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日本語の劣化が気になる

これほど noteを読んだり書いたりしているくらいなので、私には活字中毒の疑いがあります。
YouTube も観ますが、明らかに私は動画よりもテキスト派です。
せっかちなんでしょうね。動画は話し手の冗長なしゃべりが苦手。

ウェブ上のテキストについて、ずっと言いたかったことを吐き出したいと思いました。
いつ頃からだろう。日本人の書く文章が誤字脱字だらけになったのは。
5年前か、あるいはここ 2~3年ほどで急激に顕著になった気がします。
とくに目立つのは漢字変換ミスです。漢字変換ミスのない記事に出会うことのほうが珍しい時代になったと感じています。

co-noter のゆうさんに「世界さんは誤字脱字にうるさい」なんて書かれて、思わず苦笑いしました。
うるさいのかなあ^^;
私のアカウント上に記事を投稿している以上、誤字脱字は直すっての。
(学者を志す彼女の名誉のため付言します。ゆうさんの誤字脱字率は極めて低いです)
私は仕事のメール等でも、ノンネイティブがやらかすミススペルや間違った英文法に顔をしかめる人間です。
ましてや、日本語ネイティブが書く日本語の誤りに寛容にはなれません。

難しい日本語の話をしているのではありません。
「自身を持って懸命な判断ができる人は以外と少ない」
みたいな文に脱力する話です。
彼らは自分が書いた文章を読み直さないのだろうか?
それとも、漢字が表音文字になった時代にいつのまにか突入したことに私が気づいていないのか。

一方、言葉の乱れについては私は寛容です。
いわゆる「ら」抜き言葉や、尊敬語と謙譲語の混同などは、たいした問題ではないと思います。
言葉というのは時とともに変化するものだし、簡素化するのも必然的な流れです。
それより、やたら同じような誇張表現が多用される傾向に気色悪さを感じます。

例えば、「~すぎる」の乱用。
好きすぎる。美しすぎる。楽しみすぎる。
感動を強調したいのでしょうが、語尾に「すぎる」をつけるだけで、ほかの日本語を探さない怠惰と貧困。

「言語化する」との表現にも飽き飽きしています。
誰が最初に使ったのか知りませんが、うまく言葉にする、みたいな意味なのでしょうね。
新鮮な言い方だったのでしょうが、とっくに賞味期限が切れていて、すでに陳腐な言葉でしかない。

「解像度」という表現も手垢にまみれています。
ある現象をどれだけクリアに説明できるか大会において、解像度が高い低いなどと評する際に使用されたっぽい。
これも当初はわかりやすい言い方だったけれど、もはや解像度という言葉に解像度がなくなっています。

言葉は伝染します。
ことに、情報が洪水している現代社会においては、気の利いた表現が瞬時に拡散し、便利に使われ、陳腐化する。
すでに陳腐化していることに気づいていない者だけが、それらの言葉を使用し続けていることになります。
ネットニュースなどの三文記事はそれでいいんでしょうけど。

noteは、さすが創作系だけあって、語彙のセンスが高い noterさんが多いと感じます。
それはどういうところか。
語彙選びにおいておもに 3つの傾向があると思いました。
1) 敢えて最も平明な言葉を使う
2) 古式ゆかしい粋な日本語を混ぜる
3) 自分で考案した独自の表現

物を書くモチベーションは人それぞれだし、1枚何円の原稿料のために記事を量産している職業人などは、言葉の選択にいちいち頭を使っていられないのでしょう。
商業ライターは、フリーランスも含めてかなり増えていると思われます。
プロとして一定レベルのクオリティを保ち、発注者の意に即したコンテンツを無難に書き上げる。高度なスキルが求められるでしょう。
でも、そんな記事に需要があるんだろうか。

商業ベースの記事というのは、なんらかの意図を感じてしまうんですよね。
ステマと言われるものだけではなく、特定の方向に世論をリードするような政治的意図を含め。

情報化社会というのはまだまだプリミティブな段階にあると私は考えています。情報を意図的に操作する側と、それに無邪気に操られる側が存在するという意味において。

次に来るべき段階は、ビジネスとも政治的意図とも関係なく、自由な個人が意見を発信する時代。”つぶやき” 程度ではなくまとまったテキストとして。
プロが書くものよりアマチュアが書くもののほうが面白い。
制約なしで書きたいことが書けるからでしょうね。
これからも noteは、アマチュアが何の制約もなく好きなことを書く媒体であり続けてほしいと思います。