事件をきっちり解決に導いたキムに対するジャンの心情を思うと、奇声を上げて外を走り回りたくなってしまう。彼が衛星警官(相棒の有能さを証明する階級)を背負っている事実と照らし合わせるとなおさらである。衛星警官という本作オリジナルのシステムは、男同士の関係性をはちゃめちゃにこじらせるための“装置”としか思えない。“衛星”て……。この名称やシステムを思いついたクリエイターは天才であり変態だと思う(称賛しています)。インスリンデナナフシの写真を目で追うジャンのことをハリーが(“共感”が)「こいつは、たった今悲しさを忘れさせてくれるものを見たばかりの、とても、とても悲しい男だ」と解釈するくだり、本当にすごすぎる。この一節だけで“ジャンがハリーに刑事を続けてほしいと思っていること”と“ハリーの解雇はジャンにとって悲しいことなんだとハリーが思い込んでいる(思いたがっている)こと”が同時に露呈してしまっている。その上でハリーは自身らのそんな関係性(互いが互いを失いたくないと思っていること)を悲しいことだと感じているということも透けてくる。思考の中で感情が激しくバウンドし続けるようなこういった表現こそ、本作が持つ毒のようなパワーであると事あるごとに思い知らされる。“共感”のパッシブチェックによる介入は本当にどれも素晴らしい文章ばかりで、どうしてもスキルポイントを優先的に振っていしまいがちだ。ジャンの「結婚なんかもう誰もしないよ。ここはレヴァショールだからな」というぼやくような発言を、同僚による「ヘテロセクシャル(異性愛者)のライフパートナー」という茶化しと照らし合わせてみると、ふたりの間にどれだけ切実な思いが佇んでいるのかが見えてくる。当人たちにとってはまったくもって笑えない状態なのであろう……。Cウィングを機動隊として立て直そうとしたことをジャン本人は失敗だと言っているけれど、そういった実情の問題に対する「どうにかしないと」という心根を持っているかどうかが人としての大きな分かれ目であって、本作に登場する魅力的なキャラクターたちはその「どうにかしないと」を自らの身を持って体現している人たちなのだと思えてならない。タイタスの言っていた「なんとか“しなきゃ”な」がまさに彼らの魅力であり、問題でもあるのだろう。例の教会に潜んでいた“敵”については次回作で明かされることを期待したい。もしかしたらチアゴの過去も絡んでいるのかもしれないし、おそらくハリーはその教会襲撃時に例の識域の赤ちゃんに触れてしまい過去による過剰被爆状態となったのだろうし。ラストシーンの中でもはっきりと描かれているが、ふたりの間で“歩み寄り”が行われる場合、ハリーからではなくジャンの方から手が差し伸べられており、それこそが彼らのどうしようもない関係性を気まずいくらいに物語っているように感じる。キムの手であれば“待つ”ことができたハリーが、ジャンの手を“待つ”勇気を振り絞れないのは、それだけ彼にとってジャンの存在が“深刻”だからなのだろう。そして、あんなにもボロクソになじっていたくせに自分から手を差し出さずにはいられないジャンの姿には顔をしかめてしまうくらいの切なさといじらしさを感じてしまう。人間関係はああいった「仕方ないな……」が連なって構築されているのだということを改めて思い知らされるようなやり取りだった。

▷吊るされた男(エリス・“レリー”・コーテネール)
ワーリング・イン・ラグズの裏にある木に吊るされた死体。本作における超重要人物であり、ハリーやキムがDetective boardを作るタイプの刑事ならば間違いなく中心に貼られていたであろう男。その正体は港湾労働者組合のストライキに“対処”するため、ワイルド・パインズによって派遣された傭兵、エリス・“レリー”・コーテネールだ。彼は派遣された傭兵チームのリーダーであり、チームのメンバーからは大佐と呼ばれていた。チームの中では彼がもっとも外交的だったらしい。義弟だけでなく残されたメンバー全員が私刑による報復を企てるくらいにはリーダーとして慕われていたようだ。紛争地での猟奇的な“自己防衛”やクラーシェとの溺れるような中毒的セックスなど、彼にまつわる描写には“正気を手放すことで理性を保つ”というような悲痛さが伴っており、殺人事件の被害者であると同時に社会構造そのものの被害者でもあるかのような描かれ方をしていた。筋骨隆々で残虐な中年男の死体を「やさしさに乏しい人生を歩んできた痛みの神殿」と表現することで、彼もまたハリーのように自身の“役割”に痛めつけらてきた男であること、そしてそんなエリスの境遇をハリーが自身の境遇と照らし合わせて魂の自慰行為に耽っていることがひしひしと伝わってくる痛切な描写の数々が本当に素晴らしかった。 彼の素性に行き着くまでの物語展開も上質だが、何より彼との“触れ合い”は劇中においてもっとも刺激の強い“濡れ場”と呼んでも差し支えないほど官能的な表現にあふれていた。“肉体装置”がハリーを彼の“中”に導くくだりにはなんとも言い難い肉感が伴っており、正直個人的にはほのかに性的興奮を覚えるくらいエロティックな描写だと感じてしまった。そしてその妙に“湿気”の高い描写にあてられたせいか、初回プレイでは迷いなく彼のパンツの中身をまさぐり、その勢いで精液を鑑定に回してしまった。実際のところ、彼は性的に興奮した状態のまま死に至っていたため、それらの行為はそれなりに筋の通ったものだったのだけれど、検屍の最中彼の性的な要素に意識が寄ってしまったのは、あの官能的な文章に煽られた部分が大きかった。その検屍のシーンにてハリーがもっとも重要な証拠品である銃弾を見つけ出すくだりは、キムからの信頼と驚嘆、そしてクーノからの尊敬と羨望を獲得する本作の重大な転換点だった。あの証拠発見に至る一連の描写はプレイヤーにとってもハリーの“実力”を明確に実感できる内容となっており、彼の本質的な人となりが見えはじめる印象深いシーンだと思う。ハリーがエリスの首吊り死体を自身に置き換えた夢をみていたことからもわかるように、エリスもまた前述した数人と同様にハリーの末路のひとつとして描かれているように感じられた。物語を進めていくうちに、ハリーがエリスのことを“痛みの神殿”と称した理由を痛感させられるような事実と向き合わなければならない場面は増えていく。あの夢はもしかしたらこの先“やさしさに乏しい”日々を重ねたハリーの未来かもしれないし、ハリーはそれを心のどこかで受け入れてしまっているのかもしれない。だからこそ、事件を解決することでハリーを着実な“再起”に導いてあげたいというプレイヤーである私の気持ちも強くなっていったんだと思う。ハリーを吊るされた男にしないために吊るされた男事件をしっかりと解決する、それが本作の差し迫った面白さでもあったのだろう。ちなみにエリスの死体に触れることなく事件を解決することも可能であり、その場合ハリーは一切検屍もしていないのに突然口の中を撃たれて死んだことに言及したりするので、どうしても笑ってしまう。さすがはスーパースター刑事である。

▷クラーシェ(ミス・オランイェ・ディスコダンサー)
ワーリング・イン・ラグズの一室に長期滞在している妖艶な美女。本編開始時、ハリーが目覚めて一番最初に出会うキャラクターであり、かなりに思わせぶりな去り方をするので、あそこで彼女が重要人物であることをなんとなく察したプレイヤーも多いのではないだろうか。彼女はプロのウソつきであり、彼女のついたウソはどれも時間が経ってから彼女の不在時に発覚するため、それ故に彼女が語る自身の事情についてどこまでが事実でどこまでが出任せなのかまったく判断がつかない状態のまま物語は終幕する。“彼女の素性”については彼女を逮捕しても取り逃がしても与えられる情報量は同じなので、本作では結局彼女が語った自身の経歴を信用するに足る描写は得られない。こういった“ウソの放置”が彼女をプロのうそつきたらしめており、“ウソつき”の表現としてはとても的確で潔かった。そのせいか彼女を逮捕する選択をしても、(そりゃ逃してあげた方が心は軽くなるが)個人的にはそこまで胸が痛むこともなかった。1周目の“ウソをつかれて逃げられた”という苦い体験のせいか、2周目以降は逮捕を多めに選んでしまったくらいだ。本編中のやり取りだけを見ると一件厳しい判断のようにも感じられるが、ウソはどこまでいっても不誠実の証明でしかないし(彼女が産業スパイであったことすらもウソなのであればハリーとしてはもう何も知ったことではないし)、彼女が狂わせてきた人たちの人生を考慮すると逮捕も妥当だと思えしまう。彼女は自身が死に値することを理解しているからこそあそこまでウソを駆使して逃亡を図るわけで、それこそ「お前の出る幕じゃない。彼らの人生は彼らが生きる」ということなのだろう。ただ、プロのウソつきであるが故に彼女には他のキャラクターにはない“当事者”と“非当事者”を極端に行き来するような非常に興味深い心情表現が多く見られ、それがクラーシェ・アマンドウ(偽名)の本作における独特の魅力のように思えた。何度も前述しているように、私自身にそういった要素を注視するきらいがあることも大きいのだが、本作には“当事者性”を重んじるメッセージ性の強い表現が多々見受けられる。そのため、各キャラクターには“当事者性”と“非当事者性”のどちらかに寄った立ち回りが付与されているように感じられるのだが、クラーシェはハリーと同じくその両方の性質を合わせ持っており、なおかつそれが両極端に振り切って発露するというとりわけ特殊な描かれ方をしている。彼女はエリスに対する強い執着を通して非常に色濃い当事者性を垣間見せるのだが、かと思えば殺人事件やそれによってあぶり出される自身の素性に関してはウソを繰り返し徹底して非当事者性を貫いている。この情緒のシャトルランこそ、彼女とのやり取りに“酔ってしまう”理由なのだと思う。ハリーもキムも、自身らがクラーシェのウソに翻弄されているであろうことは多少なりとも自覚しているものの、彼女の情緒の往復があまりにも激しいのでその波に飲まれてしまい、最終的には身を委ねるしかなくなっていたのが本当に面白かった。あの一連のやり取りは本作における最大の心理戦であり、ハリーの脳内会議のユニークさがひときわ光るくだりでもある。彼女は残虐非道な男との不健康な性的快楽に溺れながらもそれを自身の“充足感”や“癒やし”として巧みに活用しており、あれだけ薬をキメてハメを外しているのに劇中の誰よりも冷静かつ合理的にウソをつき続けている。それは彼女が正気のまま当事者と非当事者を目まぐるしく往復することができる化け物じみた頑強メンタルの持ち主であることを示唆してもいるので、事件の真犯人であるあのどうしようもない弱者男性から見れば確かに“手の届かない片思い相手”ではあるなと気の毒に感じたりする。クラーシェに尋問を開始した当初は彼女の心が弱りきっているように見えて自然と同情心を抱かされるが、蓋を開けてみれば彼女がか弱さとは無縁の女であり、人を、企業を、世を騙し続けながら世界を逃げ回れるようなお化けメンタルの持ち主であることがわかってくる。ハリーやキムと一緒に彼女の“裏切り”をかみ締めるようなあの感覚は、人間関係の“疑似体験”という意味で純度が非常に高くて素晴らしい。タイタスがなぜあれほど傷ついていたのか、すんなり納得できてしまうほどである。彼女がハリーやタイタス、そしてキムまでもを魅了できてしまう要因は、きちんと心を痛めながらも正気を保ったまま人心を振り回せるその“割り切りの鋭さ”にあるのだと思う。ある意味、自他の境界を曖昧にしてしまうハリーとは対極にある精神性なのかもしれない。次回作では彼女の元雇い主であり、劇中の描かれ方ではあまり良い印象を持てない国際倫理機関についてもより具体的に描かれることを期待したい。

▷脱走兵(イオセフ・リリアノビッチ・ドロス)
吊るされた男事件の真犯人。すべてを憎んでいる老男。共産主義者で構成された革命軍の生き残りであり、連合軍の空爆に恐れをなし部隊を見捨てて逃げ出した脱走兵である。彼が「何者か」という問いに「レヴァショール・コミューン第4軍対航空機部隊第114隊の政治将校」という自身の長く仰々しい肩書きをいまだにはっきりと答えられることからも感じられるが、自身が共産主義のために戦った兵士であることを矜持としていながらも脱走の事実によってその誇りが毒となり精神をむしばんでいる。脱走後島に戻り「バルチザンとしての任務を再開した」と言っているが、それこそが彼の“自己防衛”に他ならないような気もしてしまう。彼に叩き込まれた共産主義がステバンたちが夢見るそれとまったく同じなのかはさておき、16歳の少年兵が恐怖の最中で“準備を整える”ことに一瞬疑念を抱くことを誰も責めることはできないと思う。劇中ルネとドロスだけがレヴァショールの内戦と連合軍介入(レヴァショール奪還作戦)についての実体験を語っているが、そのどちらもむごたらしいものであり、社会の在り方以前に戦争という“手段”がいかに当事者たちを“人ではないなにか”に変えてしまうのかを強く訴えているように感じる。(このレヴァショールの内戦と連合軍による通称“デスブロウ作戦”に関しては彼らの語り以外にもところどころに点在するインタラクト可能なオブジェクトによって少しずつ語られていますが、劇中の情報を整理して流れを把握するのは大変骨が折れるので、ファンダムwikiの該当ページを参照するとある程度流れが理解できると思います)。しかし、戦争による傷を負った被害者という側面から彼への同情を確立するには、その後の彼の生き方はあまりにも世界への憎しみと妬みが矮小化し過ぎてしまったと思えてならない。彼が嫉妬による殺人を犯したことを戦争の悲劇につなげるには、あまりにも動機としての感情が“個人的”すぎるのだ。ある意味それはとてつもない“当事者性”でもあった。連合軍の手段を選ばない介入によってその身に起きた悲惨な物語を重々しく語った直後に惨めな男としての個人的な性欲や嫉妬について白状させられるあのくだりは本作制作陣の“本領発揮”ともいえるほど残酷極まりなく、「もうやめて!とっくにドロスのライフはゼロよ!」と止めに入りたくなる熱量だった。彼の「ひとりでいたい」という言葉は「ひとりでしかいられない」という現実とセットになっている。“共感”による「彼は人々がふつうに暮らしているところを見たくないのだ。忘れ、飲み、笑っている人々を…」という指摘は、本当に泣きたくなるくらい“そのとおり”でしかなくて辛い。彼がハリーたちのことを個人ではなくRCMとしてしか認識できないのは、“権威に所属すること”の安心感や旨味を知っているからこその思考態度でもあるため、彼が帰属意識に付随した権威に耽溺しやすい資質を持っていることを示唆的に描いているようにも感じられた。政治ビジョンクエストにおける全方位を敵に回すような描写からも感じたことだが、帰属意識というのは個人をぼかし、個人としての成熟を放棄する免罪符になり得てしまうということを本作はいたるところで描き続けている。また、キムが述べたように“性心理的執着”がもたらす悪影響は本当にたちが悪いなと改めて思った。本作は男性の身体的仕様による脆弱性(問題の誘発性)についても非常に執念深く論理的に描いているが、それに対する慰めや癒やしがハリーなど主人公の身の回りにしかもたらされていないのがとても切ない。個人的にはレイシストのトラック運転手やメジャーヘッド、そしてこのドロスにも何かしら慰めの描写があってもよかったのではと思ってしまう。“本人たちが成熟しない限り救いようがない”というたったひとつの事実を的確に描くために“救わない”という選択をしているのもわかってはいるのだけれど……。ドロス脱走兵に関してはレイシストの運転手やメジャーヘッドと同じく深く言及するとなんともいえない辛さがある上、彼の場合はその個人的かつ性的な妬みを動機とした殺人まで犯してしまっているため、もうどうすることもできない。主義やイデオロギーなど一切関係なく、彼は惨めで恥ずべき自身を直視することすらできないただの有害な老男でしかない。“詮なきこと”ですらなく、不遇に同情するにも限界があり、唾棄すべき男となってしまっている。そのことを知らしめるためのキャラクターだったのかもしれない。しかしそれでも、“役割をまっとうする”ことも“役割と決別し孤立する”ことも、そして“プライドが邪魔をしてそのどちらもきないという現状の事実を受け入れられない”ことからも目をそらし続ける彼らのような弱者男性たちが“奮起”するきっかけを得られるくらいには優しい世界であってほしいと思わずにはいられない。

▷インスリンデナナフシ
とんでもないタイミングで姿を現すとんでもない大きさのナナフシ。過去350年以上葦のふりをして人間の目から隠れ続けていた未確認生物であり、未知動物を研究するレナとモレルの“本命”である。初プレイ時はレッドスキルチェックのやり直しはしない(最初に起きたことに流されるまま行動する)という個人的な縛りの中でプレイしていたため、“電気化学”が足りず接近に失敗してしまい、対話も撮影もできないまま華麗に去っていくインスリンデナナフシを下唇をかみながら見送ることになってしまった。ハリーの「おまえは何をしてるんだ?」という問いに「私は存在している」と返される最初のやり取りは非常に印象的だ。発見してすぐにカメラを取り出したキムの「写真がなきゃ、誰にも信じてもらえない」というセリフが非常に彼らしくて良い。キムはいつだって素直に“そうした方がいい”と思うことを冷静かつ慎重に行動へと移す。それに対するハリーの「人にどう思われたっていいだろうが」という返し(選択肢)も人にどう思われるかをしっかり気にしている彼の強がりのようにも聞こえてお気に入りのやり取りだ。とにかく彼女(彼)との会話はどれも興味深く耽美的で、本作の文章表現の良さが詰め込まれたやり取りだった。「おまえが奇跡なのか?」に対し「ちがう。奇跡はおまえだ」が返ってきた瞬間、一気に鳥肌が立ってなぜか涙があふれてとまらなくなった。あの一連の文章は抗うことができないくらいに素晴らしかった。「おまえは暴力的で制御不能な奇跡だ。宇宙の真空空間と、その中で燃える星々は、おまえを恐れている。充分な時間さえあれば、おまえは私たちすべてを消し去り、無に変えてしまうだろう…それも、ただの偶然で」と壮大な伏線を張るようなことを言ったと思ったら、次の瞬間には実はそれが人の“認知”や“記憶”のことを指していることがわかったり、とにかく情緒がめちゃくちゃにされるやり取りだった。彼(彼女)の言葉の中にはゲームのプレイがもうじき終わることを予見するようなメタ発言ともとれる内容もあり、あのやり取りに関しては色んな人の感想や考察が聞いてみたくてたまらない。物語の帰結がまさかこんなところに着地するなんて思いもしなかったという感動と、世知辛さと物悲しさの塊みたいな爺さんのすぐ横であれほどまでに強い“再起の予感”と出会えることの強烈な“慰め”のパワーに圧倒されて、「なんちゅうゲームだ……」としばらく放心してしまった。何よりも、インスリンデナナフシとの対話を締めるあのやり取りはしばらく忘れることができないと思う。彼女(彼)の「破滅は捨て置け。背を向けてまえに進め。全人類のために」と助言のような言葉に対してハリーが返す言葉の選択肢に「やってみるよ」と「そうするよ」が別々に存在しているのが本作における執念深い“感情表現の具体性”なのだと声を大にして言いたい。言い回しが少し違うだけなのに、「やってみるよ」には大事な記憶を鎮める心細さや強引に捻出したような勇気が、「そうするよ」には致し方ない諦観や喪失感と寄り添う覚悟が宿っていて、わざわざそのふたつが分けて用意されていることに感慨を覚えておいおいと泣いてしまった。インスリンデナナフシとの邂逅がなければ、憂鬱な気分を拭えないままエンディングを迎えていると思うので、あのタイミングであのやり取りをぶっこんだのは本当にすさまじい力技だと何度プレイしても驚かされる。

▷ドーラ
6年前に去っていったハリーの元恋人。実在する彼女と話せる機会は魚市場にある公衆電話を使ったときのみで、彼女のキャラクターイラストは存在しない。ドーラに関するハリーの記憶や内情は混沌としており、劇中ハリーはドロレス・デイにドーラの姿や記憶を投影しているため夢の中に登場する彼女の姿は正直信用ならない。その信用ならなさが(ハリーの中で実態が失われつつあるという事実が)ハリーの傷がいずれ癒えるであろう可能性を示唆してもいるようにも思えるが、それにしたって彼女にまつわる描写はどれもことごとく痛みに満ちていて顔をしかめてしまう。ハリーがRCMに勤めてから18年経っており、その前からの付き合いとなると最低でも12年以上は関係が続いていたということで、その時間だけを鑑みても彼女を失ったハリーが壮絶な痛みを抱えていることは想像に難しくない。彼女からの手紙や夢の中の発言に“幸福だった記憶”も明確に描かれており、それがなおさらハリーの負った傷の深さを引き立てている。RCMにおける勤務がハリーを壊し、そんな“普通の人のように話せなくなった”彼を見て“悲しくなる”ことに耐えられなくなってしまったドーラの気持ちも痛いほど伝わってきて辛かった。好きだったからこそ自分自身を大事にしないハリーに不満が募っていったんだろうし、なによりもそれが経済的な貧しさ(がむしゃらに働く必要に迫られていたこと)に起因していて、ふたりの関係には“なるべくしてそうなった”というどうしようもなさを感じてしまう。離婚したとかではなく結婚にも至らなかったことや、中絶の事実もたたみかけてきて、正直あの夢のくだりは「早く覚めてくれ!」という気持ちになってしまった。ドーラだけでなくジャンにもいえることだと思うが、ハリーへの憧憬が故に彼に対する落胆や失望に拍車がかかってしまうのは共依存関係にはよくある話で、そういう意味でもやはり記憶を自ら隠すような惨状に陥ったハリーの隣にキムのような適切に距離を取れる“飲み込まれない人”を寄り添わせた本作の物語は本当によくできている。ハリーに必要だったのは一緒に地獄へ堕ちてくれる人ではなく、立ち直るまで淡々と手を引いて歩いてくれる人だったんだと思う。ドーラもハリーも問題があったにせよ、破滅的な共依存関係を打開してくれるような救いの手が差し伸べられなかったことが不運であり、レヴァショールにはそんな不運があふれているのだろう。だからこそハリーもキムも“役割を受け入れる”ことを選ぶし、選ぶしかないんだろうな。ドーラにまつわるやり取りにはそういった“どうしようもなさ”と“どうにもならなさ”が漂っていて、ハリーからするとずっと一生このまま“悲しい思い出”であることは変わらないのかもしれないという世知辛い予感を抱いてしまう。でも、そうだとしても彼女はもう居ない。残ったのはキムやクーノ、それとなんだかんだ見捨てずにいてくれる41分署の仲間たちだ。ハリーは“やってみる”しかないし、“そうする”しかないのだ。

▷クーノ(クウノ・デ・ロイテル)
吊るされた男の死体に石を投げつける不良少年。(本編開始時点から)2年前に学校を中退した彼は、アンフェタミンの中毒となり、トラックから商品を盗んで転売したり、街を破壊して回ったりと12歳にしては相当不健全な状態でハリーの前に現れる。どこで機嫌を損ねるかわからない過敏な感性と地頭の良さを感じさせられる彼の不規則な言動はハリーとのやり取りにカオスをもたらし、その徹底した口汚さと痛いところを適切にえぐってくる彼の悪態に社会的リアリズムを突きつけられたプレイヤーも多いだろう。本名を放棄し、自身を三人称で呼び、「気にしない」「どうでもいい」と事あるごとに口にする彼からは非当事者性が色濃くにじんでおり、マルティネーズの住民たちにも煙たがられている彼と関わることはキムの言うとおり損はすれど得はないように思える。しかし私は何度か本作をクリアしてみて、彼こそがキムに並ぶハリーにとっての“救いの手”であると強く感じている。それはキムの負傷によりクーノが代わりに相棒となるルートの存在がメタ的に物語ってもいるし、そうして相棒となった彼の言動が示す“本性の漏れ”やその物語展開にも暗示されているように思える。クーノを相棒にするルートは、ハリーがクーノを“受け入れる”ところから始まる。そうして受け入れられたクーノは自らクーノースとの関係を解消したことを告白する。父親がどうしようもない男だという事実をはっきりと正面切って突きつけられたり、12歳には抱えきれない別の子供(クーノース)の問題から逃げ出すという体験は、親身になって自身を大事に扱ってくれる大人の不在が続いていたクーノにとってはとてつもなく大事件なはずだ。そんな“介入したいと感じてしまったどうしようもない大人”と“介入してもらえたどうしようもない子供”という関係性が、かっちりとはかみ合わないながらも繰り返される対話によって着実に構築されていく様は見ていて胸を打たれる。相棒になることを提案するクーノに対してハリーが抱く「何か頼みごとをするのは…まして、自分を連れていけと頼むのは、さぞ勇気がいったことだろう」という“共感”には、ハリーがクーノのことをちゃんと“子供として扱っている”という安心感を覚えた。ハリーの相棒になったことで加速度的に当事者性を取り戻していくクーノの姿には年相応の無防備さが感じられて終始泣かされてしまった。「その脚で歩けるか、豚?」「気をつけろよ、豚。クーノに支えてほしいか?」「じいさんの具合が悪そうだ。早く医者に診せたほうがいいんじゃねえの…」などのセリフから透ける彼の優しい心根もずっと涙腺を刺激してくるから困る。ハリーと過ごすことで悪ガキであろうとする彼の“自己防衛”に少しずつ綻びが生じていることが生々しく伝わってくるのがたまらない。これは完全にこじつけでしかない超個人的見解なのだが、当事者であることから逃げられないが故に自身を騙すのではなく壊すに至ったルブランテおばさんが“ピッグス(Pigs)”とまるで豚の元締めのように呼ばれていること、そしてクーノやシンディがハリーのことを豚と呼ぶことには彼らの口の悪さを抜きにした何かしらの示唆的な“符合”があるように思えてならない。痛みを抱えた当事者であるという実情を放棄することができない(自分自身を捨て去ったり騙し切ることができない)人たちのことを豚と呼んでいるような、そんな気がしてしまうのだ。だからこそ相棒となったクーノがジャンたちとのやり取りの中でハリーに告げた「俺たちはみんな豚だ」という鼓舞には暴力的なくらい感情を揺さぶられる。あんなにも実態を伴った慰めを感じられるやり取りはそうそうないと思ってしまう。それ以外にもジャンの責めるような言葉からハリーを守らんとするクーノの「おい…そろそろやめろよ、くそ面ども。クーノさまの時間だ」から止まらなくなる彼の言葉はどれも不可抗力的に慈悲深く無意識な憧憬にまみれていて素晴らしかった。「このくそを守ったんだよ…マルティネーズを」「俺の豚が踏ん張った…そのせいで足をやられた。自己犠牲スタイルだ」「この豚はみんなを“助けて”るんだ、いいな? こいつはくそお手伝いさんだからそういうくそをするんだよ。昆虫も見つけるし、どうでもいいくそも解決するんだ。それがこいつのやりかたなんだよ。寄り道スタイルだ」など、ハリーの心を直接抱きしめるような言葉の数々にプレイ中号泣してしまったし、これを書いている今もあれらを反芻して泣いてしまっている。“くそお手伝いさん”て本当に良い表現だよなと改めて思う。クーノを相棒にするルートが“おまけ”に成り下がっていないのは、彼もまたキムに負けないくらいハリーの再起に寄り添ってくれる作り込まれた素晴らしいキャラクターだからなんだと思う。何よりハリーの方にもクーノの再起に寄り添いたいという前向きな気持ちが湧いていることが本当に大きい。思い通りにならない悪ガキを当事者として“識っていく”ことで、彼が愛すべき少年であり、そして守るべき少年であることを思い知っていくという体験のなんと素晴らしいことか。インスリンデナナフシににおいをかがれるハリーを見て「すっげえ。あんたのことが好きなんだ…」と驚くくだりは、無意識にハリーが未知の生物にすら好かれる存在であると感じていること(自分自身にもハリーに対する憧憬や安心感が芽生えていること)が照れくさいくらい露呈しており、そんなクーノの感受性や迂闊さが愛おしくてたまらない。I love you CUNO!

▷キム・キツラギ
ハリーと同じくRCMの警察官で57分署の警部補。自分自身から逃げ出そうとしたハリーのことを辛抱強く引き留めつつ、当事者であることの意義や快感を思い出させ、呆れながらも優しく手を引き続けてくれた最高の相棒。本当に素晴らしいキャラクターだった。ハリーのようなはちゃめちゃオジサンと対をなすのが彼のような堅実で控えめでその実かなり情熱的な男であることが本作の細やかな表現をより魅力的にしていたと思う。生まれも生い立ちもけして恵まれているとはいえず、ずっと人種的な差別を受けてきたであろう痛みや怒り、刑事としての失望ややりきれなさ、セクシャルマイノリティとしての煩わしさや怨念を抱えているであろう彼が、何か言うわけでもなく澄ました表情で後ろ手を組み隣に立っていてくれる安心感たるや。そしてそんな漠然とした安堵が彼を識っていくことで否定しようのない根拠を得ていくあの心強さといったらない。隣人を好きになれるということはあんなにも不安や心配が解消されていくことなんだといくことをキムは淡々と証明してくれた。彼はけして包容力のあるタイプではないのに、歩み寄るために努力してくれたし、内心困惑してても見守ってくれたし、皮肉やかわいい意地悪を交えながら話を聞いてくれたし、間違っていると感じたことには適度に怒りを示してくれた。ハリーのような状態に陥った人間は頭ごなしに“壊れ物”として扱われてもおかしくないのに、キムはいつだってはちゃめちゃな記憶喪失刑事と向き合い、無視やスルーは最小限にとどめ、可能な限りハリーのことを注意深く観察してくれた。これは彼の性分なのかそれとも少年課に勤めた15年のキャリアによるものなのかはわからないが、そうして適切な距離感を保てる人が物語開始時のハリーのもとへやってきたことは本当にラッキーだったと思う。44歳にしてキムとの縁をつかみ取ったハリーの人生はやっぱりまだまだ捨てたものではないはずだ。人と出会い続け、縁を結び続けることくらいしか加齢によるあらゆる衰えに抵抗するすべはないということを物語るような出会いだったと思う。そうしてキムに対して抱く好意や安心感こそが、本作をハリアー・デュボアとしてロールプレイできたことの何よりの証拠だといえるのではないだろうか。本編から見て取れるキムの魅力は語り尽くせないくらいあるが、個人的に一番好きな彼の素養は“信念は固いのに矜持にはそれほど興味がなさそうなところ”だ。“執着の置所”とでもいえばいいのか、そういった彼の病みにくい比重の置き方がとても格好いいと思うし、私自身がかなり極端な比重で生きているためそういう健康的なバランス調整能力には強い憧れを抱いてしまう。大好きなシーンなので何度でも語ってしまうが、ハリーが「“これ”がすべてだとしたらどうする?」と問いかけたときにキムが返す「警部補、誰もがなんらかの役割を担っている。僕のは事件を解決することだ。世の中の仕組みの中で、僕の役割はさほど重要ではないことも知っている…。だけど、それは僕の役割だから受け入れている。そして、たとえどう思っていても、それは君のものでもあるんだ、警部補!」という宣誓のようなセリフは何度読み返しても胸が熱くなる。“責任をまっとうする”などではなく“役割を受け入れる”という言い回しにキムの良さが露わになっていると思う。そして「君も受け入れるべきだ」ではなく「君はどうするんだ?」という問いかけの意味合いの方が強いところに涙がこみ上げてくる。あのセリフに珍しく少しだけにじむキムのワガママが、ハリーへの信頼と甘えの裏返しのように感じられるのもたまらない。また、ふたりがブランコに座り口笛を吹くシーンやハリーがキムに名前を変えたいと思ったことはないのかと問うくだりは彼らのやり取りの中でもとりわけ耽美的な表現に富んでおり記憶に深く残っている。銃撃戦の最中撃たれたハリーにキムが叫ぶ「しっかりしろ!」が原語だと「Stay with me!」なのも忘れられない。日本語も英語もそれぞれ表現としての強みを持っているとは思うものの、あの瞬間の表現としては英語に分があったなと思う。お互いの死を覚悟してハリーの背中を追ったキムの心情を思うと、なおさらあの「Stay with me!」に重みを感じる。島から戻ってきたあとのラストシーンで41分署の問題を話すことになった際、少し距離を取って待っているのが非常にキムらしい。出会う人たちに自身の素性を偽っている者やうそをついている人が多いことに嘆くハリーにキムが返す「僕は今もキム・キツラギで、まだ57分署の警部補だよ」という言葉に彼の生き様が映し出されているようでたまらなかった。ハリーを責めるジャンに対して「彼はできるかぎりのことをしました」と口を挟んですぐに「いえ、“私たち”はできるかぎりのことをしました」と言い直すのも彼の当事者であろうとする意思と非当事者を装うことへの抵抗が見て取れる。その後、痛いところを突いたハリーに加勢するように「ご自分のためにも、あまりきつく当たらないように」とジャンに苦言を呈するのを見て悶絶してしまった。そしてそれに対してあえて謝罪しないジャンの意地もあからさまで、一体何を見せられているのかと思った。あれは痴情のもつれなのか? ハリーのことを「He is tireless」と評価するときのキムの声音が本当に感心している様子なのがほほえましい。ハリーがカラオケしたことを語るくだりで「それは勇気ある奮闘でした。彼は心のかぎりに歌っていました」というキムの言葉、笑えるんだけど同時にすごく泣けてしまう。ハリーの性質や魅力を優しく捉えた言い回しだなと思う。ハリーが高校の体育教師だったことがわかったときの「それで全部腑に落ちたよ。あれだけ走れまわれること。あのジャンプ。その上腕二頭筋の太さ。君のおかしな顔ひげも…」とか「君がそんなにも大人げない理由は、それだったんだ」とか「やっぱりね。普通の人間なら、あんなふうに走ることなんてできないと思ってたんだ」などの発言ににじむハリーにまつわる記憶の反芻がうれしかった。キムがハリーの“大人気なさ”を欠点や弱点ではなく“特徴”として捉えている感じも彼の素敵な魅力だと思う。ジャンが41分署の評判について自虐的な発言をしたとき、すぐにそれを否定するように具体的なフォローを入れるキムの優しさと誠実さが胸にくる。あのフォローによってジャンが少しずつ落ち着きを取り戻し言動がやわらかくなっていくのがもう、ね。キムって本当にすごいよ。大変だろうけどジャンの面倒もみてやって……。41分署で一緒に捜査しないか誘ったとき「プライス警部と一緒に働く?」と、目の前のハリーではなく尊敬するプライス警部の方に意識がいってしまっているのがかわいい。彼がハリーと寄り添えるのは、きっとこういった“自身の本望を優先すること”が習慣化しているからなんだと感じられる。道中の細かすぎる描写によって彼の魅力はまだまだ山程あるのだが、さすがにこの辺にしておこう。プレイヤーごとにそれぞれの“キム・キツラギとの思い出”が多々あるはずなので……。

▷ハリアー・デュボア
RCMの警察官で57分署の警部補長長。ハリーについては前項までに語りまくったので、ここではハリーが魅せる最大の魅力と、本作で一体彼に何がおきていたのかについて私なりの見解をまとめて締めたいと思う。数多く発露していたハリーの素養の中でもっとも魅力的だと感じるのは、やはり彼の感応力の豊かさだ。他者が漏らす感情や意識の機微をすくい取るためには自身の中にある同様の機微を自覚していなければならず、己の複雑さや深み、痛みや恥を可能な限り鮮明に識っていなければ彼のような洞察力を持った身体には至れない。彼は彼で在り続けるからこそこれからも打ちのめされ、痛みを増やし、傷ついていくのだろうけれど、そんな彼にしか寄り添えない人や体験できない物語があり、そんな彼だからこそ愛おしくてたまらないのだと思う。“意志力”の「顔をあげろ。いい面だけに集中するんだ」という鼓舞を胸に、これからもずっとハリアー・デュボアはハリアー・デュボアの当事者で在り続けてほしい。最後に、一体ハリーに何が起きていたのかについてだが、おそらく彼は(ラストシーンでジャンが伏せていた)機動隊による教会襲撃の際に例の識域の赤ちゃんに触れてしまい(ミノー巡査が言っていたハリーの失神も多分このとき起きたことで、失神の原因は彼の不摂生がたたった身体的な問題と発生したばかりの識域との接触の両方だと思われる)、それをきっかけに彼がずっと見て見ぬ振りをしてきた(非当事者であろうとした)様々な痛みの記憶(特にドーラとの間に起きたことや同僚たちと不和が生じていること)が一気にあふれて(ジョイスの言う“過去による過剰被爆状態”に陥って)、その記憶の濁流を受け止めきれなくなった脳が自己防衛としてそれらの記憶を“受け流した”ことで一時的に喪失状態となってしまったのではないかと私は解釈している。言語化すると何かたいそれたことのようにも感じられるが、“触れたくない思い出に触れ、失恋のトラウマがフラッシュバックしたので、脳や心が強制的にシャットダウンした”といった、規模の大きさを問わなければ誰にでも起こりうることのように思えなくもない。本作における当事者性への執着を考えたとき、ハリーが痛みの神殿から逃避する非当事者から破滅願望を捨てまえに進もうとする当事者に立ち戻るまでの物語を描いていると考えるとしっくりくるし、なにより気持ちがいい。彼の孤独を象徴する“趣味の悪いネクタイ”との燃えるほど情熱的な別れが示唆するように、彼はもう充分過ぎるほど自分自身との対話を完了している。キムの気配を背中に感じながらジャンと正面から向き合いつつ「準備はできてる」と強がる彼のいじらしさを、観察して、触れて、識って、愛してくれる人たちがもっともっと増えることを願ってやまない。

「落ち着け。返してくれるさ」

順を追うように体感の言語化をしてみて、やはり本作には「当事者たれ」という熱い思いがあふれんばかりに詰まっていると改めて思った。昨今の世情に蔓延する毒のような諦観はマルティネーズの現状と非常に深く重なるところがあり、その描き方は暴力的なくらい論理的で気休めを抜きにした残酷なものも多かった。しかしだからこそ、その諦観に立ち向かったり寄り添そったりするハリーたちの“あがき”のような当事者性が美しく光る場面が何度も何度もあって、そのたびに現実の自分も救われるような体感を得ることができた。本作が発しているエネルギーを一言でいうとそういった「慰め」の色が濃かったように思う。リリエンヌとのデートについて触れた際に前述したが、「生きることは素晴らしい」といった生を全肯定するような圧力を示したりはせず、「生きていくしかない」と、「とりあえず一旦立ち上がってみようか?」と手を引いてもらうような、そんな感覚を味わうようなゲーム体験だった。前向きな話題が乏しい日々の中であっても、キムのエース・ローを待つハリーのように、あれくらいのかわいい“欲”は失わずにいられたらいいな……。

最後に、このすさまじいゲームを生み出してくださった方々、
そして日本に住む私の手元に届くよう手を尽くしてくださった方々に、
今一度深い感謝を。

本当にありがとうございました。

インスリンデナナフシの言葉を借りるならば、
「奇跡はあなた方だ」と伝えたい。

そして願わくば、奇跡よもう一度、とも。

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