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離れた手

眠れない夜でもいつか朝になってしまう。やりかけの資料作成のことがずっと頭の片隅には残ったまま連休最終日を迎えた。東の空にのぼる朝陽がカーテンの隙間から差し込んできて、僕は無理やり、夢の時間のピリオドを見せつけられている。世田谷の台地の端、南向き2DKの六畳間のシングルベッドはこんなにも広く、孤独を持て余している。なぜか。

気が付けば僕は一人きりになっていた。無理はない。いろんな誘いを一言二言で断ってかれこれ30時間はここから動く気にならない。頭が痛い。たまに回り続けるメーターを気にしてエアコンを切って、じんわり緩い外の風にあたるくらいが自分と世界との唯一の接点とまで言えた。インターネットの片隅につまらない日常を書き添える生存報告でさえ億劫なのだ。書けることはせいぜい「飯を食った」「アニメを見た」「漫画を読んだ」「トイレに行った」「タバコを吸った」くらいなものだから。これが連休でなければ「仕事に行った」くらい書けたのかも知らないが、もうそんなこと書いても仕方がないだろうともう1人の自分が書いたそばから耳元で囁く。地の文だけで振り返ることにしようか。振り返るほどのことはしていないくせに、振り返ることだけは癖になってしまったのも考えものだ。

おそらくいろんな向き合わなければいけない現実から逃げ続けた1週間だった。きっかけは日曜から月曜にかけての夜中にルックバックを読んだからかもしれない。月曜の日中にいろんな人が目にして、インターネットに大量の三文記事が跳梁跋扈して、それに気付いた月曜の夜は何も言う気になれなかった。結局のところ僕が書けたことや考えていたことは、ありふれた雑音となんら代わり映えのしないものである気がした。

揺さぶられた感情のまま会社でサンドバッグの真似ごとをして、それももう耐えきれないことを母親に電話した。30近くの大の男がやることかと思ったが、何も話さずにはいられなかった夜だった。ひとしきり話してスッキリしたらその夜は健やかに眠れた。ただ、その後からは徐々に夜にやることを増やしてしまい、案の定いま昼夜逆転している。夜の僕が渡したバトンを今受け取って、僕の今日が始まる。

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