2018年8月 下書き

もとは航空会社で旅客機、のちに偵察機のパイロットをしていた祖父。満州から引き揚げてきた佐世保で、中国語、英語を活かし勤めた先は交通公社。大戦で俄かに軍港として栄え、その後米海軍の基地の街として形作られていく変遷における混乱や、観光業の草創期的な難しい状況で心労が止まなかったようで。先月久しぶりに帰省した際に母から聞きました。50で膵臓癌で亡くなりました。

スターアーキテクトを淡く夢想しつつ早々に座礁し曲折ばかり後悔ばかりの航海で流れ着いた建築と不動産、ソフト~ハードの間が生業になっている今、思うところ波の様に押し寄せるインバウンドの泡の中、専ら宿泊施設の企画や開発のあれこれに従事する日々。斜陽の如く沈みかけていた心情に、まさに旅のような滞留と移動のあいだでのシゴトや生活そのものが齎してくれた望むべき慌しさも、数々の転覆を繰り返す度毎に抱いていた、生来の分析的評論家的気質に起因する各事象のメカニズムや時代性みたいなものへの違和感、空虚感、責任への希薄感に、何か召命感のようなものへの転換の萌芽がおき始め、祖母の故郷佐賀で宿泊空間を含む複合施設の計画、京都でのホテルをはじめ多様な地域、計画に関わり始められていることも、逃げる様に捨てる様に出てきた佐世保との繋がりがまた生まれつつあるのも、祖父、実は相続の問題で戸籍上は父になっている、が起こしてくれた渦の様に感じます。

夏休み、隣で読書感想文の大海原へ舵を漕ぎ始めた中2、小5の娘、息子への威信、エールの様に打ってみましたが、情けなくなる程に陳腐な比喩、凡庸を誤魔化そうと思う結果ただただ読み難い文体、挙句パイロットはじまりのコンテキストなのに海素材、、伏線も回収も儘ならず着陸はおろか離陸すら叶わず、、の42になって3日目の朝。

ありがとうございます。滑走路を懸命に走ります。

自宅が関空すぐで飛行機を利用する機会も多く、最近は殊更にこうも思います、当たり前ではありますが飛行機が離着陸するにはパイロットは勿論、整備士や管制官いろんな役割が連なってるのだなと。


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