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『街場の依存論』

16歳くらいだったろうか。
書店で見掛けた本の帯に、すべての家族は異常である、という一文が添えられてあった。確か、翻訳物だったと思う。それを見てどう感じたか、今はもう憶えていない。その文言を、それを見た書店の風景を、今でもよく憶えている。その事実だけが、きっと重要なのだろう。

『外見の壁』

養老孟司は、個性は外面的なところにしか顕れない、という。
'イケメン好き'という意味ではなく、内面的な自由を絶対に脅かさない、とするための反証的表現だが、似たものに、脳は全て奇形、というのもある。街頭に、路地に、また紫陽花が咲く季節がやってくる。『やがて君になる©仲谷鳰』において、かの作品が、つとめて"七海燈子"の容姿に立脚するのは、その美しさもさること-マーケット要請-ながら、'而二不二'溢れる『やが君』において、それが彼女にとって'唯一無二'の、かけがえの無い個性だからだ。蔓延する優性思想を逆手にとる、文学的アイロニズム溢れる'優しさ'に、心打たれる。

ジョ

わたしにもし'ideology'があるとすれば、materialismなのだと思う。清貧とか、断捨離とか、御布施とか、つゆほど信じていない。人間は道具で拡張し、道具でspoilされた。道具を扱う、'親指の向き'が、人と猿の分水嶺とされる。'fiscal'こそが福音で、元凶なのだ。みうらじゅん老師言うように、'悟り'なんて開いちゃいけない。

"死んだ恋人の手紙"は、"恋人"であることが肝要で、書かれる'言葉'はその従属だろう。或いは手書きの"Letter"そのものに、駆り立てられているに過ぎない。"言葉の力を信じてる"、みたいなキャッチコピーほど、無為で、無策で、鼻白むものはない。その対にある、"言葉に頼り過ぎるな"も、所詮はコインの表裏だ。'チェーストー'(*知恵ストップ)と、奇声をあげて切りかかる、田舎侍と変わらない。

『身体的な社会』

言葉の力なんて信じていない。無論、言葉は外部なので、お金と同様、一定の力を有している。かつて言語中枢が発見されたように、にわかに"お金中枢"と呼ぶべきものが、脳機能のaddressに発見されているそうな。この話を聞いたとき、'読み・書き・算盤'というのは、身体にまで染み渡っているのだな、とぼんやり思った。'お金が欲しい'を放棄-事業促進ツールと割り切る-すれば、お金から自由になるように、'社会を放棄'-準拠集団からの一時的退避-すれば、言葉からは自由になる。社会を放棄するのが難しいのは、それを再構築・再コミットメントするのが難しいからで、放棄すること自体は簡単だ。社会の放棄というオプションを絶対に手放さない、と決めておくのは大切だろう。脱社会的な存在は、'新世界の神'にも成り得るのだから。

誤解無いよう附言すれば、これはセカイ系の話ではない。寧ろ、反セカイ系のススメに相当する。セカイ系は簡単に言えば、身体に着陸出来なくなったときに、発見される迂回路で、身体性からの逃避を意味する。過緊張過覚醒不眠等により、'疲れ'に横たわることが出来なくなったとき、セカイ系の入り口に立つ。そこにあるのは、世界の拒絶ではなく、身体からの虚脱だ。


依存症を慣用的にいえば、疲れと充実を、自らで峻別出来なくなっている状態を指す。ドキドキとワクワクを区別出来ない。'ソレ'をやっている状態が常で、ソレ以外の状態が非日常。血中アルコール濃度が、ニコチン濃度が、店員にほめそやされるお買い物が、'覚醒'や'高揚'が常で、それ以外のぼんやりとした日常が、'非日常'になっている。身体が疲れるほどに充実してしまうparadox。ここから永遠に抜け出せない。身体に着陸出来ず、'疲れ'に安息出来ないのだ。これは'意味の無い反復'こと、不安神経症にみるトラワレと、外形的に変わらない。要は不安の穴埋めをここにみる。

『動物化するアヤナミ』

セカイ系の開祖こと『最終兵器彼女©高橋しん』は換言すればつまり、"最終依存先彼女"の謂であった。そしてセカイ系の代表作『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||©カラー』で綾波は、"人間活動"に着陸する。農業にセイをだし'生'を取り戻す、らしい。主題歌は宇多田ヒカル。これ、コメディですよね庵野さん💖

安寧を充足するはずの家庭において虐待され、或いは学校でイジメを受け、過緊張をほぐせずにアニメーションに逃避する。そんなのは全然称揚できないが、それでも避難所は必要だ。こうした逃避依存先を複数程度確保しておく。それが今主流の考え方だが、それだけでは足りないと感覚する。戦略的意識的に『意味の無い反復』に勤しむ枠組みをコーピング[stress-coping:情動焦点コーピング]と呼び、それなりに普及してきた。'敢えて過集中しやり過ごす'、そうしたものを予め複数用意しておく。つまり逃避依存先を複数程度確保しておく。だが、そこに'報酬系'が備わってしまうと、避難所であるはずのコーピングが目的化し、コーピングに勤しむ状態が常、という逆転現象が発生する。射倖性と言い換えてもいい。つまりガチャだ。

キュウ

ガチャを一言でいえば、消去の手続きをランダムにしたものをいう。ある入力をしたときに、その対価に報酬を得る。その'入力'が機能しなくなる、つまり'空振り'が続くと-負の上書き-消去の手続きへと傾く。ここで、完全に空振りであり続ければ、入力-報酬の枠組みはキャンセルされるのだが、問題は、ランダムに報酬を得てしまう状態。これはつまりはギャンブルのそれに照準する。このランダムの期待値を射倖性と呼び、法律で一定程度の規制が掛かる。なぜ、法律を持ち出してまで規制するのか。抗えないからだ。

唯一抗う方法は、全体を構造的に理解し、抗えないことを知っておく。つまり、期待値に沿って、大数の法則命ずるままに、世界は記述されていく。この世は儚く不条理であることを、徹底して踏まえておく必要があるのだが、そんなのはたぶん無理だ、残念ながら。ギャンブルの、そもそもの成り立ちは帝王学に遡る。昨日まで遣えていた侍従が裏切る。或いは戦、暗殺、病気、事故ほか、理不尽な名目で死ぬ。それでも指揮し続けなければ治世は務まらない。条理/不条理に寄らない思考、つまり、非日常に足場を置く訓練装置として、ギャンブルは発達していく。

アルコール依存症者が、たった一杯で元に戻ってしまう背景には、意志の弱さでなく、ガチャの駆動がある。'報酬系があまり駆動しない限り'、という条件付きで'コーピング'は機能する。 

Air/
まこごろを、君に


あまねくセカイに祝福を。
言葉は、人を救わないかわりに、人を殺したりもしない。
殺すのは言葉じゃない。惹起する妄想に、人は死ぬのだ。

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