「子ども」と「大きな子ども」しかいないこの世界で。
大人ってなんだろう。
僕は25歳。成人から5年、働きはじめてから3年がたつ。
ぼくが大人を実感したのは社会人になってからだ。
大人と老いと。
ただ健康に生きるためのコストが高くなって、僕は大人を感じた。いや、正確には老いかもしれない。
肌は荒れやすくなるし、太りやすくなるし、すぐに胃がもたれるし、お酒には酔いやすくなり、疲れやすくなった。
次々と噴出する問題に対して、時にはお金をかけ、時には工夫をこらして、やっと昔と変わらぬ健康を手にすることができる。
お風呂上がりは保湿をして、シャンプーはノンシリコンで、お風呂にはお湯をためて、できるだけ20時以降には食を避け、お酒の量は調節する。日常の中に運動を取り入れることも検討する。
若い時はそんな問題がおこることや、それに対して投資したり、工夫をこらすなんて予想もしていなかった。
これが大人?いや、これは老いだ。
大人ってなんなんだろう?
僕はどんなおじさんになるんだろう。くたびれて歳を重ねたおじさんにはなりたくない。自分に酔ったおじさんにはなりたくない。
そんなことを考えていると、「そもそも大人ってなんなんだろう?」って思った。
本当の意味での大人っているのだろうか。大人という概念は、人を大人と子どもに2分化するけれど、実はこの世には「子ども」と「大人のふりをした子ども」しかいないんじゃないだろうか。
おそらく社会には「大人」というキャラ設定があり、そのキャラの条件を満たしている人を「大人」といい、それから外れる人は「子どもだなあ」って言われるんだと思う。役者とその他みたいな感じだ。
真の大人はほんのひとにぎりだけ?
「成熟」という観点で見ると、真の大人はひとにぎりなのかもしれない。僕は成熟した大人になれないまま死んでいくのかもしれない。でもなんだかそれも悪くないって思う。「大人になりなよ」というセリフで他人の生き方を見下す人間にはなりたくない。
「大人」というキャラは、「大人ぶってる人」が勝手に決めた「決めごと」でしかないんだ。自分の正しさを人に押しつけるのは本当の意味の成熟とは違う気がする。
大人という病
人生の「ありかた」や「いきかた」はもっとしなやかで自由でいい。特定の形に落とし込む必要はない。僕はいつまでも子供気分だってかまわない。「僕は大人です」だなんて自信をもって言うことはできない。
決して生真面目に大人を演ることを否定したいんじゃない。それも「ありかた」のひとつだと思う。
もし、大人という生き方が「大人という病」のように感じてしまう人がいるならば伝えたい。例えば、みんなの正解を無理やり自分の正解に変えること。大人にならなきゃって呪文を唱えて自分を押し殺すこと。
僕たちはみんなこどもだから大丈夫。君はこどものままでいい。自由さと、のびのびとした寛大さをもちつづけてもいい。世界にふれた時のわくわくを忘れなくてもいい。
大きな子どもとして歩む道
生きたいように生きて自分を幸せにして、だれかのことも幸せにしよう。そしたらきっと幸せだから。
大きな子どもの僕たちは、子どもの時より老いを知って、健康でいるのは大変になったけど、その分できるようになったこともきっとある。僕は大きな子どもとして生きる人生を大いに楽しもうって思う。
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