見出し画像

『あかり。』 (第2部) #45 神楽坂の天ぷらをたかる・相米慎二監督の思い出譚

赤坂見附にある新しいオフィスシロウズのオフィスで囲碁を囲んだ。
といっても僕は見ているだけである。ササキシロウさんと相米監督が雑談をしながら、囲碁を打つのをぼんやりと見るともなく見ているだけだ。
一時期、僕に囲碁を覚えさせようと、監督が先生までつけてくれたことがある。しかし、僕にはどうにも馴染めず、才能もなく、諦めてしまった。

新しくなったオフィス シロウズは広くなった。そのことを監督はすごく喜んでいた。
とある映画がヒットしたからだ。
「たまにはシロウさんにも、いいことがなくちゃいけないからな」と嬉しそうだった。
監督とシロウさんはすごく仲がいい。
信頼しあっているのがよくわかる。
「監督はシロウさんと映画を作らないのですか?」
と、また聞いた。
「あんないい人に迷惑をかけるわけにはいかない」
と、監督は同じことを言った。
監督が映画を撮ると製作者に迷惑がかかる・・ならば今の準備している映画はどうなのだろう。疑問に思うけど、それ以上、言う訳にもいかず「そうですか」と適当な相槌を打った。

一つ木通りを歩いていると
「今日はなに食うの?」と監督が言った。帰ろうかと思っていたのでなにも考えていなかった。
「どうしますか」
「そうだな」
「誰かいないの?」
奢ってくれる奴を探せ、という意味だ。
「Hさんに電話してみますか?」
「そうだな」
僕は携帯でHプロデューサーに連絡してみた。
「今、監督と一緒なんですが……あの…」
「はは……えーっと、ちょっと待ってください。折り返します」
「すいません」
Hさんはすぐに察してくれた。この気遣い、大変助かる。
僕は電話切って、コーヒーでも飲みますかと監督に言った。

すぐに、折り返しがあった。
「Oがいけるそうです。七時に神楽坂の天ぷら屋でどうかと言ってます」
「わかりました。ありがとうございます。なんというお店ですか?」
「神楽坂の天ぷら屋と言えば、監督わかりますから」
「あ。はい、ありがとうございます」
Oさんは、E社の社長である。ちなみに僕は面識はあるもののちゃんと話したことはない。
電話を切ると、その旨を監督に伝えた。
「天ぷらか。いいな」
「行きますか」
「おお」
監督は珈琲を飲み干すと、競馬新聞をポケットにしまった。

神楽坂は人で賑わっていた。新しいお店も増えていたし老舗もある。僕たちは靖国通りからメイン通りをぶらぶらと上がった。
途中、右に折れると石畳があるエリアだ。その辺りは昔の風情が残っていた。
しばらくいくと、旅館がある。いろんな作家や脚本家がこもって書いたと言われるWで、僕のようなものからすると憧れの旅館だ。

「監督はWにこもったことはあるんですか?」
「ああ」
「どうなんですか、こもるって」
「いいぞ。ホン書かないのに毎日、ここらで食いまくって、食い過ぎだって怒られてな」と嬉しそうに笑った。
「へえ」
確かに、この辺りで監督に自由にさせたら、とんでもないことになりそうだ。

やがて露地の奥に、瀟洒な暖簾がかかっている小さな店が見つかった。
監督がくぐると、僕も続いた。中は掃除が行き届いた美しいお店であった。まさに東京の老舗だ。
カウンターにはOさんがすでに座っていた。
「監督、久しぶり」
「おお。元気なの?」
「おかげさまで」
二人の会話は短い。僕が挨拶をすると「知ってるよ」とOさんが笑った。
Oさんはグリコの仕事を担当しているわけではないが、社内のことなのであらかた把握しているふうだ。まあ、社長なんだから当たり前だが。

「ここは美味いから」とOさんが言い、主人が天ぷらの準備を始めた。客は我々だけだった。
この店では、客の目の前で天ぷらを揚げてくれる。どうやらメニューはなく(あるいは決まっていて)一種ずつ、提供される。
Oさんはワインを開けた。
ワインと天ぷら? 僕にはわからない世界だった。

しかし、こんなに美味い天ぷらは初めて食べた。
揚げたてを和紙に乗せてもらったそばからパクパク食べる。熱くてカリッとした衣。季節の天ぷら種のみずみずしさ、もう箸が止まらなかった。
隣ではOさんと監督がゴルフの話やらなんやらしていたのだが、僕は話にも加わらず、天ぷらに夢中だった。

「ムラモト君はよく食べるねえ。ここ美味いだろう。この店だったらいつ来てもいいぞ。その代わり、来たら俺に連絡してくれよ」
「はい、ありがとうございます」
Oさんは僕を主人に紹介してくれた。

しかし、『いつ来ていい』と言われても、相当高そうなこの店にふらりと来る訳にもいかないし、勝手に食べて『行っちゃいました』と後でOさんに電話するほど度胸もない。

締めの天ぷら茶漬けを啜りながら、おかわりをしていいのかどうか迷った末、やめた。ここは腹一杯食べる店ではないのだ。

神楽坂は、露地を曲がれば大人の町だった。
そういう風情を垣間見るのが楽しかった。

監督のすごいところは、こんな高いものをご馳走になっても(というより明らかにたかっても)平然としているところである。
こういう人には、ついぞ会わなかった。

そして、奢る方もなんとなく楽しそうである。
旨くて高いものを奢れるというのは、その人の仕事がうまくいっている証でもある。
美食家なのか執着なのか、食事にすごくうるさい監督に「美味いな。これ」と言わせる楽しみが、奢る側にはあるのだろう(と思う。じゃないとね)

その晩は、そんなふうに過ごした。
店を出て、もう一件連れて行っていただいたバーも、とても一見では入れない静かな隠れ家だった。

神楽坂は奥が深い。
いつの日か自分で探索したいと願いながら、今になってしまった。

あの天ぷら屋には、以来食べに行っていない。
自分で行けるような大人には、結局なれなかったのだ。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?