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半生記をつけてみる。


今年で50歳になるのかと思うと感慨深いようで。

生まれ年から始まる100年カレンダー」というのを、Amazonで見つけてポチッてみました。

A1よりも大きな1枚サイズに、1年12ヵ月のカレンダーを縮小したものが100個並べられたポスターを壁に貼って眺め、「もう、この半分まで生きてきたのか…。」と思うと、何か取り返しのつかない事をしてしまったかのようで、しばし呆然としてしまいました。

「そして、ここからあと半分!」…とは思えないです、さすがに。

2070年なんて遠い先のことなのはもちろん、そもそも100歳まで生きれるわけがない。

でも、こうやって可視化することで、あらためて1日1日の積み重ねで、ここまで生きてこれたんだな〜という実感が湧いたのも確かです。

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この100年カレンダーを眺めながら、「あの時どうしてたんだっけな。」「あれって、何年の出来事だったっけな。」と思い返しているうちに、いろいろな記憶が呼び起こされてもきました。

そこで、「chroniclize」という自分史を作成するiphoneのアプリをインストールしてみて、自分の過去の出来事でなるべく正確な年月日がわかるものから記入し始めてみました。

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まめに日記をつける習慣などなかったものですから、自分の事とはいえ、それがいつのことだったのかなんていうのは、あんまり憶えていないものです。

まずは学校の卒業アルバムなどをめくると、履歴書に記入するような大まかな自分の経歴は辿れます。

社会人になって以降は、毎年のように参加していたロックフェスなどの大きなイベントについて検索すれば、「あ、この年は『サマーソニック』行った。」とか「『ロック・イン・ジャパン』行ったのは、この年とこの年と…。」というのが調べられて、そういうのを記入してくうちに、だんだんその前後の記憶も明らかになってきました。

あとは写真のデータを整理していけば、もう少し細かい日常のことも思い出せるのかもしれませんが、これには時間がかかりそうです。

とはいえ、「人間五十年」…戦乱の世なら舞のひとつも舞わなければならないくらいの年月を経て、それが時がただ無為に流れていっただけとは思いたくないという気持ちも芽生えてきたのは確かです。

早くも終活を始め出してしまった感じがしなくもないですが。

今回この「note」というプラットフォームを利用し始めるにあたって、半生記…というと大仰ですが、ここで自分語りをしてみてもいいのかなと思いました。

以前、日々の備忘録のつもりで、数年間ブログを付けていたこともありましたが、いつのまにかやめてしまいました。

ブログというのは、有名人など興味の持てる対象となる人の日常が垣間見えるから、そこにアクセスすることが楽しいメディアであって、名もなき一般人が誰にも読まれていないところで、退屈な日常を記録していても虚しい気分になるばかりでした。

noteに書く場所を移したところで、同じことになってしまうかもしれませんが、「記事単位で投げ銭の機能をつけられる」というのをモチベーションにして、ひとつひとつが読み物として成立する文章を書くことを心がけたいと思っています。

「名もなきおっさんの半生記を誰が読みたいねん!」と思われるのは仕方ないのですが、今後のダイジェスト的に自分の半生のトピックを少し挙げてみますと…。

・父親がヤクザで、彼が17歳の時にできてしまった子が自分である。

・その父親が塀の向こう側でしばらく過ごしている間に、産みの母は幼き我が子を捨てて逃げ、その後親戚をたらい回しにされ、その間に「今でいうとあれは虐待だったな。」と思える仕打ちを受けた幼少期。

・塀の外側に出た父が次に深い仲となった女性が、血の繋がりのない子供の育ての親となり、その後ほぼ二人暮らしの極貧の少年時代。

・その父親が亡くなった時に帰省した際、葬儀場に駆けつけてみると、半分親族でもう半分は任侠界の方々が参列している「組葬」だった。

・高校卒業後は、住み込みで毎日新聞配達をやる代わりに食事が与えられるという新聞奨学生という制度を利用して上京。

・一浪の末に志望大学に入学するも夜間学部だったため、梅雨どきの夕刊配達は時間がかかり、授業に間に合わず単位取得ゼロ。休学・留年・中退

・バブル期にも貧乏生活は変わらず。憧れの大学生ライフもままならず、新聞配達を辞めると、中退後の半期の学費分が浮いたので、それで航空券を買って単身ブラジルへ渡る。約10ヶ月の南米放浪生活

・帰国後、海外経験があることが決めてとなって採用された夏休みの短期アルバイトで、イベントスタッフとしてロシアのハバロフスクへ行く。旧共産圏の不合理さに阻まれイベントは中止。2ヵ月の予定がひと月で帰国。

・数々のアルバイトを経て、Macを使用した仕事を探し印刷・製版業界へ。零細会社を転々としたのち、派遣社員として大手印刷会社に勤務。

・30代後半から、突然趣味としてサーフィンを始める。サーファーとしてのライフスタイルに憧れるも、もともとが文化系の気質のため苦戦。

・TBSラジオ「菊地成孔の粋な夜電波」を聞いて面白さにハマり、毎週トークの一部を文字起こしする作業を始める。番組終了まで継続。

・菊地成孔氏が講師として音楽理論を教える映画美学校の講座を受講。以降、氏の私塾「ペンギン音楽大学」に籍を移し、音楽の学びは継続。

そんなこんなで現在に至るわけですが、あらためて列記し、その文字づらだけ見ると、なかなか壮絶な人生…のような気もします。

しかし、「数多の苦労を乗り越えて大人物に…」なったわけでもないので、誰にも興味を持たれないまま終わっていく人生なのかもしれません。

とりあえず、少し人とは違った生い立ちも含め、話のネタになるトピックはいくつかあるので、順不同にはなりますが、今後思い出したところから書き起こして記事にしていきたいと思っています。

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