donor_09_End_滾らない吸血鬼


「なに言ってるの?」
気づくと彼女は僕のそばまで戻ってきていた。目の前に立つと、ちょうど僕の鼻あたりに彼女の頭がくる。  

「買い物して帰るから、先に帰ってて」と彼女は言った。「おれも一緒に行こうか」と訊いたが、彼女は顎を引き、僕の顔を一対の目でしっかりと見定めてから、いいの、ひとりで行くから、帰ってて、ときっぱりした口調で言った。  

仕方なく僕はひとりでとぼとぼ家まで戻った。僕らは、さっきの森から徒歩で10分くらいのところにある住宅地の一角のアパートを借りて住んでいる。広くはないが、住み心地はいい。なにより、日当たりが良くないということが重要だった。僕は子どもの頃から日光アレルギーを持っており、春から夏にかけて、日中は外に出られない。夜になっても、長袖につばの広い帽子を被り、顔に薬をべたべたに塗ってからでないと出られない。今日のような曇りの日でも、恐らくこのあと湿疹が出るはずだ。森に飛んでいる花粉や小さな虫が、顔にべったりとついている気がした。帰ったら風呂に入ろう、と思った。

風呂からあがると、彼女は買い物から戻ってきていた。僕は身体を拭きながら(ごしごしとは拭けない。ぽんぽんと軽く水分を拭き取るだけだ)、キッチンで買ったものを冷蔵庫にしまっている彼女に「おかえり」と声をかけた。  

僕の姿を見た彼女は手を止めて「大丈夫だった?」と訊いてきた。恐らく皮膚のことだろうと思い、大丈夫だったよ、と答えると、満足そうに「そう」と言って作業を再開した。僕はその時はじめて、彼女が日光アレルギーを気遣ってひとりで買い物に行ってくれたのだということに思い至った。たしかに、いつもなら外出しない時間帯ではあった。彼女の優しさに感激し、「ありがとう」と感謝の言葉を伝えた。今日は素晴らしい一日になりそうだ。多少、肌が赤くなるくらい、どうってことない。  

「晩御飯、一緒に作ろう」僕は提案した。ふだん料理はしないが、今日は手伝いくらいするべきだと思ったのだ。しかし、彼女は少し面食らった表情になり「どうして」と言った。「いいよ、ひとりで出来るから、本でも読んでて」  

言い争っても仕方ないので、おとなしく引き下がり、リビングのソファで音楽(entのWelcome Stranger)をかけながら本を読んだ。entの静かな歌声に合わせて僕も小さくメロディをなぞった。

キッチンからは彼女が料理を作る様々な音が聴こえた。包丁がまな板を叩く音、フライパンで何かを炒める音、冷蔵庫を開け閉めする音。僕はいったん本を閉じてテーブルに置き、大きく息をはいてソファの背もたれに寄りかかり、まぶたを閉じた。こういう時間を「幸せ」と呼ぶのだと思った。おだやかな夜。僕は過不足のない幸福の中にいる。現実的で、もっとも愛すべき幸福だ。彼女も同じように感じてくれているだろうか。食後に、それとなく訊いてみよう。  

晩御飯のメニューは「トマトキーマカレー」と「海老とピスタチオとベーコンのサラダ」だった。彼女の料理でいつも感心するのは、サラダが美味しいところだ。香りの豊かな葉野菜(僕には名前が分からない)が入っていて、ドレッシングも市販のものを使わずに彼女が自分でささっと調合して作ってしまう。それが、抜群に美味いのだ。  

彼女は、ふたり分のビールをグラスに注ぎ、皿をテーブルにセットするところまでの全てをひとりでやった。僕はますます感激して、読みかけの本をテーブル下のカーペットに置いて「おいしそうだね」と言った。彼女はにっこり微笑んで「食べよう」と言った。僕は冷たいビールを一口飲んで喉を潤してから、きらきらひかるスプーンでカレーを掬った。  

僕の記憶があるのはここまでだ。  

彼女の証言によると、僕は一口カレーを食べたあと、顔を真っ青にして、喉を両手で抑えるようにして苦しみ、しばらくばたばたとソファにもんどりうったりしたあとで、気を失ったようだ。

翌朝、僕はソファで横になって眠っていた。身体には毛布がかけられていて、テーブルはきれいに片付けられていた。テーブルの下には、読みかけの本がそのまま置いてある。僕は身体をゆっくりと起こし、何が起きたのかを考えてみたが、さっぱり分からなかった。彼女はそこにいなかった。僕はよたよたと動いて、寝室のドアを開けた。彼女はベッドでぐっすり眠っていた。起こしてしまっては悪いので、僕はドアを閉めて、水を飲むためにキッチンへ行った。  

その時、なんとなく違和感を覚えた。
鼻を裂くような嫌な匂いがした。まさかと思い、冷蔵庫を開けて、愕然とした。いつもは卵が入っているスペースに、半分にカットされたニンニクが入っていた。信じ難いことだが、トマトキーマカレーにはニンニクが入っていたのだ。だから彼女はひとりで買い物に行き、ひとりで料理を作り、ひとりでテーブルにセットしたのだ。そうしなければ、ニンニクを料理に入れることはできない。

僕は冷蔵庫を閉めた。

リビングで、もういちど気持ちを落ち着けて考えてみようと思った。僕は「寒いなぁ」と、わざとその響きを確かめるように声に出して言った。ソファに置かれている毛布を手に取り、身体に巻きつけた。ニンニクをカレーに入れたのも彼女で、苦しむ僕に毛布をかけたのも彼女なのだ。いったいどういうつもりなのだろうか。ニンニクが(致命的に)苦手だということは彼女に言ってあった。この家に住み始めて一年余りだが、今までこんなことはなかった。いたずらのつもりだろうか。それとも。僕はリビングをぐるぐる歩きまわりながら考えた。  

廊下から物音が聞こえた。彼女が起きたのだろうかと思い注意を向けると、今度は彼女が真っ青な顔をしてこっちを見ていた。今にも叫びだしそうな様子だったが、思いの外小さなボリュームで「…ドラキュラ?」と言った。

ジ・エンドだ。

「昨日、おれは、ニンニク入りのカレーを食べたのかな?」僕は質問をした。彼女はしばらく間があった後で、昨日の様子を詳しく教えてくれた。“もがき苦しむ姿はまるで人間には見えなかった、病院に連れていっていいものか分からず、とりあえず朝まで様子を見ようということで毛布をかけて自分も眠った”というようなことを言った。

ひと通りの話を聞いてしまったあとは、もはややるべきことはひとつしかなかった。隠し通せなかった僕が悪いのだが、ここで言い訳をしても、なんの意味もない。しかし、よくいつも通りにベッドで眠れたものだ。夜の間に逃げだすことは考えなかったのだろうか。

僕はベッドで、先に眠った彼女の寝息を聞きながら、こんな日がくることをよく想像していた。悪い想像ほどよく当たるというが、カレーに毒でも入れて殺してくれたほうが楽だったなぁ。僕はそんなことを考えてうすら笑いを浮かべながら、起きぬけの心優しい彼女に近づき、その柔らかな首筋に噛み付いた。



この物語はdonor_09「滾らない吸血鬼」の続きです。

donor_09 / 匿名

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