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「愛」と「感謝」という原動力を知っていくこと

「愛と感謝の原動力」と「怒りと問題意識の原動力」

愛と感謝を原動力にすることは、僕の人生を振り返るとどこか遠いもの、他人事のような感情だったように思う。

自分と関わってくれた色んな人のおかげで今の自分がいることは何度だってかみしめてきたけど、それは今の自分をつくってくれた感謝を返したい、というよりは、ダメ人間の自分を少しでもまとまな人間に引き戻してくれた、引き上げてくれたから、その分自分は何かを報いなければならないという自分に課せられた業のようなものだと捉えてきた。

そんな僕の行動の源泉はいつも怒りや問題意識だった。大学時代ボランティアやNPOでの活動に力を入れたのはなぜか。それは誰かのためになりたいっていう綺麗で優しい気持ちなんかじゃない。許せなすぎる社会の歪みへの怒り、無限のように散らかっている問題への課題意識、人のエゴへの怒り、そして何より過去の自分自身への怒りと、その償いとしての業である。

自分のモチベーションはいつもそこにあった。だから、感謝や愛情がイマイチパワーにならない感じがしていた。例えば誕生日サプライズみたいなことを全然したことがなかった。友達に誘われたらやるけど、自分からはまずしないし、やるとしても頼まれた役割をこなすだけ。

そんな自分が少しずつ、社会人になってから変化していると感じる。

2年間の中でふれあった機会たち

親やおばあちゃん、友達に手紙を何度か贈った。これまで家族っていうのはあくまで共同生活体であって、絆の対象ではなかったのに。

誕生日を祝う意味がわからなかったけど、僕の働いている会社は誕生日サプライズの文化があるので、同僚と共に誕生日サプライズを何度も行った。予定調和的な誕生日サプライズなんて惰性だとか時には思いつつも、誕生日を祝う意味を自分なりに考えた。

365日という人が勝手に決めた暦の上での誕生日の意味ってなんだろうか。22歳が23歳になったその日から何かが突然めでたく変わるわけじゃないし。でも、そんなことはどうでもよかった。誕生日は祝いたい人が祝うための日なんだ。

恥ずかしげもなく堂々と誰かが生きていることや、生まれてきてくれたこと、出会ってくれたことに感謝したり、日々の思いを伝える機会を与えてもらえるのが誕生日だ。別に普段からやればいいじゃんって話なんだけど、照れくささとか急に何言うの?みたいな壁を全部取っ払ってくれる特別な日が誕生日なのだ。

他には、同僚がやめるときに寄せ書きや動画など、みんなの思いを伝えるコンテンツづくりを何度かさせてもらった。制作の過程で扱ったメッセージを通してみんなの思いにたくさん触れた。制作共にした仲間といっしょに卒業していくメンバーのことを考えた。

先輩の結婚式のための動画づくりをさせてもらった。二次会での企画づくりと当日の運営の手伝いをさせてもらった。

そんな風に社会人になってからとにかく感謝や愛情を動機として活動をする機会をたくさんいただいた。そして、感謝や愛情を動機として動く人たちの隣でいっしょに活動させてもらった日々。

そういった自分が今まで持っていなかったものに触れる機会をいただくなかで、知らず知らずのうちに自分の中の感謝や愛情っていう気持ちも育っていっていたみたいです。

今の会社で働いて思うこと

昨日いつもお仕事を頼んでいる取引様の事務所にお邪魔して、その会社の家族的な繋がりに触れて。社長の奥さんから聞いた若手の従業員への思い。日頃頑張ってくれていることに対する感謝や、将来を思う気持ち。愛情と感謝が溢れていて、気持ちがあふれて泣きそうになりました。

大学時代に色んな人にインタビューをする活動をインターンでしていて「お返ししたい」とか「感謝を繋ぐため」ってお話をする人にたくさん出会った。僕は、その気持ちがどんなものかわからなくてずっとモヤモヤしていた。なんとなくわかるんだけど、自分が感じていることとその人たちの感覚はなんだか違う感じがする。だって自分にとっての報いは、業、義務であり、異なるものだったから。

うちの会社は感謝や愛情で頑張れる人がとっても多いと思う。対して僕は、問題意識や怒りで頑張れるタイプ。この違いがみんなとの見えない距離をつくっていたようにも思う。

でもそんなみんなに囲まれて、愛情や感謝に溢れる粋な職人さんたちに囲まれて、生きていく中で大学の頃よりずっと感謝とか愛情って気持ちがすーっと自分の中に入ってくるようになった。

まだ、感謝や愛情が行動の原動力にまではならないけれど、そんな自分に変わりつつある今日この頃。

うちの会社の言語化しにくい良さとはなんなのだろうか。それはおそらく感謝と愛情の絆で繋がるコミュニティっていう点なのだと思う。

当然その中には依存や居場所、承認欲求みたいな気持ちの要素だっていくつかはある。そこがまた人間らしくてをかし。ってところかな。

今まで僕はミッションで繋がるコミュニティという観点でしか自分の会社を見れていなかったから、ミッションによる繋がりの弱さにもどかしさを感じていたけれど、僕の目には見えなかっただけで、もっと強い繋がりがあったのだと思わされた。

生きることがワントーンあたたかくなった

認めたくないけど、やっぱり僕は、”分断して生きてきた”から。それは社会と自分であったり、自分自身の本当に奥底の部分を隠すって習慣だったり、人に依存しない距離感の取り方だったり。

そんな無理やり自分を変えようと律したり今の自分を否定するのはなんか違う気がする。このまま順調に自然体でゆっくり新しく芽生えつつある気持ちを、あるいは眠っていたけど目覚めつつある気持ちを育ててあげたい。

こんなことを考えられているのも昨日の取引先の会社さんとの時間があってこそ。ありがたいなあ。生きるってことは素晴らしい。
なんだか自分はやっと普通に近づいていくんだなって感じがする。そう思うと天邪鬼だから、ヤサグレ気味のままでいたくなる。だけど、生きることがワントーンあたたかくなったなあって感じるのは事実なのだから、素直に受け入れようと思う。

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