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発達障害に関係のある人に知って欲しいニューロロジカルレベルとは

「私は発達障害です」と、「私は発達障害をもっています」は、同じようなことを言ってるようで、質的には全然異なります。
後者の言い方をするように…と、私もボスに教えてもらうまで違いや使い分けを意識したこともなかったのですが、これを知ってみると日常のいろんなことに応用できる考え方なのです。
効果的な叱り方や他者承認などをする際に、とても役立ちます。
また、セルフエスティームなどの自己イメージを上書きする際にもあると便利な視点です。

わたし自身は、この違いを明確にしていくことで、存在と行動と価値観を分けて考えるようになりました。そして、違いを意識して使い分けられるようになってくると、子どもを叱るときの心理的なダメージを減らすことができたと思っています。

ですから、ぜひ、保護者の方、支援者の方には知っていただきたい違いであり、当事者の方もセルフイメージに影響がある違いですので、いろんな方に知っていただきたいと思うことの一つです。

私=発達障害 でしょうか?

私は発達障害です。
私はADHDです。
うちの子どもはASDです。
上記は、発達障害があることを説明するときに使われがちな表現です。
私もこうした表現を使っていましたが、ボスから「違う表現にしてくれる?」とお仕事をし始めたころに指導されました。

アメリカ留学中に、ADHD Children ではなく、Children with ADHDという表現と考え方が大事だと繰り返し教えてられたそうです。
これは、子どもの存在そのものがADHDなのではなくて、その子がADHDの特性をもっているという状態を表しているんだよ、という説明をされたように思います。

別の例にしてみると…
「私はダメな人」と「私はダメな行動をすることがある」に通じる違いです。声をだして「 」を読んでみると、感覚的にその違いを感じることができるようです。そして、多くの人は「私はダメな人」といったときの感覚の方が、ネガティブさを体感するのではないでしょうか?

ニューロロジカルレベルが役に立つ理由

ニューロロジカルレベルなんて書かれると、カタカナ言葉が大嫌いなわたしなんぞ「なんだい?その小難しい言葉は」と意地悪ばあさん風に文句を言いたくなるところなのですが、このニューロロジカルレベルという考え方があると、「わぁお!」と言いたくなるような、人間理解ができるようになると私は思いましたので、しばしお付き合いくださいませ。

ニューロロジカルレベルは、意識のレベルに関する考え方 で、この理論を使うことにより、自分の意識レベルと、外部(他者・出来事)の関わり方が明確になってきます。その理由は、言葉でのコミュニケーションの際に、さまざまなレベルで反応しているといわれているからです。

ニューロロジカルレベルの5つの階層による褒め方比較

ニューロロジカルレベルを理解するには、各レベルによる褒め方を比較していくことが私には理解しやすかったので、以下でやっていこうと思います。が、その前に、まずは、ニューロロジカルレベルって何だい?ってところを、ざっくりとお伝えしてみます。下の図は、『イメージが変わると未来が変わる』より拝借しました。

ニューロロジカルレベルは、上の図のように、人の5つの階層になっています(6つで説明されている人もいます)。
一番上から、「アイデンティティ(自己認識)レベル」「信念・価値レベル」「能力レベル」「行動レベル」「環境レベル」になります。上にいくほど、人間にとって深い意識レベルであり、下にいくほど表面的なことになります。

さて、突然ですが、質問です。
貴方のお友達が、ある時、素敵な洋服を着ていたとします。
あなたは、それをどんな言い方で相手に伝えるでしょうか?

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私が環境レベルで、相手に伝えるとしたら、
「あなたのお洋服、とても素敵ね」といいます。このレベルでは、持っているものや環境といった、その人の外側にあるものが評価されます。

行動レベルで相手に伝えるならば、
その洋服の合わせ方が素敵!」とか「今日のお天気にぴったりねで素敵ね♪」といった感じで、その方のとった行動に対して感心したことを伝えます。

能力レベルであれば、「あなたのセンスってホントに素敵よね!」という伝え方になると思います。
ひとつ前の行動レベルでは、ふるまいそのものに焦点が当たっていますが、能力レベルではその行動の質について述べられるため、自分の内側にある能力が褒められていると感じるようになるため、前のレベルよりも自分が評価されていると感じやすくなります。

信念・価値レベルにするとしたら、
いつもオシャレしててホントにすごい。素敵だわ!」となります。
これは、その人の信じている価値をすごい、素晴らしい!と言われるため、能力を褒められるより、もっと重要なところを褒められていると感じやすいのです。

上の4つのレベル全てに素敵!という言葉を使っていますが、下のレベルで褒められるよりも、上のレベルで褒められた方が、よりその人自身を褒められていると感じられるでしょうか?
価値・信念は、人が生きていくうえで大事にしている重要なことですから、素敵ね!と褒めれてると、その人はとても満たされた気持ちになるところです。

そして。
ニューロロジカルレベルの最上位であるアイデンティティレベルです。
このアイデンティティとは、自分とは何者なのか?という、「私は○○です」という、私はに結びつけた自己意識のことです。自己同一性といった言い方もされる、自分そのものと一体化したセルフイメージともいえます。ですから、このレベルで素敵!を使って私が相手に気持ちを伝えたい場合、「あなたってオシャレな素敵な人ね!」という言葉を使います。

このレベルは、他の4つとは根本的に異なるといわれていますが、上の誉め言葉を声にしてきいてみると違いが体感できるのではないでしょうか?
他のレベルへの評価は、信念や価値観であってもその人の部分に対する評価になりますが、アイデンティティレベルでの評価は「あなた=すてき」となるため、その人の存在全てを評価することになるからです。そのため、アイデンティティに対する評価は、存在承認を意味するのです。
逆に、アイデンティティを否定することは、人格否定を意味するのです。

存在と行動を分けることが大事な理由

以下の引用が、存在と行動を分けることな大事な理由を要約している説明になります。

ニューロロジカルレベルでは、「上位のレベルが下位のレベルに大きな影響を与える」「上位概念はより重要な意味を持ち、下位概念に大きな影響を与える」と考えます。
 『イメージが変わると未来が変わる』山崎啓支 高山恵子共著 p.22より

最上位レベルで、「私は優秀だ」と実感している人は、そのイメージとともに生きているために、優秀だというイメージともに生きています。
しかし、「私はダメ人間だ」というセルフイメージ(アイデンティティ)の人は、「自分はダメだからガマンしなくてはないけない」という信念・価値をもっていたり、自分はダメ人間だからな何もできないという能力レベルでの思い込みがあったり、、だから「何をやってもうまくいかない(行動レべル)」、その結果、「(環境について)こんな生き方になるんだ」というような自己否定をしてくことが容易に想像できます。

ですから、「私は○○です」という自己イメージがとても大事になってくるのです。

ですが、ついつい、何か失敗をしたりすると、「なんで私ってこういう人なんだろう…」とか、「私ってバカだなぁ…」とか、自分をダメとか馬鹿な人としてみる人格否定を自分自身でしたりすることないですか?
わたしは、未だにやってます。落ち込むと、なんでわたしって…を、まだまだやります。

それだけはなくて、他者をみて「あいつバカじゃん!」とか罵ったり、子どもを叱るときに、悪気なく「ダメな子ね!」と言ってしまったしませんか? わたしは、こちらも未だにやってしまいます。自分がしてほしくないと思っていることを子どもがした時など、「なんでこんな子になったのか…」などと、子どもの人格そのものを否定してしまい、はっとします。

そんな時に有効なのが、存在と行動を分ける…という方法です。

存在と行動を分けるとは

あなたという存在は〇
修正してほしい行動については、△だったり× 
ということを意識的に分けていけるようになると、子育てにもセルフイメージの修正にも非常に役に立つのです。

子どもを叱るときを例にすると、「その程度のことができないなんて、あなたってダメな子ね!」と叱ってしまったとしたら、言われた子どもは「自分そのものがダメなんだ」と思い込んで、いつも同じ失敗を繰り返すようになってしまうかもしれません。
いつもいつも、「ダメな子」と言われ続けたら、「自分ってダメ人間なんだ」って思いこんでしまい、そのイメージにあった言動をしていくようになってしまうでしょう。

ですが、人と行動を分けて、「なぜそれが出来なかったのか」という行動レベルでの問いや、「どうやったらできたのか?」という能力を問う話にすると、部分的な過ちだったことにすることができます。すると、自分で修正する能力が多くの人には備わっているため、「あぁ、こうすればよかったんだ!」「こうしたらできたかもしれない」といった自分で自分の行動を修正するようになれるのです。

若かりしころの私は、感情的に子どもに怒鳴ってしまうことがたくさんありました。「なんてことしてたんだ」と、今でも思いだして後悔しそうになるのですが、「あの時の私はあの時のベストを尽くしていたから」と過去の自分の行動を部分化にして、今の自分とは別の過去の自分に対して、その過去の自分は許して、今のわたしが同じ過ちを繰り返さない努力をしています。

親は子どもを感情的に怒ってしまう生き物なんだと思うんです。ですからせめて、言い方の違いで、心理的なダメージを減らす努力をしてみるのはいかがでしょうか?

発達障害を行動レベルでみることの利点

たいぶたいぶ長い前置きなってしまいましたが、この投稿でお伝えしたかったことの話にやっときました。

「私は発達障害です」と、「私は発達障害をもっています」を使ってほしい理由についてです。
「私は発達障害です」は、私という人のアイデンティティとして、発達障害と自己が同一化しています。
私=発達障害 という意味になります。

これだけでは、自己イメージが悪いのかどうかは、「発達障害」に対するイメージが人により異なるため、もしかしたら「発達障害」であることが、自分のすばらしさと直結しているのであれば、そのままでも構わないのだと思います。

しかし、「発達障害」の特性を持つの行動や能力は、持たないか方に比べると失敗も多く、できないことも多いため、「私は発達障害です」という自己同一化は修正する方がいいと思います。
この場合も、人と行動を分けて考えることが大事になってきます。

上でご紹介した小冊子の中に、わかりやすい例がありました。
喘息には治りやすい方と、治りにくい方がいるそうです。

治りにくい方は、「私は喘息です」という表現をつかうそうで、こちらはアイデンティティと喘息が同一化しています。自分自身と喘息が一体化しているために、自己と切り離せないほど喘息に浸透されていることが、その言葉から理解できます。

逆に治りやすい方は、「私には喘息の症状がある」という表現を使うそうです。この言い方は、行動レベルで喘息をとらえていることがわかります。喘息と自分自身と切り離して捉えています。

上記の喘息を、発達障害に変えてみるとどうでしょうか?

発達障害は、悪いことではないのに(大変なことが多いのは身をもって体験してますけど)、「私は発達障害だから」という自己イメージを持っているよりも、「私は発達障害をもっています」という方が、発達障害との距離感ができて、自分自身と切り離して考えられるようになるのではないでしょうか?

自分自身とわけて考えらえるようになると、全部ではなく、自分のなかの一部の行動を修正したいだけであって、自分の全てを否定しなくていいのだ…という自己イメージ、自己理解ができるようになっていくと思います。

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私は、人生をよりよく生きるためには、「自分を許すこと」が最も大事だと思っています。これはとんでもなくムズカシイことなのかもしれませんが、「自分がダメ出ししたいのは、自分自身ではなくて、自分の行動だったり、能力だったりするだけで、私自身はダメじゃない!」と少しずつ思えるようになっていくと、生きている体感が変わってくるのではないでしょうか。

私は、今でもたくさんの失敗はしますし、きっと社会では落ちこぼれなのだと思いますが、「私はこれでいい」と開き直れた日から、少しずつ変化してきました。そして、自己否定の塊だったわたしが、ここまで穏やかな毎日を過ごせるようになったことは奇跡のような幸せだと思っています。


これは、いろんな方の支えがあったからこそ…です。
ですから、今度は、私が次の誰かに恩送りしたいと思い、こうした投稿をぼちぼちと続けていこうと思っています。
拙い文章ですが、少しでも誰かの心に届いてくれたら…と願っています。

長文、お読みいただき、ありがとうございました。

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