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上場SaaSのマルチプル相関分析 ---二分された市場評価と考えるべきIPO戦略について

1. はじめに

2021年秋頃から下落傾向にあった上場SaaS企業の平均マルチプル(EV/revenue(NTM))ですが、以下のグラフの通り、昨年春頃に5x程度で落ち着き、以降概ね同水準で推移しております。これは日本でも米国でも同じ状況です。

しかしこの数字をもって、「SaaS銘柄のマルチプルは5x」と一様に判断するのはミスリーディングであり、その裏にあるマルチプルに影響を与えている指標を理解することが重要です。本記事では、各指標とマルチプル(EV/revenue(NTM))の決定係数(R2)を用いて、マルチプルに影響を与えている指標について考察したいと思います。

先に結論としては、国内上場SaaSについては、ARR 50億円程度未満のSaaS銘柄と、それ以上のSaaS銘柄では、市場からの評価(マルチプル)に影響を与えている指標が全く異なり、違うゲームであることがデータから分かりました。SaaSスタートアップにとっては、目指しているIPOの形によって未上場マーケットで取るべき戦略が異なってくるものと考えております。

※本記事のデータでは、米国についてはBessemer Venture partnersが公表しているBVP Nasdaq Emerging Cloud Compに採用されている上場SaaS約70銘柄、日本については国内上場SaaS約30銘柄をもとに分析しております


2. 米国SaaS企業における各メトリクスとマルチプルの決定係数(R2)推移

まずはこちらの図をご覧ください。これは米国SaaS銘柄全体について、各メトリクスとマルチプルの決定係数(R2)を時系列に取ったものです。

一般的に緩い相関があるとされるR2が20%以上のメトリクスとしては、Revenue growth rate, Rule of 40(= growth rate + FCF margin), CAC paybackの3つとなりました。さらにRevenue growth rateとマルチプルのR2は21年4月末には60%以上もありましたが、その後30%台まで下落した一方、Rule of 40の説明力が急上昇しており、よく言われている「コロナ以降、Growth at all costで成長性が重視されていたが、ここ1年半ほどRule of 40など収益性が重視されるようになってきた」という言葉を表す結果となっております。

しかし、これをARRの規模別にみると見える景色が変わります。以下の図は、先ほどと同じ項目について、ARR Bottom 50%とARR Top 50%で分けてそれぞれのR2推移を見たものです。

これを見ていただくとお分かりのように、

  • コロナ期以降、Revenue growth rateのマルチプルに対する説明力が大きく低下しているのは、実はARR Top 50%のSaaS銘柄のみであり(R2: 71.4%→49.5%)、ARR Bottom 50%のSaaSではRevenue growth rateの説明力がほぼ同水準(40%~50%程度)で推移しております。

  • 一方、Rule of 40の説明力が大きく上昇し、高水準で推移しているのはARR Top 50%のSaaS銘柄であり、ARR Bottom 50%のSaaS銘柄におけるRule of 40の説明力は足元10%程度です。

つまり、成長性よりも収益性が見られ始めたというのは米国ではARR規模の大きいSaaS銘柄に当てはまるものであり、ARR規模が小さいSaaSは、2021年のコロナ期から見ても引き続き成長率が評価され続けていると解釈できます。なお、CAC paybackは両者で大きな差がなく、一貫して20%~30%程度で推移しており、マルチプルと緩い相関が見られます。新規顧客獲得の効率性は、ARR規模にかかわらず重視されていると考えられそうです。


3. 各メトリクスとマルチプルの決定係数(R2)推移:日米比較

3-1. Revenue growth rate vs EV/Revenue (NTM)

では、次に日本のSaaS銘柄にも目を向けてみます。以下の図は、これまで議論してきたRevenue growth rateとマルチプルの決定係数(R2)をヒストリカル推移でみたものです。

  • 米国では、ARR Top 50%のSaaS銘柄(青線)について、Revenue growth rateとマルチプルの決定係数(R2)がここ2年で大きく下落した一方、ARR Bottom 50%(オレンジ線)ではほぼ変わらず推移しております(上述の通り)

  • 一方、日本では、ARR Top 50%のSaaS銘柄(青線)のR2が大きく上昇している一方、ARR Bottom 50%のSaaS銘柄(オレンジ線)は逆に大きく下落しております

つまり、日本ではARR規模の大きいSaaSほど成長率がマルチプルを説明できており、逆にARR規模が小さいSaaSは成長率の説明力が非常に限定的な状況となっております。

3-2. Rule of 40 vs EV/Revenue (NTM)

次にRule of 40で同様に日米比較をしてみます。

  • 米国では、ARR Top 50%(青線)のR2が常にARR Bottom 50%(オレンジ線)の水準より上位に位置しています

  • 一方、日本ではその逆で、ARR Top 50%(青線)のR2が常にARR Bottom 50%(オレンジ線)の水準より下位に位置しています

このように、マルチプルとRule of 40の相関をみてみると日米で対照的な結果となりました。日本では、ARR規模の小さいSaaSはRule of 40がマルチプルを説明できており、逆にARR規模が大きいSaaSはRule of 40でマルチプルを説明できない状況となっております。

4. 日米比較まとめ

以上の議論を改めて以下のような表でまとめます。

これまで見てきたように、

米国では

  • ARR規模が大きいSaaS:収益性の説明力が(相対的に)高い

  • ARR規模が小さいSaaS:成長性の説明力が高い

という結果に対し、
日本では、

  • ARR規模が大きいSaaS:成長性の説明力が高い

  • ARR規模が小さいSaaS:収益性の説明力が高い

という、日米で真逆の結果になっております。

なお、これまでARR Top 50%、 Bottom 50%という表現をしてきましたが、その基準(=ARR 50 percentile)も合わせてこちらの表に記載しております。足元では概ね、

  • 米国ではARR$800~900milくらい

  • 日本ではARR50~60億円くらい

がその基準となります。つまり、日本においては、ARR50~60億円を境にして、それ未満であれば収益性が、それ以上であれば成長性が、それぞれ市場評価に繋がっていると言えます。

5. 考察

なぜこのような違いが生まれているのか、そしてそこから示唆される点について簡単に触れたいと思います。

日本の上場SaaS銘柄における、

  • ARR規模が大きいSaaS:成長性の説明力が高い

  • ARR規模が小さいSaaS:収益性の説明力が高い

という点については、株主構成の問題が大きいかと考えております。ARR規模の小さいsmall capのSaaS銘柄は個人株主が多く、利益指標をベースに株価形成が行われているものと想像します。これは、SaaS銘柄かどうかはもはや関係なく、他業界・他業種の銘柄と一律な基準で評価されており、例えばPERなどが市場評価のベースになっている可能性があります。他方で、ARR規模の大きいSaaSとなると、海外の機関投資家も入ってきますし、SaaS銘柄としてPSRをベースにしたトップラインの成長性で評価されていると想像します。

一方、米国はARR100億円がIPOの最低ラインの目線ということもあり、上述の通りARR1,000億円程度まではまだまだ成長率が見られており、一定規模(ARR1,000億円程度)に達した後、利益をしっかり出せるような銘柄が市場評価に繋がるようです。SaaSのトップラインは基本的にリカーリング型の積み上げで、早期から利益を出そうとするとその後の成長を持続するのが難しいことや、利益を出すとしても一定規模以上にならないと意味のある利益還元にならないというのが背景にありそうです。

なお、日本ではARR規模の大きいSaaSといってもARR50~200億円のレンジではあるので、米国のARR Bottom 50%(=ARR$800~900mil以下)のSaaS銘柄の中でも低位に位置します。もちろん、マーケットサイズが両国で異なるのは当然ですが、少なくとも「日本の中でARR規模が大きいからといって収益性が評価される」というものではなく、海外投資家の存在もあるので、日本のARR規模の大きいSaaSは、米国のARR規模が小さいSaaSと同じようなメトリクスが見られていると言えます。

これまで見てきたように国内のSaaSスタートアップにとっては、ARR規模50~60億円を境にしてPublicマーケットで全く異なるゲームが待っていることになります。PrivateマーケットでPSRをベースにした評価で調達を行った一方、ARR二桁億円前半でのIPOを狙うとするとPublicマーケットは収益性を見てきますので、PrivateマーケットとPublicマーケットで評価方法の歪みが発生することになります。

従い、ARR二桁億円前半でのIPOを見据えるのであれば、黒字を出せる体制作りに向けてPrivateのうちに(それも、その蓋然性を高めるならIPOの数年前から)舵を切ることも重要になりますが、

「Privateのうちに黒字化に舵を切りARR二桁億円前半で上場し、上場後も市場からは収益性を見られる中、成長を持続させlarge capになっていく」というシナリオは(2020~21年のような市場が来ない限り)かなり難易度が高いでしょう。従い、仮にLarge capを志向するなら「Privateマーケットで海外投資家も含め大型調達を行い、ARR50~60億円を超えるまでstay privateで赤字の先行投資を続けていく」という選択を取るべきだと思います。

6. 最後に

以下の図はARR Top 50%と Bottom 50%に分けたマルチプル平均の推移です。

日米ともにARR Top 50%のSaaS銘柄の方がARR Bottom 50%よりマルチプルが若干高くなっておりますが、差は決して大きいものではなく、平均すると5x前後という冒頭お示ししたグラフの結果から大きく変わるものではありません。しかし、これまで見てきたように、同じ5x前後のマルチプルという水準でも、それを説明するファクターは全く異なることがご理解いただけたのではないでしょうか。まとめると、SaaS銘柄のマルチプルは、

米国では

  • ARR規模が大きいSaaS:収益性の説明力が(相対的に)高い

  • ARR規模が小さいSaaS:成長性の説明力が高い

という結果に対し、
日本では、

  • ARR規模が大きいSaaS:成長性の説明力が高い

  • ARR規模が小さいSaaS:収益性の説明力が高い

という日米で真逆の結果になりました。日本のSaaSスタートアップにとっては、

  • ARR二桁億円前半でのIPOを見据え、黒字を出せる体制作りに向けてPrivateのうちに(それも、その蓋然性を高めるならIPOの数年前から)舵を切る or

  • Large cap IPOを志向し、Privateマーケットで海外投資家も含め大型調達を行い、ARR50~60億円を超えるまでstay privateで赤字の先行投資を続ける

というのが現実的な選択肢かと思います。そして、その分かれ道がSeries B前後くらいで来るかと思いますし、特に後者の場合はただ単にARR50~60億円に行けばいいというものではなく、そこを超えたときの成長率がバリュエーションに効いてきますので、Series B前後でのマルチプロダクト戦略含めたTAMの見極めや将来的な成長率の予測・打ち手が重要ですし、それに応じたIPO戦略についてpublicマーケットの動向も踏まえながら経営の舵取りをしていく必要があります。


(文・新田修平)









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