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「天気の子」を観たーー線路の向こう側にあるものーー

このnoteには映画「天気の子」のネタバレを含みます。観ていない方はご注意ください。というか、観てください。
また、この記事には有識者面した文章が散見されます。それを読んでストレスを感じる方、またコメントやSNSにボロクソを書きたくなる症状をお持ちの方はご遠慮ください。





昨日、近所の映画館へ「天気の子」観に行ったんです。「天気の子」。
そしたらなんか人がめちゃくちゃいっぱいで座れないんです。
で、隣の男子学生とかが終わった後に「主人公クズじゃね?」とか「つまりバッドエンド?」とか言ってたんですよ。
もうね、アホかと。馬鹿かと。

東京より彼女の方が大事に決まってんだろ!

世界より彼女の方が大事に決まってんだろ!

そんなことも分かんねぇのか? あぁん!?

この物語は帆高と陽菜2人の物語であり、それ以上でもそれ以下でもない。沈んだ東京に対して、周りの大人たちは「元々海に沈んでいた土地だった」や「お前が気にすることじゃない」と声をかけるが、結局の所、人々は東京に住み続け、その苦労は描かれない。それが正しいだとか、間違っているだとかではなく、そうありたいと強く願う方を2人が選んだだけだ。何よりも2人は「子」であり、それを選択するだけの勇気と未来が合ったと言える。これは未熟や幼稚や愚かさと言った言葉を含んだ子ではない。そういう意味が、強く込められているんだと、私は感じた。

そう感じた理由として何よりも重要なシーンは、線路の上を走るところだ。豪雨で機能不全になった東京で、線路上を走るシーンを観て、なるほどそういう意味かと思った。
線路の上を走る映画と言えば、そう、スタンド・バイ・ミーだ。

プライム・ビデオで観られるよ。

1950年代末のオレゴン州の小さな町キャッスルロックに住む4人の少年たちが好奇心から、線路づたいに“死体探し”の旅に出るという、ひと夏の冒険を描いている。ーーWikipediaより

そうだ、ジュブナイル(死語)だ。ジュブナイル(死語)なのだ。どうやら現代ではヤングアダルトというらしい。エロゲ感を感じている人がいるのはそういったジュブナイル感が合致したからじゃないか? というよりゼロ年代ラノベ感? 知らんけど。

キャッチャー・イン・ザ・ライに感化されて東京に家出するなんて、本当にジュブナイルだ。帆高が家出した理由は「退屈を脱するため」とうっすらとした理由で明らかに無謀だし、陽菜が無理に子供で2人暮らしをしている理由もあまり描かれていない。それは本当の意味で”理由はない”からだ。言葉に起こしてしまえば「若さ故の意固地」であるが、それ以上にセンシティブな意味がある。

"なぜ死体を見たいのかよくわからなかった"
"だが たとえ1人でも私はいくつもりだった"

スタンド・バイ・ミーと天気の子では、50年代のアメリカと現代の日本という意味で対照的だ。田舎と東京、ヤンキーと警察、田舎の不条理と都会の不条理、12歳と15歳、友情と愛情。しかしだからこそ、ピンポイントな合致性に、監督の強い意志を感じる。

スタンド・バイ・ミーでは、死体の成果を奪おうとしたエースの不良集団に対して主人公のゴーディは銃を突きつけて対峙する。天気の子に拳銃が登場する意味はここにある。拳銃は子供が不条理に対抗するための強い「祈り」の先にある力だ。

線路を走る帆高をみて高架下から「ヤバくない?」「頭のおかしいやつもいるんだな」という、つまらない(監督の言葉を拡大解釈すれば「貧しく」なった)大人ばかりになった世の中で、本当に大事なことは何か? 「大人になれよ」って言うことが現代において正しいのか? ということを、「愛にできることはまだあるかい?」訊ねているのではないかと思う。

さいごに、この有名な言葉で締めたいと思う。

リーダーなら掟じゃなく、仲間を守れ。


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