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残穢の震源を歩く 北九州・事故物件多発地域

世の怪談好きや事故物件フリークにとって見逃せない小説がある。それが、小野不由美による「残穢」である。映画化もされたこの小説は、事故物件ブームとでも言うべき昨今の潮流において、大いにブームを盛り上げた要素の一つだろう。筆者もこの小説を読み、その世界に引き込まれた1人だ。もちろん映画も公開されて直ぐに映画館へ飛んでいき、鑑賞した。

「残穢」のテーマはタイトルの通り「穢れ」である。残り香のように穢れは染み付く、その理不尽さ。
まるで香を焚き染めたように「穢れ」は土地、家屋、物…に残り、それに触れた人々に伝染していく。そこに善悪や個人の因縁は介在しない。この理不尽さこそが恐怖である。ジャパニーズホラーの傑作「呪怨」はまさに理不尽な呪いの増殖を描いていた。
人々が事故物件を避けようとするのは、この理不尽さから無意識に自己防衛を図っているのかもしれない。誰だって理不尽な悲劇の当事者にはなりたくないだろう。一方で、当事者にならない範囲で、安全圏から理不尽な悲劇の顛末を眺めるのは一種のエキサイティングなショーである。だからホラーは大人気だし、事故物件ブームも起こる。

他人の不幸は蜜の味…とは言うけれど、それは残念ながら真理だろう。戦争映画という一ジャンルが成立するのも、自分に弾の飛んでこないところで戦争を眺めるのは楽しいからに他ならない。ホラーもまた戦争以上の理不尽である、と筆者は思う。戦争は国策に庶民が巻き込まれるが、怪奇現象は目に見えない何者かの恨みつらみであったり、原因すらはっきりしない「何か」に平穏に暮らしていた人が巻き込まれるのだ。これ以上の理不尽があるだろうか。

しかし、いかに理不尽といえども、世の中必ず結果には原因があるのだ。不幸の続く家、病気の絶えない家系、事故の続出する交差点、よく分からないけど、良くないことがジンクスめいた形で起こる。「よく分からない」のは、調べていないからである。調べて見たら過去に何かあったのかもしれない。井戸をそれなりの儀式も無しに埋めているとか、墓場があったとか、祠を勝手に動かした跡だったとか。事情を知らない者にとっては理不尽でも、それが理不尽じゃない、ちゃんと理由のある「当事者」がいるのかもしれない。それは人間とは限らないのだ。
はっきり言えば、筆者は物理法則以外の法則は、ちゃんと存在すると信じている。体験したことも見たことも無いけれど、信じているのだ。
明確に信じてなくても、なんとなく信じてる人は、特に日本には多いはずだ。だからこそ「心理的瑕疵」という言葉がある。唯物論に徹すれば、そこで人が死のうが(特殊清掃とリフォームさえ入れば)、かつて墓場だろうが病院だろうが井戸を乱雑に埋めようが関係ないはずだ。むしろ上の部屋が子沢山で騒々しいとか、隣がヤクザの事務所だとか、1階に飲食店が入居していてゴキブリが出やすいだとか、治安や平穏さや衛生に直接関わる事象の方こそ瑕疵で、それ以外はどうでもいいだろう。

ところが「なんとなく信じている」大多数の人にとって、その「なんとなく」こそが思わぬ不安の元になる。
明確でないものほど人の心を惑わすものはないだろう。
原因を明らかにして対処する姿勢がなければ、いつまでも不安から解放されることはない。
筆者は、オカルトは興味本位なエンターテイメントという面もあるけども、むしろ科学として、結果から原因を明らかにして「かくすればこうなる」法則を導く事だと思っている。
いつまでも面白半分な扱いをしていれば、不可解な事象は「怪奇現象」のまま拡散し、不安と迷信だけが残される。
怪奇現象の実話を収集し、その現場を検証する意義は、まさに科学として心霊を再評価していくことではないか。

その意味でも「残穢」は面白い。
住処を襲う怪現象の原因が、徐々に明らかになっていく過程を丁寧に追う物語である。
もちろんフィクションが大半なのだろうが、モキュメンタリー風に描かれているので、「もしかしたら実話なのでは」という気にもなる。

虚構を真実と錯覚させる。それは面白い物語の要素である。実際、この小説を全てノンフィクションだと思っている人も多いようだ。それほど、どこまでが創作で、どこが実話を元にしているのか、を意識させず、読み手の想像を掻き立てる。

ここで、残穢の虜になった人々の想像をさらに深める本を紹介する。福澤徹三の「怖の日常」に掲載された「残穢の震源から」。

残穢の登場者に襲いかかる怪異の震源は北九州である。かつて北九州の大きな産業であった炭鉱に、どうやら全ての火種があるようだ。そして福澤徹三氏(残穢の登場人物でもある)もまた、北九州の出身である。

筆者もまた、北九州とは縁がある。

まず筆者の母方の先祖は北九州市に近い久留米の出だ。筆者自身は一時期、北九州市に居住した。また筆者は炭鉱に興味を持ち、10代の頃から長崎を中心に旧産炭地を調べ回ったことがある。北九州や筑豊の炭鉱ももちろん調べたし、大叔父(故人)が農林省技官として鉱害(陥没事故)対策を担当し、筑豊や北九州にもしょっちゅう出張していたと聞いたことがある。

北九州市は、炭鉱と製鉄という産業の中心地。労働者が全国から集まっていた。そのせいか「荒っぽい」「ヤクザが多い」「治安が悪い」というあまり有難くないイメージが強い。一方で、そこに住む人は九州の他の地域に比べ開放的で寛大、よそ者を排除せず、プライベートな事柄を必要以上に詮索しない、カラッとした傾向があると思う。それでいて都会的な無関心でもなく、人情が感じられる。かなり住みやすい地域なのではと思う。

そして、事故物件公示サイト「大島てる」でも北九州市は最も注目される都市である。なぜなら他の都市と比較して事故物件、それも異様な経緯で事故物件となった物件が多いのである。小倉駅近くの町には自殺者の出た部屋(事故物件)の上の部屋に住む住民が当該事故物件を落札、勝手に床をぶち抜きひとつの部屋にする工事をした挙句にその部屋で自殺するという異様極まりない物件がある。その近くには有名な北九州連続監禁殺人事件の現場がある。

この北九州の異様な事故物件の集中するエリアに迫った本がある。

「忌み地 怪談社奇聞録」(福澤徹三、糸柳寿昭)

である。この本の秀逸さは噂の聞き書きにとどまらない、フィールドワークの実践録であるという点だ。それに、現地の地理的、歴史的背景を踏まえた調査が行われている。これが大切!奇怪な事象というのは、実は表面的なものかもしれない。奇怪な現象が起こり得る因が、必ずある。それは土地の歴史、地理、人の流れ…を解明しなければわからない。

本書では全編を通じて「水」がキーワードと言える。北九州での奇怪な出来事の多発も「炭鉱」「水」「地下」が鍵となる。当地、つまり北九州市小倉北区、足立山の麓にはかつて小倉炭鉱があった。炭鉱と言うと山や海底を思い浮かべるかもしれないが、小倉炭鉱は都市圏、住宅地に存在した炭鉱である。多くの炭鉱同様に、昭和40年代に閉山したが、坑道は埋められた訳ではなく、入口を塞いで放棄されたらしい。現在でも土木工事に伴い、地下から坑道などの遺構が姿を表すことがあるという。興味のある方は調べて欲しい。

詳細は、皆さんに紹介した本を読んで欲しいのでここに記さない。

さて、筆者はこれらの本に登場する「鍵を握る土地」北九州市を訪れた。

ヘッダーの写真のマンションは、北九州連続監禁殺人事件の現場となった建物である。もちろん大島てるにも掲載されている。

現場付近は賑やかである。高速道路、モノレールが通り、大型小売店、個人商店が立ち並ぶ。また病院と保育所がある。病院は建物は古いが、人の出入りが多く繁盛している様子だ。また球場もある。球場は、かつて池があったのを炭鉱のボタで埋めたところに建てたのだそうだ。小倉炭鉱はこの付近に多かった池や沼をボタで埋め立てたので、ボタ山の無い炭鉱である。界隈だけを見れば、どこにも異様さは感じられない。本を読んでも、この地域の住民はよそ者をに対しても気さくで、かつ平穏に暮らしている様子が窺える。

現場のマンションも、これといって不気味という訳ではない。何の変哲もない、という言葉が相応しい。1階のスナックも、筆者が訪れたときは営業時間外だったが、夜になれば開いているようだ。あまり人気はないが、駐車場には外国人らしい子供がいた。外国人の居住者が多いのかもしれない。

怪しまれないよう付近を歩きつつ、昼飯時なので中華料理屋に入る。ここもリーズナブルで美味しく、近所の住民らしい中年女性グループや、工事作業員るしい作業服の男性らで賑わっている。

飯を食い、さらにもうひとつの建物を探す。それは「忌み地」に出てくる、人が住んでいないアパートである。本ではむしろこのアパートの方が不可解かつ不気味であり、大きな存在感を放っていた。アパートを探すのは少々手間取った。事前にGoogleマップで探したものの、それらしい建物を見つけることはできなかったからだ。1時間ばかり付近を歩き回り、やっと見つけたそのアパートは確かに異様だった。窓という窓は板で塞がれ、階段は封鎖されている。人が住んでいる様子は全く無いが、荒れているわけではない。敷地内はきちんと草が刈られているし、関係者のものらしい車も停まっている。本の中では、このアパートには「絶対に入るな」と「忌み地」の著者が管理人に釘を刺されている。しかし、過去にこのアパートで何があったのかはわからない。付近の住民に聴くことも可能だろうが、今回、筆者はそこまでする気力がわかなかった。コロナ流行の中で地域住民と接するのも気が引けたし、あまり深入りするのも恐ろしい気持ちもある。だから写真も撮っていない。「忌み地」には一部の写真が掲載されているし、Googleマップを丹念に探せば見つけられるはずだから、興味があれば見て欲しい。だが、現地をおとずれてこのアパートの封印を解くような真似は色んな意味で危険だろう。もちろん、私有地に入るのは立派な犯罪だ。

この日は予定していた小倉炭鉱関係の調査まで手が回らかった。先にも書いたように、むしろ土地の地理的、歴史的背景こそが本丸である。怪奇現象だの事故物件だのというのは、あくまで一過性の現象に過ぎないのだろう。東日本大震災では千葉内湾部の埋め立て地で液状化現象が起きた。日本各地でかつての鉱山や防空壕、地下壕の跡が崩落している。北九州市の事故物件多発地域の地下にも、人知れず放棄された坑道が今も眠っているのだろう。人間の想像の及ばないメカニズムがそこにある。地球はドロドロのマグマの上に薄い殻が乗っかった、生きている星だ。その薄い殻は絶えず動き、また命の源の水があちこちを流れている。その流れを人間が完全に制御できるわけがない。あちこちの大地をくり抜き、水や温泉を絞り出し、鉱物を運び出し、核のゴミを棄てる。その地下が物理的に動くかもしれないし、目に見えない形で牙をむくかもしれない。生きている大地の上に住んでいる、という謙譲の心を失えば、「その日」はすぐにでもやって来るのではないか。自分たちが住む土地の歴史を知るとは、その大地に敬意を払うことだと思う。

そして、「穢れ」の正体は、土地、人、歴史に対する「敬意の喪失」なのかもしれない。

近いうちに小倉炭鉱の歴史を知るために再訪したい。当地には炭鉱の歴史を伝える、住民による会もある。事故物件や怪談といった「表層の出来事」から地域の歴史に真摯に向き合うきっかけが生まれれば、それはある種の供養と言えるかもしれない。




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