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フードロスは少ない方がいい

私にはほとんど好き嫌いがない。美味しい、美味しくないと思うことはあっても好きか嫌いかというよりはすすんで食べるか否かになる。ありがたいことにアレルギーもほとんどない。ついこないだまでは全くなかった。大人になって生のエビを食べると喉の奥がイガイガすることに気付いたくらいだ。生のエビが美味しいことはよく知っているので食べたいかと問われれば食べたいし、食べられないこともないのだ。これは極端に辛いものもそうで、食べられないことはないけど食べない方がよく、しかしながら食べたいものなのだ。そういうわけで絶対に忌避しなければならない食べ物はない。

だから食べられないものがある人に共感することがおそらくできていないと思う。そもそも他人の感覚を完全に理解するのはその人を生きていない限り無理だ。生まれ持っているものはそれぞれ違うし、「育ってきた環境が違うから好き嫌いは否めない」って山崎まさよしも歌っている。人と人とがわかりあうことについてこれまであれこれ書いてきた、というかほとんどそういうことを考えるために私はものを書いている節がある。けして辿り着けないものだから、逆に程よい距離を保って長く付き合っていける気さえする。わかりあいたい。でも、いまわかりあえなくていい。いつかわかりあえればいい。それまでゆっくり距離を保ち、願わくば少しずつ詰められればいい。

人の考えというのも視点が変わると自ずと変わってくるものだと思う。例えば、ごくごく身の回りに起こる場合と会社などの所属組織単位で考える場合、もっとスケールを大きくして我々が認知しうる世界全てを想定する場合と、それぞれで同じ物事に対して誰しもスタンスが異なってくるに違いない。「それはそれ、これはこれ」なのである。

タイトルに回帰するのだが、どの単位で「それはそれ、これはこれ」を貫いたとて、やはりフードロスは少ない方がいいという結論に至る。作る時間、材料を買うお金は無限にわいてくるものではないから効率的に運用すべきなのは当然ではないだろうか。人間が万能な生き物ではない以上全くロスを生まないのは難しいが、より無駄は少なくなった方が他の物事に有効活用できるのではないだろうか。

特に外食で食べ残しをする人についてはよくわからない。おそらく対話がないからそういうことが起こるのだと思う。たいていの場合メニューは文字だけだから、想定していないものや量が出てきて食べられずに残す、ということが起こると想像している。絶対忌避したいものがあるときは店員なりなんなりに「これとあれとそれは食べたくないがこのメニューには入っていないか?」と聞けばいい。アレルギーのこともあるのでそれに答えない飲食店なんか廃業してしまえばいいし、オーダー前だから退店すればいい。自分が頼まずおまかせの場面であったとしても頼んだ人間と対話して確認すればいいわけだし、その確認を面倒くさがる人間と飯なんか食ってもおそらくいいことはない。人を誘う態度として、誘った人が快適に過ごすように努めるのは当然な気がする。量が多いことについても同じように、あらかじめ分量をきいて減らしたり増やしたりするようにお願いすればいい。同行者がいるなら相談して決めればいい。

少々面倒かもしれないが、一つ何かを話しておくだけですんなりと要望が通ることは珍しくないし、サービスを享受する側からの話なので基本的には通るのではないかと思う。何故なら相手も無駄は減らした方が得をするはずだからだ。私たちは機械相手に生きているわけではない。言葉が違ったってわかりあうと言わずとも意味を伝える手段はたくさんあるはずだ。私には食べ残しをする人の気持ちはよくわからないので、コミュニケーションの不足のせいにするのも的外れなのかもしれない。食べ残しをする人からは理解されないのかもしれない。ただこうした考えがあることだけ、届けばいいなと思っている。

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