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校閲

Forensic Accounting

会計のセカイに、『知らないことはわからない』という'言い回し'がある。

当たり前過ぎる同語反復、と言えばその通り。'無知の知'や、或いは含蓄深く'知足知恩'〔足を知る恩を知るex.『高瀬舟©森鴎外』〕を連想する向きもあるかも知れない。だが、それらと同調する部分も多いが、少しnuanceが違うと感じる。

ここで簿記の仕組みを須〔スベカラ〕く解説するつもりはない。簡単に言えば、-永続的な企業運動を-出来るだけ金銭的な価額に還元し、理解可能な法則性のもと記述していく枠組み、となる。そこでは慣用的に、'貸借バランスが一致する'といわれる。収入と、支出+利益は等価[単数形≒P/L]にあるという、'balance-seat'[複数形≒B-S]の枠組みだ。だがこの言い方は誤読を誘う。厳密に言えば、'貸借バランスを一致させている'に過ぎない。元ネタが正しいという前提のもと、清書しているだけで、一定の校閲機能はあっても、作為的なちょろまかしの診断能力はない。

だからこそ粉飾の誘惑は潰えず、第三者機関である監査法人-公認会計士集団-によるassessmentを要するのだが、それでも彼らは口を揃えて、『知らないことはわからない』という。もちろん帳簿は信憑書類[領収書]に'裏書き'され、論理的にあまねく辻褄があっている。でも帳簿の埒外、つまり売上を抜く-二重帳簿-という振る舞いを、事実上牽制するのは、重加算税と有価証券報告書虚偽記載という、権力によるpunishment[制裁]のみとなっている。

Perfection World

数学者ゲーデルは不完全性定理を発表する。完全なる辻褄合わせを論理的数学的に記述することで-記述出来てしまうことで-、この世がそもそも不完全である、という前提を浮かび上がらせていく。喩えていえば、思い込みの激しいヒトが、その思い込みの激しさゆえに、"あいつは思い込みが激しいヤツだ"、と言っている可能性を、論理的に排除出来ない、みたいな感じだろうか。

'*ASD'診断該当者には傾向として、'拘りの強さ'と、'高度な論理性'が同居する、といわれる。この場合の論理とは、deduction[演繹]に重心、つまり'前提が是'なら、その導出される回路は必然性を帯びている。いわば'閉じた系'におけるperfectoryを、検証する能力に長けることを示唆するのか。もしくは、個別特殊な事象が、Induction[帰納]に於いて、一般普遍のprobability[蓋然性]-'全体'の部分として収納-を記述していく。'法則性'を見出す能力に長けるのか。さらに可謬性の高いabduction[仮説推論]まで射程するのか。

*ASD[Autism Spectrum Disorder:自閉スペクトラム症]について、'Dis-order'-既にある'秩序'への否定をみる-という語彙が適切か、一定の留意のもとに使っています。ご容赦ください。

わたしにとって、"論理"という語彙には、optimizationを解除していく。'拘り'を、元ある偶然性へと解きほぐす、というnuanceが多分にあった。ゆえに、'拘りの強さ'と、'高度な論理性'は、相容れない性質のように思えたのだ。だが、論理の地平からは、それもまた、'もうひとつのoptimization-トラワレ-'に過ぎないのかも知れない。

Problem Solving

2016年公開の映画に『ザ・コンサルタント[原:The Accountant]』という'アクション映画'がある。アイロニカルに描いた『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち[原:Good Will Hunting]』といえば伝わるだろうか。

先に述べたように、会計帳簿の仕組みは、'悪意ある不正'には太刀打ち出来ない。論理の辻褄を検証する'校閲機能'はあっても、論理そのものが虚構である場合の、アリバイ崩し能力はない。この不完全性に、田舎の会計士が'秩序の番人'として踏み込んでいく。だが、彼の眼差す先にあるのは、punishment[罰則]によらない、banishment[追放]や、vanishment[消滅]を代弁する、秩序の埒外から既存秩序を担保せん、とする、'Blind Justice'[見えるものに依らない正義]の、裏-'ironically'-の姿[盲目の正義]。

'悪意ある不正'を暴くには、データマイニング的手法を要する。前年同比や業界標準と比して、'歪つな数字'を洗い出す作業の枠組みが必要となる。スパコンに代替されつつある、ビックデータ処理の枠組みを、ASDの"天才性"〔scotoma〕で補完していく。かつて『レインマン[原:Rain Man]』におけるサヴァン症候群の取り扱いの際にも見られた'優性思想'の典型だが、この作品は、この倫理的課題に対する省察を、留保している。

'rule of ~' vs 'due process of ~'

この"田舎の会計士"こと、法と秩序のために'触法'する、civilian[文民]を経由しない、暴力装置-絶対不正見逃さないマン-は、その生い立ちレベルにおいて、『秩序のために'触法'する、civilian[文民]を経由しない、暴力』を埋設されている。父とおぼしきヒトに、order[秩序]を埋め込まれていく。斯様に暴力的に。つまりこれは、素朴な'優性思想礼賛'ではなく、'優性思想を要求する社会'に視座している。

彼が単体の暴力装置を発揮する時、そこにpleasure[享楽]は看取されない。どころか愉悦性の真裏に位置する-強迫神経症に駆動される-躊躇のなさには、depression[抑鬱]が見て取れる。無為な秩序に慰撫される自分自身を、不完全な世の中に上書きしていく。暴力的に。そんな代償性-自罰自傷行動-に基づく、抑圧の移譲と呼びうるものが、ここにはゆるやかに重ね焼きされている。彼にあるのは、【rule of ~】に裏打ちするpunishment[罰則]ではなく、banishment[追放]や、vanishment[消滅]に相当する、排除の論理だ。中心から周辺部に、都心から辺境部に、'非秩序'を追いやり、あわよくば'埒外'に排出しようとする。'ASD'をdisorder[秩序の'dis']とするのでなく、過剰な秩序の体言者として描くことで、'既存秩序'に対す内破を目論む。【due process of ~】に漂泊し、形骸化する秩序の'不完全性'を、既存秩序に排撃された者によって、了解可能な枠内〔optimization:箱庭のウチの最適解〕に加工せんとする、秩序性の過剰。無論ここには、"校閲"に甘んじる会計制度そのものに対する告発が、通暁するmetaphorとして埋め込まれている。

映画は、脱税の受け皿となる"絵画"に照準し、終幕する。絵画の真/贋を問う声はあっても、答えを明かさずに終わっていく。このlastに込めたアイロニカルな寓意を、言語化するのには胸が潰れる思いがある。何を以て、我々の社会は本物としているのだろう。自分は偽物では無いと、なぜ言えるのか。ASDを、ASD以外を、線引く境界は地続きだ。今段階では疫学的にみて確からしい傾向を、そう名宛てしてるに過ぎない。

nature or nurture

油断すると、瞬く間にsimulacreに淫しがちな新興国家U.S.A.には、『伝統』ともいえる脈絡が、どこかあるように感覚する。H. Melville[1819-1891]を始め、J. D. Salinger[1919-2010]に至る、米国文学の辿る'Merkmal'に、色濃く刻印される、真/贋への問い。『書写人バートルビー─ウォール街の物語[原:Bartleby, the Scrivener〔A Story of Wall Street〕]』、『バナナフィッシュにうってつけの日[原: A Perfect Day for Bananafish]』、そして『ライ麦畑でつかまえて[原:The Catcher in the Rye]』に刻む、naturenurtureへの執着。偏狭で執拗。博引で旁証。映画に於ける『Jason Bourne』『joker』等にみる、originへの間断無き問い合わせ。これらは、『わたしを離さないで©Kazuo Ishiguro [原:Never Let Me Go]』にみる'identity'の喪失感と、その埋め合わせの望郷とは、とても良く似ているようでいて、しかしかなり違ったものだ。彼等が『自分探し』から自由になる-'不自由さ'を引き受ける-日は、永遠に来ないように思える。


'laissez-faire' 
 'laissez-passer'



数学者ゲーデルは、'完全性定理'を証明しようとして、晩年"廃人"と化していく。この世は'完璧な虚構'の乱立する、不完全なセカイ。'知らないことはわからない'で、進むしかない。新世界の神は、Autism[箱のウチ]でしか生きられない。

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