それじゃあコンプレックスの話をしようか
あーーーどこもかしこもジングルベルだのメリークリスマスだのうるせえな。清くねえんだよこの夜なんか知らねえよ黙ってチキン売ってろチキンはおいしいからいいんだよ。
通勤途中の抜け道にやたら並んでるラブホに消えていく軽自動車を見てるより、近所のやたらでっかいスーパーに似たようなグレーのパーカー着て買い出しに来てる男女2人を見てる方がよっぽどなんとも言えない気持ちになるんだわ。
そんなもんでしょ?なあ、普通の幸せって何なんだろうな。
ほらわたし、免罪符だって言いましたよね?年の瀬に #エモ散らかし隊 は免罪符だって。何でも書いていいんだって、そう言いましたよね。
だから何でも書きますよ。ちょっと聞いていってくれますか。
ぶっきらぼうで、愛想が悪くて、ひとりでも生きていけそうで、まぶたが激重で世間一般的にかわいくなくて、「あの子と結婚して子どもができたら、耳の悪い子が生まれるんじゃないの」って、そう言われたわたしのこと、ちょっと聞いていってくれませんかね。
高校3年生の秋、大学の推薦入試に出す小論文の冒頭にこう書いた。
「私の両親は耳が聞こえない。聞こえないと言っても聴力が無いわけではなく、補聴器を付けないと会話ができないくらいの難聴だ。そして娘である私自身も耳がよくないことが、コンプレックスとなっている。」
インパクトは抜群。ただ、推薦入試の小論文で書くような文章ではなかった。添削をお願いした先生には、苦い笑みを浮かべられながら大幅に修正されたことをよく覚えている。
親の耳には補聴器がついているのが普通。
寝る前は親が補聴器を外すので話ができない。
話すときは後ろや横ではなく正面から。
車の中ではロクに会話が成り立たない。
口元が読み取れるようにマスクは外す。
ひそひそ話は聞き取れないから、筆談で。
手話は使わなかったけれど、指文字なら今でも覚えている。
店員さんが言ったことを“通訳”するのは、いつもわたしの仕事だった。
昔から、「自分は普通の人とは違う」とずっと思い続けてきた。
遺伝的に耳がよくない、いわゆる軽度難聴持ち。これがわたしのコンプレックスだ。とは言っても補聴器はつけていないし、生活にはほぼ支障がない。見たところ「普通の人」である。そんなの気にしなくていいと言われるかもしれない。
だからこそ、劣等感を覚える。
小声の会話に入れないときの孤独。マスクをつけている人と話すときの緊張。「ごめん、今、なんて?」と店員さんの“通訳”を友達にお願いするときの恥ずかしさ。
「普通の人」なのに、何度も聞き返して曖昧に笑って。
聞き取れないときの会話は、まるで知らない外国語を聞いているような感覚だ。何かを話している音は入ってくるけれど、言葉の輪郭がつかめない。
聞き取れた単語や口の動きや表情、前後の文脈から話していることを推察するけれど、きっとズレていることも多いのだろう。
話を聞いていない人だと思われても仕方ない。
すべて。すべてがコンプレックスだ。
そうか、もしいつか結婚して子どもができたら、耳の悪い子が生まれるかもしれないのか。まあそうだよな、わたしも両親もそうだもんな。
コンプレックスの連鎖?劣等感も遺伝する?不幸(だとはわたしは思っていないけれど)な人間をひとり増やしてしまう?
もしもそうなってしまったとき、わたしは責任を持てるか?
そもそもこんなぶっきらぼうで、愛想が悪くて、ひとりでも生きていけそうで、まぶたが激重で世間一般的にかわいくない人間の遺伝子なんて残さないほうがいいんじゃないか。
さて、どうする?いいところなんてひとつもねえな。
「あの子と結婚して子どもができたら、耳の悪い子が生まれるんじゃないの」
そうだよ。その通りだよ。刺さったトゲがまだ抜けない。やめろよ。いい加減あっち行ってくれよ。いつまでもわたしの原動力になってんじゃねえよ。
やっぱりわたしは、普通の人にはなれないみたいだ。ああ、これからも安心して「ふつうの人」を名乗れるな。これがわたしのアイデンティティだ。コンプレックス。劣等感。普通じゃない何か。どす黒いエネルギー源。それならせめて赤く美しく煌々と燃え盛っていてくれ。
そんなもんでしょ?なあ、普通の幸せって何なんだろうな。
ー ー ー
この記事はわたしが企画したアドベントカレンダー年の瀬に #エモ散らかし隊 の最終日、12/25担当です。
昨日12/24の担当は、クロギタロウさんの記事でした。20年越しのメリークリスマス…!
毎日みんなが「エモってなんだ」「これでいいのか」とか言いながら記事を上げてくるの、すごく楽しかった。これに懲りず、またいろんなエモ散らかしを書いていただけたら嬉しいなと思います。
カレンダーにご参加いただいたみなさん、本当にありがとうございました!
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