1993年、ブラジルへ。(南米放浪記①)
1992年の前期を終えたところで、大学を中退することにした。
91年度も前期を終えたところで休学を申し出て、2度目の1年生。「2浪したと思って…。」と、やり直すつもりだったが、前年と同じように授業を受けられなくなってしまい、結局取得単位ゼロ。
主な理由は「梅雨時の新聞配達の遅れ」。
高校卒業後すると、地元の鹿児島を離れて上京。
とにかく貧乏だったので、本来なら大学進学なんて無理な話だった。
しかし当時は「新聞奨学生制度」という、貧乏学生しかも田舎の出身者にはほぼこれ一択という救済制度があったので、迷わずそれに応募。
地元での説明会に参加し、上京後は新聞販売店に住み込みで朝夕刊を配達することを約束すると、上京の日時から勤務先の斡旋まで新聞社のほうで面倒をみてくれて、まるで集団就職のようなかたちで東京に出て来たのだった。
新聞配達時代のエピソードは別の機会に書くことにして、ここではなぜそれが大学を辞める理由になったのかということについて述べる。
それは、大学が夜間学部(二部)だったから。
雨の日の新聞配達は、新聞が濡れないようにビニール袋に入れる手間がかかるため、通常よりもかなり時間がかかってしまう。
18時から2コマ授業がある夜間学部で、最初のうちはなんとか授業に間に合っていたのだが、梅雨のシーズンになるとどうしても間に合わなくなってしまった。それで試験も受けられず、単位も取れず。
同じことを2年繰り返して、すっかり心が折れた当時の自分はこう思った。
「あー…どっか遠いとこ行こうかなあ。」
正直言って、単にヤケになってました。
東京での大学生活を満喫する気満々だったのに、それも叶わず。新聞配達を続けている間は、学費は新聞社が肩代わりしてくれることになっていたけれども、月の給料は家賃と食費を引かれて手取り8万。それも日曜など休日返上で集金業務もこなした場合(普通は学生は学校優先するから、集金は免除されることが多かった)。なので、日々の生活で金銭的に余裕があったわけでもなく、貯金もまったくしていなかった。
新聞配達やめるイコール、住むところと学生という身分と生活費を稼ぐ仕事を同時に失うことになるわけで、どう考えても明るい未来など想像できなかったので。ただただやけくそになっていた。
「もうブラジル行ってのたれ死んでやろう」と。
そして翌年の6月、あのまま新聞奨学生を続けていれば、雨合羽を着て自転車を漕ぎ、都会の路地裏を走り回っていたはずの自分は、地球の真反対のブラジルの地を踏んでいたのだった。
大韓航空機に乗ってロサンゼルスまで10時間。トランジットのため空港でただ待つだけの5時間。そしてさらにサンパウロまで10時間ぐらいかかったんじゃないかな。
当時は航空券も高くて、プラジルまでの往復1年オープンで20万円ぐらい。
正式な留学とかではないので、観光ビザを取って行った。帰りのチケットを持ってないと入国できないので、最初にオープンの往復チケットを買っておかなければならなかった。
幸か不幸か、大学をやめる時に前期が終わった時点で中退を申し出て、後期の学費を払い込む前だった。新聞配達はその年の年度末まで務めたから、1年分の学費は支給される。なので、後期の学費分…たしか25万円ぐらいが手元に残るので、それで航空券は買えたわけだった。
今考えても、なぜブラジルだったのだろう。それまで縁もゆかりもない異国へ、独りで旅立つ気になったのか、よくわからない。
確かに当時、大学で(授業には間に合わなかったのに)「ラテンアメリカ協会」という音楽サークルによく出入りしていた。それで南米に対する興味が強くなっていったというのもあるが、あくまでそれはサンバやボサノバといった音楽への興味だったはず。
最初の動機は「どうせ行くなら一番遠いとこに行こうかな〜。」と、いつもの現実逃避で妄想していただけだったのだが、そういう気になってから動き出してみたら、いろいろな偶然も重なって、あれよあれよとブラジル行きのルートが現実味を帯びていった。
その頃イメージしていたのは、「ブラジルで1年間コーヒー農園とかで働いて、いよいよおとずれるカーニバルで我を忘れて踊り狂ったら、今までの鬱屈した気持ちが吹き飛んで、人生観変わるんやないやろか。」…そんな自分の姿。
当時、毎週月曜の朝に「ビッグコミックスピリッツ」を買って読むのを楽しみにしていたのだが、その頃の「スピリッツ」に、いわしげ孝先生の「ジパング少年」という漫画作品が連載されていて、好きで読んで単行本も買い集めていた。(いわしげ孝先生が同郷鹿児島の出身だということは、のちに知った)
その作品の主人公が、閉塞感を強く感じる日本の状況に不満を抱いて、南米ペルーに渡ってガリンペイロ(金鉱採掘人)になるというストーリーだったのだが、多分にそれに影響を受けたところもあった。
別に一攫千金を狙って海を渡ったわけではなかったけれども。いちおうそれなりの夢も持てたというか。
なんとなくのイメージとして「ブラジルって発展途上国というより、むしろ未来に行ってるんじゃね?」という予想があった。当時はレトロフューチャーという言葉も知らなかったが、「ただ未開なのではなくて、人類の文明が行き着いた先の、いったん崩壊して再び復興した近未来」の状況を体験できるのではないかとも思って、なぜかワクワクしていたのだった。
そんな一方的な思い込みが熱を帯びて、ブラジルに行く手段を模索する日々。そんなある日、市ヶ谷の古いマンションの怪しげな一室のドアを叩くに至る。
ドアチャイムの横に掲げられていたのは、古い木の板に墨文字で書かれた漢字だらけの看板。60年代の学生運動の極左組織のような不穏なその団体名が記されていた。
「日本学生海外移住連盟」
…うーむ、あやしい。
(つづく)
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