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がんばらなくていいんだぜ

語彙とセンスの話をしよう。そもそも久しぶりにテーマもクソもなくエッセイを書こう。言いたいことを言おう。来る日も来る日も飯について書くのはそろそろ飽きてきた。ああ、余計な縛りなんかするんじゃなかった。飯のこと、と決めてしまえばとにかく書けると思ったのだ。何もアテなく彷徨うより行き先があると心強いと思ったのだ。大雑把なくせに妙なところは計画を以てやる節がある。気持ちが乗っていれば特段問題なかった。これだけあれば十分だろうと書き溜めたストックはいつのまにかなくなっていた。さすがにそれなりの重たさで取り組もうと考えていたものはあらかじめ書き終えていた。ただ、この忙しない年の瀬の平日のどこかで書き切らねばならない、加えてその日毎のものも産み落としていかねばならない緊迫感は良い経験になった。予告記事で取り上げたグループYouTuberにたいしてわたしは何度同じネタを擦り続けるのだろうかと思ったこともあったが、日々の暮らしの中で追われ続けると見つかる題材も見つからないと推察する。

話は変わって、わたしは物事について取り上げていくときたまに「違和感がある」と書くことがある。ここ最近でとにかく気になって仕方がないのが、冒頭にも述べた「語彙」について、「語彙力」という単語を近年よく見かけることだ。そもそも「語彙」とは何か。そこまで「語彙力」の高さを求められるレベルの単語ではないはずだ。少なくともわたしは「(対象が)持っている言葉」と解釈している。基本的に対象は人ではなく物や概念に向くのではないか。「イタリア語には女性を褒める語彙が豊かです」というと「イタリア語には女性を褒める言葉がたくさんあります」程度の意味になるはずだ。これが転じて人に対して使うとき「使用語彙」とされ、いつの間にか略され、「(対象が)知っている言葉の全体」を「語彙」として使うようになったのではないかと考えられる。少なくとも「使用語彙」までの件は辞書に書いてある。

「語彙」は「多い」か「少ない」か、より表現として的確なものにするならば「豊か」か「乏しい」か、その形容する言葉とセットになる、程度を表す指標という意味合いもある。だから「語彙力」に「力」はなくとも、そもそもセットになるもので表したいことは伝えられるはずだと私は思う。

しかしながら近年とある言語学者が「語彙力」を定義した。「語彙の量と質の掛け合わせ」なのだという。多寡で示されていたものに質を唐突に持ち出されると面食らうことこの上ない。よくよく読んでみると「知っている単語を適切に使えるか」を示すのが「語彙力」だという。そもそも「知っている言葉」を表すものとして「語彙」があるわけだが、「知っている」ことが表に出てくるのは「適切に使われた」ときなのではなかろうか。同じことを何度も書いているような気がするが、やはり「語彙」だけで「語彙力」の意を示すに十分なのではないかと思われる。

違和感が生じるところにはよくよく掘り下げると明確な認識の齟齬が対象間にある。掘り下げないとことの次第がわからないような表層では些末な齟齬である。日々を忙しなく暮らす中では放っておいて不自由ないことの多い諸々である。ただ私たちが直面するトラブルもそもそもは些末な齟齬から起こることがほとんどである。誰かが違和感を感じて、とりあげて、同じ利害関係にある人が寄ってきて、明確な問題になり、課題が抽出されて解決していく。あるべき姿はこんな流れをしているのではなかろうか。

日々の暮らしを良くしていくために課題は解決されていかねばならない。違和感を感じるところが起点である以上はそのセンスが問われるだろう。曖昧な概念だけども難しいことではなくて、一つ一つのことに真摯に向き合えば嫌でもいろんなことを考えさせられるのではないかと個人的には思う。真摯に向き合うことは別に大変な思いをしなければならないことや辛い気持ちになることが必要なものではない。それはそれ、これはこれ、なのだと思う。ただただ淡々と、粛々と一つ一つの動作を行うことだと思う。

私は定期的にキャベツを刻むことにしている。お好み焼きを定期的に食べたくなるからだ。そしてキャベツを刻みたいからだ。これは定期的に大量の玉ねぎを刻んでフープロにかけてカレーを作ることにも近い。決まりきった動作をしていたいときがある。今更キャベツを刻むことに多少面倒と思うことこそあれ、何の辛さもないのは自分の中では明白だ。日々の暮らしの中でしんどさを感じたときや辛い気持ちになったとき、刻んでいくことで、淡々と、粛々と進めていくとはこれで良いのだと、「がんばらなくていいんだぜ」と自分に言い聞かせるのだ。

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