ニューヨークで活動をしていますDJ SHU-Gと申します。
ご存知の方もそうでない方も改めましてこんにちは。
ニューヨークでDJ活動をしていますSHU-Gと言います。
心機一転ということで
今まで使用していたブログからNoteへ引っ越し!
なので自己紹介も兼ねて日本でこれまでどんな活動をして来て、どんな経緯でニューヨークに移り住むことになったのかを書きたいと思います。
初めてヒップホップと出会ったのは確か中学生の頃だったと思う。
当時は本当にピュアな中学生で、DJの存在なんて全く知らない普通のサッカー小僧。
たまたま一緒のアパートに住んでいた友達がきっかけでスケートボードをやり始め、その自然の流れで洋楽を聴き始めた。
毎回僕の知らない世界を見せてくれるその友達の存在はとても大きく、かなりの影響を受けた。
当時はカセットテープの時代。
その友達から色んな洋楽の曲がミックスされたテープをダビングさせてもらい最初は良いのかも分からないまま聴いていたのを覚えてる。
ただヘッドフォンから漏れる洋楽がかっこいいと思った。
最初はK7やMC HAMMERなどのヒップホップやSNOWやASWADのポップよりなレゲエ、ユーロビートなど全く知らないで聴いていたんだけど、洋楽を聴き始める入り口としては間違ってなかったんだなって今は思う。
ヒップホップのCDだと思って初めて買ったCDがまさかのR&Bだったっていう苦い思い出もある(Montell Jordanは90年代を代表するシンガー)。
でもこのジャケットはR&Bじゃないだろ!笑
当時、その友達とは毎日のように遊んでいたんだけど
ある日その時はいきなり訪れた。
たまたまその友達のお姉ちゃんが当時付き合っていた彼氏からターンテーブルを譲り受けるって事になって彼の家に遊びに行った時のこと。
それが初めてターンテーブルと出会った日。
TechnicsのターンテーブルにAudio Technicaのミキサー。
ただ中学生の自分には直ぐに買えるほどターンテーブルは安価では無かった。
だからその時はまだターンテーブルを持ってなかったんだけど、家にはリスニング用のレコードプレイヤーがあって無理やりそのプレイヤーで親に隠れてスクラッチした。
部活がない日はスケートボードをして、時間があれば友達の家に行ってターンテーブルを触らせてもらってた。
今でもその光景は鮮明に覚えてる。
そして高校生になる前
やっと自分のターンテーブルとミキサーを持つことができた。
サポートしてくれた親には感謝しかない。
その時がDJを始めた日。
当時はただ女の子にモテたいとかカッコつけたいとかそんなたわいもない理由でヒップホップを聴きだしDJを始めたけど、ヒップホップというジャンルの枠に収まらないその大きな魅力に気が付くと夢中になっていった。
もしあの時にヒップホップやDJ、きっかけをくれた友達に出会って無かったら今頃どうしていたのだろう。
もしかしたら目標も無い平凡な人生を歩んでいたかもしれない。
考えるだけでもおそろしいな。
ヒップホップと出会うことができたからこそ沢山の素晴らしい人達と出逢えたし、ヒップホップが持つ力強いメッセージに勇気や感動をもらい、ヒップホップに鼓舞されたからこそこれまで諦めずポジティブに進んで来れたと思う。
「ヒップホップやっている人はドラッグやってる人が多い」とか有名ラッパーが捕まったり、クラブで出会ったDJからドラッグを譲り受け…みたいな日本のニュースをたまに見る。そんな影響もあり2020年の今でもフリースタイルの流行りを受け盛り上がっているように見えるがヒップホップに対しての悪いイメージは未だに払拭できていないとは思う。
残念ながら少なからず事実な部分でもあるし、日本で真っ当な仕事として世間に認められるにはまだまだ時間がかかるだろうと思ってる。
でもそんなネガティブな事だけではない事を知って欲しい。
むしろ真面目で情熱に溢れ、純粋なハートを持ったヒップホップアーティストを僕はたくさん知っている。
アメリカで生まれたヒップホップは、黒人同士が血を流し争うということを止め、歌やダンスに変え表現するということ、暴力に変わる自己表現の場所として存在していた。
また政治や社会に対するメッセージでもあった。
本来ヒップホップが持つパワーはものすごくポジティブなものなんだ。
もちろん日本とアメリカでは背景や文化が全く違う。
未だに日本にヒップホップが浸透しないのはその理由が大きいと思う。
ヒップホップ。
僕が言うヒップホップは音楽のジャンルだけを指すものでもない。
ヒップホップは生き方やライフスタイルなど様々な意味を持つ。
今この記事だけでヒップホップの魅力を伝えきるのは難しいので、これからこのブログを通して皆さんに少しづつ伝えて行けたら嬉しいなと思う。
もちろん僕がヒップホップを通して得た経験は全てがポジティブなことだけじゃないんだけど。
ヤクザに絡まれたり先輩に脅されたりっていうこともあった。
ブログでは言えないようなことも沢山ある、、、笑
まー今思えば生意気なクソガキだったから仕方ないところはかなりあるけど笑
でもそんな嫌な経験から一番学ぶことができた。
当時は何をしても直ぐに諦めてしまい、一つのことをやり続けることのできなかった人間がヒップホップに出会ったことで諦めない大切さを学び、紆余曲折あったにせよ、約20年近くDJを続けられている。
自分に自信を持てなかった20代前半。
そんな自分でも
「ヒップホップなら夢を叶えられる」と純粋に思えた。
19歳か20歳くらいの時。
渋谷で生まれ育った従兄弟の紹介でSTORMYという当時渋谷で絶大的な人気を誇っていたエクストリーム系のショップで働くという最高の機会を得ることができた。
全てはこの瞬間から始まったと思う。
働きだした当初は、スケートボードのフロアで働きたかったのになぜかサーフィンやウェイクボードのフロアで働くことになった。
でもそれが逆に良かった。
なぜかと言うと、実はそのサーフィンのフロアには渋谷FMの収録スタジオが併設されていて、当時人気のあったDJ MasterkeyさんやTop Drunkers(RhymesterのMummy-Dさんと今は亡きMaki The Magicさんのコンビ)、DJ KENSEIさんなどヒップホップDJを代表するDJが毎週のように回していた。
当時は働きながら食い入るようにその様子を見ていた。
当時大人気だったシンガーのSugar SoulやDoubleも番組を持っていた。
DoubleのTAKAKOさん、今は亡きSACHIKOさんとSTORMYのエレベターでたまたま出くわした時のことは今でも鮮明に覚えている。
アメリカからも伝説的なヒップホッププロデューサー・DJであるMarley Marlが来ていたのを覚えている。
日本のヒップホップシーンの第一線で活躍する人たちを働きながら間近で観れたことは本当にラッキーだったと思うし僕にはとても刺激的だった。
STORMYで働いていた当時は、仕事終わりには必ずと言っていいほど毎日のように渋谷のストリートでスケートボードをし、夜はクラブへ繰り出すという日々。
当時の渋谷はスケートボードへの規制が今ほど厳しくなくて毎日が最高に楽しかった。
何も恐れることが無かったあの日々が懐かしい。
STORMYでは渋谷と原宿の明治通り沿いにあった店舗で約3年くらい働かせてもらったかな。
そしてその後は縁あってSTORMYの目と鼻の先にあった服屋ESP Tokyoで働くことに。
公園通りを上がりきった渋谷公会堂の近くにあった。
実は当時ESPはキレイ目なヒップホップスタイルのお店として人気があって、大人気ヒップホップグループSoul ScreamのHab I ScreamさんのファッションブランドWORDを扱っていることでも名の知れたお店だった。
メンバーであるDJ CELORYさんにはこの時に初めて知り合って、当時から本当によくしてもらった。
気がつくと一緒にクラブへいく仲へとなり一緒にイベントもやった。
イベント後に酔って当時乗っていたバイクを廃車にされたこともあった笑。
そんな話は置いておいて。
当時、ヒップホップの聖地と言われる宇田川町へはお店から徒歩5分くらいで行ける距離。
添付した写真は当時の写真では無いがここが有名なシスコ坂と言われる場所。本当に多くのレコード屋がひしめき合ってた。
この通りでレコードやミックステープを売る人とか居たなー。
ダースレイダーさんの動画で当時の動画が少しだけ観れます。
毎日のように休憩時間は宇田川町へ行きレコードをチェックしていたのを覚えてる。
ESPでは約3年くらい働いたかな。
そのあと数年が経ち、渋谷の宇田川町にあった人気レコード屋Homebassレコードで働く機会をえた。
DJを本気で志すきっかけとなった大きな分岐点。
店員が全員DJというこれまでとは全く違う環境。
しかも第一線で活躍する人たちばかりだったこともあり、毎日が本当に楽しく刺激的だった。
刺激だったことは他にもたくさんあるけどここでは伏せておく笑。
その中でも特に影響を受けたのは、一緒に働いていたDJ MISSIEくん。
そしてDJ TAKUMIくん。
ミックスセンスと高いスクラッチスキル、選曲のバランスがズバ抜けていて本当に影響を受けたし、一緒に働けたのは当時の僕にとってとても大きかった。
店終わりの店内でMISSIEくんがミックス制作を夜中まで作業していたのを覚えている。
MISSIEくんの鋭い眼差しから創り出されるミックスはどれも一級品だった。
まだMISSIEくんのミックス"HIP HOP"シリーズを聴いたことがない人は是非この機会に聴いて欲しい。
その時のことはこの動画の中で少し話しています。
当時のHomebassレコードはストリートの土臭さが残る数少ない貴重なレコード屋だったんだけど、惜しくもビルを建て直すとの理由で移転をせざるを得なくなってしまったんだよね。
またその頃はまさにアナログからデジタルへと移行する真っ只中。
新しい店舗への移転後、お店から自然と少しずつ客足が遠のいていくのを働きながら感じていた。
そんな流れもあって宇田川町を僕も離れることになった。
その後は色んなお店を転々とし、渋谷にある機材屋POWER DJ'sで働かせてもらう事になった。
あの時はただただ悔しかった記憶しかない。
DJとして成功すると決めたはずなのに。
現実は全く違う日々。
でも希望や絶対に抜け出してやるんだという強い思いはずっと持っていた。
そんな時、大きな分岐点が起こる。
初めて大手レコード会社VICTORエンターテインメントから自分名義のオフィシャルミックスCDをリリースしないかという話を頂いた。
初めて自分のミックスCDのプロモーション映像が渋谷のヴィジョンに映し出された時の感動は今でも忘れない。
店頭で大きく展開されるミックスCD。
そして、そのあと直ぐに訪れたもう一つの大きな分岐点。
タワーレコードさんと人気オーディオブランドbeats by dr.dreとのコラボレーションでUniversalレコードよりミックスCD"no beats, no life"を発売するというとてつもなく大きな企画。
前回のミックスCD同様に動画が渋谷の大きなビジョンに移り出され、タワーレコードでは今までに無いほど全国的に展開された。
初めて心からDJとしての自信を手に入れることができた時だった。
このことが大きなきっかけとなり日本全国、本当に多くの場所に行くことができ、行く場所で仲間がいつも暖かく迎えてくれて、幸せで恵まれた大切な時間をたくさん過ごすことができた。
しかしある時期を境に、今までどこかで諦め気持ちを押し殺していたニューヨークへの憧れの想いが少しずつ再燃する様になっていった。
そして同時にこのまま日本でDJとして活動していくことへの不安が頻繁に頭をよぎる様になっていった。
『今は幸せだけど数年後も同じ様にやっていけるのだろうか』
そんな未来への不安から『大きな成長や飛躍をするにはニューヨークで活躍する事しか道はない』そう自然と思うようになっていった。
そして満を辞して2014年にニューヨークへ移住。
現状に満足したくなかった。
弱い自分を変えたかった。
そんな動機をYouTubeチャンネルで喋っているので観てください。
現在、ニューヨークへ移り住んで早くも6年が過ぎた。
去年無事に*アーティストビザを取得し、アメリカでDJとして正式にお金を稼ぐ事ができる。
*アーティストビザとは芸術やスポーツ、テレビ、映画などの分野で「卓越した能力を有する」「卓越した業績を残した」者に発給されるビザ。学生ビザでお金を稼ぐことは一部を除いて法的に認められていない。
これはDJである自分にとって本当に大きなステップであり、アメリカ・ニューヨークで認められたという証であり大きな自信になった。
胸を張って日本へDJとして一時帰国できる。
実はまだ日本を離れてから一度も日本へ帰っていない。
学生ビザで日本へ帰るという自分のプライドが許さなかったし、しっかりとした自信と結果を持って日本へは帰りたかったんだ。
そんな時にニューヨークを突然襲ったコロナウイルス。
そして外出制限になった。
当然の事ながらDJの仕事は全てキャンセルされ、ニューヨークでの全ての収入が途絶えた。
初めて肌で感じたアジア人への差別。
アジア人以外、全ての人が自分をそんなヘイトな目で見ていると感じるようになった。
同時に自分を守りたいという恐れから人を通して自分の弱さも感じるようになった。
だけどやっぱりニューヨークはニューヨークだった。
嫌な人も居れば良い人も沢山いる。
こんな時でも明るく振る舞い、優しく接してくれる人達が沢山いた。
勇気も沢山貰った。
クオモ州知事の有名な演説。
私達にできない事はない。
ニューヨークは強い街だ。
ニューヨークは私達を強くしてくれる。
そして良い方向へと私達を強くしてくれるんだ。
絶対に乗り越えられる。
私はニューヨークが大好きだからだ。
ニューヨークはあなたが大好きなんだ。
ニューヨークは差別せず、黒人や白人、ブラウン、アジア人、背が低い人、高い人、ゲイ、ニューヨークは全ての人が好きなんだ。
だから私はニューヨークが好きなんだ。
皆さん聞いて欲しい。
今回のパンデミックは本当に長く続くかもしれない。
だけど最後には愛が勝つんだ。
私達は乗り越えられる。
ある日本のテレビから取材を受けたことがあった。
インタビュアーが僕にこんな質問をしてきた。
『ニューヨークを離れることは考えなかったんですか?』
考えもしなかった。
この時期を絶対にニューヨークで乗り越えたかったし、この時期を乗り越えられたら本当のニューヨーカーになれる、そんな気がしていた。
僕はニューヨークが大好きだ。
差別される事があったとしても、それ以上に幸せや感動を与えてくれる街。
そんな最高な街をコロナウイルスの件で離れるなんてできるはずがない。
そしてDJはこんな時だからこそ、音楽を通して幸せや勇気を与えられるということを改めて気がついた。
今回起こってしまったコロナウイルスを通して、どうポジティブな方向へ柔軟に考えをシフトできるか、それがとても大事なことであると思います。
少し話が長くなりましたが、私の自己紹介を交えながら今回はブログを記させてもらいました。
次のブログでは実際に私がどんな思いでDJという仕事に向き合い、ミックスを制作しているのか、そのことについて詳しく書いていきたいと思っています。
ヒップホップやDJに対して詳しくない方々も今回の私のブログを通して、その魅力を知って頂けたら嬉しいなと思います。
ブログの途中でも紹介をしましたが、少し前にYouTubeチャンネル始めました。
音楽のことを中心に、ニューヨークでの生活やファッション、文化、食などニューヨークで暮らしているからこそなコンテンツを配信できたらと思っていますので是非サポートを宜しくお願いします。
Instagramもやっています。
Instagram : @DJSHU_G
最後まで読んでくれてありがとうございます。コロナウイルスの影響で生きにくくなった時代。こんな時だからこそポジティブなメッセージであったり、力強く生き抜く知恵、有益な情報を皆さんとシェアしたいと思っています。