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続・家出の話〜甲突川の橋の下で〜

小学5年か6年生ぐらいの時だったと思う。

今度は衝動的ではなく、わりとしっかり決意して家出した。

「もううんざりだ。こんな家は出て、一人で生きて行く!」

自分の育ての母親がパートに出ている間に、ペラペラのマジソンバッグひとつ持って、国道3号線沿いの安アパートを出た。

とはいえ、行く宛てもない。お金もまったく無い。

向かったのは近所を流れる甲突川の河川敷だった。

マジソンバッグ

当時からよく河原で遊んでいたのだが、その時に発見した橋の下の空間…橋台というらしいが、道路と繋がっているコンクリートの頑丈な部分に、結構広いスペースがあるのを発見した。

小学生男子という連中は、やたらと「秘密基地」を作りたがる。そこを見つけたときも「ええやん、ここ。雨風もしのげるし、ここを俺たちの秘密基地にしようぜ!」と盛り上がっていた。

そういう場所があることを知ったのは、通っていた小学校に近い河川敷だったが、実はその後一人で河原をうろうろしている時に、自分の住んでいる所の近くに、もっと頑丈でもっと広いスペースの取れる橋の下を見つけていたのだった。

「何かあったら、ここに来ればじゅうぶん寝れるな。」と思って、そこは自分のために確保しておきたくて、友達にも内緒にしていた。

その橋の下で暮らすつもりで家を出たその日、ペラペラのマジソンバッグに詰めたのは、タオルと新聞紙と、なぜか学校の図書館で借りた「二死満塁(ツーダンフルベース)」という児童書。

二死満塁

確かにこの少年向け読み物が好きで何度も繰り返し読んではいたけれど、なぜこの一冊だけを持って家を出たのか、今思い返してもよくわからない。

この読み物の中の一節に、当時の自分を鼓舞する何かがあったのか。

そもそも学校の図書館で借りた本ということは、家出して一人で暮らすと決意したのに、そのまま学校には通うつもりでいたのだろうか。当時の俺よ。

ティーン男子の思い込みというのは、確かに常軌を逸したところがある

その時の自分が考えていたのは、こういう計画だった。多分。

夏場だったから、たくさんの着替えは要らない。大荷物を持ったままうろうろしていると、いかにも家出少年のようで目立ってしまうだろう。

橋の下にいろいろ荷物を置いておくのも、浮浪者みたいでよくない。盗まれたりしたら嫌だし。

あくまでもここに住んでいるのではなくて、誰かに見つかっても河原を散歩しているだけですよと誤魔化したい。

育ての母親は朝9時からパートに出るが、8時くらいに起きて準備するので、それより早く起きることはめったにないと分かっている。

家の合鍵は持って出ているので、早朝にこっそり忍び込んで制服に着替えて学校に行き、学校から帰宅しても夜9時くらいまでは育ての母親が帰って来ないから、その間に風呂に入り、育ての母親が帰って来る前には家を出る。

そして橋の下で寝る。

…要は、一人で生活したいというより、とにかく育ての母親と顔を合わせたくなかった。ただそれだけだった。

じゃあ、メシはどうする?…これについても、考えがあった。

当時、小学校でクラスの垣根を越えて、住んでいる地域別に集まって行う授業というのがあった。

何ヶ月かに一度の頻度で、地域の活動が予定されていて、その中でよくあったのは廃品回収。

「今度の第二日曜日に地域で廃品回収をやるので、それの役割分担を決めましょう。」みたいな時間が設けられていたと思う。

それで実際に、住んでいる地域の各家庭を訪問して、古新聞や古雑誌、空き瓶などの回収を行って、それがいくらかに現金化されて、学校への寄付金の一部になる…というようなことだったと思う。

当時、家の勝手口の前に、茶色いビールの空き瓶が入ったビールケースが積まれているところが多かった。その脇に1リットルのコーラやスプライトやファンタの空き瓶も置かれていることも多く。

ペットボトルになった今では考えられないだろうが、昭和のあの頃、まだコーラやファンタは結構分厚い瓶に入って売られていた。その価格にはデポジットとしての瓶代も含まれていて、配達の酒屋さんとかが回収時に現金に換えてくれる仕組みだったのだ。

たしかビール瓶1本10円、コーラやファンタの1リットル瓶は30円だったと思う。

当時の小学生にとっては30円あったら、駄菓子屋で何かしら買えたから、空き瓶1本が30円になるというのは結構オイシイ。

そこで悪知恵を働かせたガキどもは、「こんにちは〜。小学校の廃品回収に来ました〜。」と言うと、たいていその家の人が、「ああ、じゃあ勝手口の前に空き瓶があるから、それを持ってってもらおうかな。」となる。

「じゃ、空き瓶もらっていきまーす。」と、何人かで手分けしてビールケースなどを運ぶ。

その時に、コーラやファンタの空き瓶は何本か自分たちように隠し持っておくのだ。

ビール瓶は子どもが酒屋に持って行って現金化しようとすると怪しまれるが、近所の菓子店などにコーラの瓶を持って行ってお金に替えてもらうことはよくあることだったから。

そのうち悪いガキたちは、廃品回収じゃない時にも勝手によその家の裏に回り込んで、置いてあるコーラの瓶をくすねるようになり、「これ、10本貯めたら300円じゃん。隠し場所決めて、みんなで持ち寄って貯めておこうぜ。」ということにもなったりしていたのだった。

自分の住んでいたアパートの近くに菓子店があって、そこでもコーラの瓶を引き取ってくれた。その店ではサンドウィッチなども売っていて、それを作る際に切り落としたパンの耳を袋にパンパンに詰めて30円とかで提供してもいた。

貧しかったので自分も時々そこでパンの耳を買ってきて腹を満たすことがあったが、パンの耳に卵焼きやハムの切れっ端も一緒に付いていることもあって、結構美味かったりする。

だから、学校帰りに寄り道をして、ちょいちょいコーラの瓶をくすねて、それを換金する時にパンの耳を買えば、なんとか飢えを凌げるんじゃないかと考えていたわけだ。

今になって振り返ると、全然計画的でもなんでもなく、続くはずがない空想だったのだが、小学生の自分は大マジだったのだ。

ファンタの瓶

家を出て橋の下で寝たその夜。今後、どうしていこうか考えをめぐらした一晩。

ほとんどは現実逃避の妄想で、実現不可能な夢想だったが、まだ小学生の自分の無力さをひしひしと感じた一夜であった。

…にしても夜が長い!

電気もなく真っ暗な中、しかも思ったより冷える。とてもじゃないが、熟睡なんてできない。

見通しの甘さを痛感して、夜明けと同時に元のアパートの前まで戻っていた。

すると、アパートの1階の駐車場に、当時飼っていた芝犬のメリーが繋がれているのを見つけた。

なんとはなしに、その犬のメリーに近づき、ちょっと撫でていたりしたところ、2階からうちの親父が降りて来た。

目が合った時、「やばい。殴られる!」と覚悟して、その場で固まっていた自分だったが。

「おう。お前…どけ、おったとよ?(どこにいたんだ?)」

と、意外にも優しく話しかけてきた親父。

「とりあえず戻らんか。」と、部屋に入るように促す。

その時は、自分が家を出てどうやっていこうということばかり考えていて、自分がいなくなった後に、育ての母や親父がどうするかなんていうところまで考えが及ばなかった。

おそらく夜になっても帰って来なかった自分を心配して、育ての母親はうちの親父に連絡をしたのだろう。

そして、とうとう夜が明けるまで帰って来なかった。

自分が日頃から育ての母親と一緒にいるのを苦痛に感じていることは、さすがの親父もわかっていただろうから、「また、オマエがギャンギャン言うで、アイツが出て行ったんやろが。このまま帰って来んかったら、どげんすっとや!」…と育ての母親を責めて、殴りつけていたのかもしれない。

そこにひょっこり帰って来た自分を二人は責めることはなく、「ま、とりあえず無事だったならいいか。」というようなところで落ち着いた。

心配させてやろうとか、当てつけのつもりは全く無かった

ただ、橋の下にいい場所があって、空き瓶換金で小銭を稼いで…ひょっとしたら、これでやっていけるんじゃね?…と想像していたら、実行に移してみたくなっただけだったのだ。

結局、ひと晩で頓挫した家出だったが、これがきっかけで育ての母親の自分に対する態度も少し軟化したような気がしたし、自分も「やはりまだ一人では生きていけないのだ。」ということを痛感して、お互い少し歩み寄るようになったのではないかと思っている。

中学高校とこの後成長していく前の、まだ無邪気さがあった頃の最後の抵抗だった。

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