①佐藤和夫を育てた街は?
お互いにいつも通りの話し方で進めて行きましょう。まず最初の質問は“あなたを育ててくれた街はどこ?と聞かれたら”?
3つあるんですよ。生まれた場所の(岩手県)二戸市、初めてオリジナル曲でライブを演った(青森県)八戸市、そして一番育ててくれた場所が(岩手県)盛岡市、と。
それぞれの場所について聞きましょうか。
二戸はライブというものを体感した場所なんですよね。ライブハウスというものはないけど、(ざっくりと1980年~90年代の)バンドブームのぶら下がりで賑わってた時代で。公民館とか〇〇会館とかホールとかを借り切って特設ライブハウスみたいなものを作って、先輩方がそこでライブを演ってたんですよね。
兄貴が2人いて、兄貴たちがそこでコピーバンドのライブをする。俺は小学生だったけど、500円とかのチケット代を出して見に行って。(出演者は)中~高校生ぐらいで皆、レベルが高い演奏でも全然ないんだけど、光がパーっと当たってさ。お客さんも入ってて、賞賛されてる姿を見て、カッコいいなぁって思ってしまったわけですよ、残念ながら(一同笑)。
それを地元で感じられたのがすごく大きくて。今は(二戸では)そういう音楽イベントも少ない、なので、この後も話すと思うんですけど(※今後公開するインタビューでお話に上がるイベント「南部事変」)、自分で音楽イベントを二戸でやりたいっていうのがありまして。
わたしも二戸に2年間住んでいたけど、そういうカルチャーはまだなかった頃かな。
自分たちで場所を借り切って手作りでさ、ドラムセットとか音響設備も揃えて(ステージを)組んで、終わったらバラして。文化祭的なノリも楽しそうに見えたし、演者も場所を作っている運営も、輝いて見えたって言うか。
先輩方がそういうのをやってなかったら(音楽と)出会ってないだろうし、わざわざ八戸とか盛岡とか、何なら東京にまで出向くことはなかったんじゃないかな、って思うんですよ。そこで彼らが鳴らして作ってきた場所があったから俺みたいなのが生まれて(笑)、そういう文化みたいなものを絶やしたくないっていう気持ちが今はあって。会場費がどうのとかチケットが売れなかったらどうしようとか、そういうことに小っちゃい時から触れていたのも良かったのかなとは思いますね。
だから八戸とか盛岡に行き始めると、2段回目の刺激があったわけですよ。“音、イイなぁ!デケーなぁ!”とか(笑)、バスドラムの響きもこんなにズンってするんだ、とか。盛岡には怖い店長もいるしさ(一同笑)。
怖い店長の話は追って。八戸で初めてオリジナル曲でライブをしたのは何歳の頃?
15~16歳かな、ROXXっていう所で先月も(SaToMansionが)ワンマンを演った場所なんですけどね。50~60人入ったらパンパンな所で、当時はドラムセットをマイクで拾ってPAを通して音を流すこともなく生音で。次男(佐藤英樹/SaToMansion)が八戸の学校に通ってて、学校の仲間から紹介してもらった、みたいな。
ちょうどTEXAS STYLE(以下テキサス)っていうバンドでオリジナル曲を作り始めてて、“ライブハウスみたいなところに出てみよっか”って。次男が車の運転も出来て機動力もあったので、マーシャルのバルブステートっていう小っちゃいアンプを引き連れて。それで初めて音を鳴らして、すごい褒めてもらって。でも二戸の田舎者が八戸に行くだけでもう、ビビっててさ(笑)。
それ分かる!二戸に住んでる人からすると八戸は都会(笑)!
ビビってるんだけど、ビビってることがバレたくない。それで凶暴なアクションになっちゃうわけですよ、“舐めんなよ!”みたいな(笑)。MCも一切しないで暴れまくって。
そういえばテキサスは「みちのくの暴れ馬」って紹介された記憶がある(笑)。
そう、暴れることが正義だったから(一同笑)。テキサスとしてそれは今も変わってないけどね。イベントがあったら(出演の)声をかけてもらうようになって、そういう意味で八戸のROXXも育ててもらった場所ではありますね。
それで活動の幅を広げようかと思ってたら、次男が“盛岡にどうやらライブハウスがあるらしいぞ”ってどこからか情報を仕入れてきて。次男は歳上の頼れるバンマスで、“まず音源を送ってくれ、ってことらしい”ってことで、レコーディングしてCDを送ったのかな。そのレコーディングをしてくれたのは長男(佐藤幸城/SaToMansion)で。
へぇー!?
長男はその時、東京で音楽学校に通ってたんですよ。授業の一環で実地みたいなのがあって“録りたい”って。ヤマハのAW4416っていう機材を使ってさ、母親の実家がある(岩手県)軽米町の牛舎で録ったの(笑)。もう牛はいなかったし、民家もないから夜遅くまで音を出しても大丈夫だったし、広いスペースでドラムセットを組んでマイク立ててさ。
いわゆるスタジオとかで録ってないのも良いね!
いいでしょ(笑)。ちょっと海外っぽいよね、名前がTEXAS STYLEだけに(一同笑)。録った音源を(盛岡のライブハウス・)クラブチェンジに送ったら“(ライブに)来いよ”って。それで初めてライブに行ったのは高校2年の時かな?
その時、赤いジャンパーに金髪の出立ちの人が“オマエら、良かったよ!”って話しかけてきたんだけど、“この人、誰なのかな”と思って。そしたら他のスタッフの人が、“本当はお金を払ってライブをやらなきゃいけない「ノルマ」っていうのがあるんだわ”って。でも“二戸から来てるし高校生だし、それをオーナーに言えばノルマは要らないと思うから、オーナー(=店長)に話してみて”って。
そもそもノルマっていうものを知らないから、ただ“分かりました”って言ってさ。それでオーナーっていう人に話に行ったら、その赤いジャンパーと金髪の人で。“すみません、僕らあんまり金がなくて”って言ったら、“うっせーなオマエら、分かってるよ。金なんかいらねーよ!またブッキングしてやっから、来いよ!”って。それが、黒沼亮介っていう店長で。帰りの車の中で“ブッキングって何だろう?”って話しながら帰ってさ。今だったらググるとか出来るけど、二戸の高校生の小僧には分かんないよ、“ブッキング”なんて(笑)。
その後、黒沼さんから直で電話がかかってきて“ちょうどいいブッキングがあるんだわ”って。まだブッキングの意味が分からずでも“はぁ”って言ったら、“ミッシェル好きだろ?ドラムのキュウ(クハラカズユキ)さんが「うつみようこ&YOKOLOKO BANDで盛岡に来るから、オマエら出ろ!”って。いいんすか!?って、そこで初めてキュウさんとか皆さんにお会いしてさ。
それが改めて、高校生の時なのか。
そう。当時、キュウさんはTHE NEATBEATSのサポートもやってて、ROXXに来た時には“見に来いよ!”って言ってくれたり。第一線の方と交わらせてもらってかなり刺激をもらったんだよね、小僧の俺らに色んな機会を与えてもらって。
二戸も八戸も盛岡も、かけがえのない大切な場所だね。それで高校を卒業して、上京する流れなのか。
そうだね、ROXXにもクラブチェンジにも“何か分かんないけど、東京に行きたいっす、もっと大海原を見たいです”みたいな感じで(笑)相談したら、行って来い!って。でも心配もしてくれてね、“もし何かあったら俺にすぐ電話かけろ!”って黒沼さんは言ってくれたんですよ、“俺がすぐぶっ殺しに行くから”って(一同笑)。
コンプライアンスが厳しい時代でもそのまま文字にするけど、その言葉は親心だよ。
本当にそう言ってたからね。上京してからも、テキサスはちょいちょい盛岡のライブに呼んでもらってたんですけど、ある日、すっごい怒られて。
ワールドプロレスリングのエンディングテーマになったり(「ライラック・シンディー」/2008)とか、プロデューサーの方がついてセカンドアルバムを作って。全国流通盤を出して、ハタチぐらいでちょっと良いムードだったんだけど、やっぱりライブが良くなくて…良くないと言うか、動員が伸びない。俺らみたいなガレージっぽいジャンルがちょうど廃れ始めてきた頃で、ムーブメントとしても勢いがなかった。俺らはそれしか出来ないけど、成功するためなら何かを変えなきゃ…って、そういう迷いを黒沼さんは察知するわけよ。“全然カッコ良くない、オマエら何しに東京に行ったの?”ってメチャクチャ怒られて。
それからは?
何が良くないのか俺もかなり考えて。ステージの立ち方とかスタンス・MCひとつにしても空気の作り方とか、そういうのにブレを感じるのかなと…曲や歌詞うんぬんの話じゃなくて、人間のあり方・人間性というか。“カッコ良く生きる”って考えてとりあえず出来ることは、やりたいことを突き詰めるしかなかった。
(当時)お世話になってる会社があったんだけど、そこを抜けて。リリースになると色んな大人が絡んできたり“これだけお金がかかってる”なんて話をされると、ちょっとビビっちゃう俺もいて。その会社を抜けて以降は自分らでやるようになったんだけど、結果的には良かったなって思ってる。紆余曲折あり、バンドが変わり、今に至り、なんですけど。岩手を離れてからも熱心に、忖度なしの率直な意見を言ってくれるのは、やっぱり今でもクラブチェンジであり、黒沼さんじゃないかなと思うね。(インタビュー②に続きます)
【「②「佐藤和夫の大切な1曲は?」に続く/9月13日更新予定】