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時給370円で他人の子を育てる。

当時自分が住んでいたところに近い風景の写真として、
YouTubeの「猫鉄動楽」さんの動画を見つけたので、それをスクショして使用させてもらいました。
https://www.youtube.com/watch?v=ctPN_1w8UBY

無事刑期を終えて、後妻を娶り、息子の小学校入学を期に、新たに定職に就き、新居で心機一転、新生活を始める……とはならなかった我が実父。

連れてこられた鹿児島市内のあのアパートに、和気藹々の親子3人暮らしの思い出は無い。ということは、うちの親父は自分をその「新しいお母さん」に預けると早々に、他所に別のオンナを作ってそっちで生活し始めたのだろう。

どうしてあんな状況になったのか、大人になった自分が今考えても、不思議でならないのだが、小学校から高校卒業まで自分を女手ひとつで育ててくれることになったあの女性は、結局うちの父親と入籍すらしていなかったのだ。

男の連れ子を育てる決意をさせるというからには、相当惚れさせたのだから、これぞジゴロの面目躍如といったところだったのかもしれないが、まずは仕事に就いて入籍して、それから預けていた子供を引き取りに来るという流れでないとおかしいと思うのだけど。

しかも、その育ての母は、それまで勤めていた役場の仕事…田舎では安定した堅い職業なのに、それを辞めてまでうちの親父と一緒になることを選んだのだ。確かに噂のすぐ広まる田舎町だから「あん人は前科者と一緒になって…。」と言われるようになっては、役所勤めは難しかっただろう。

それまであまり男性との交際経験が無かった(多分)、真面目な公務員が、おそらく戸籍課でハンサムだがどこかワルの匂いのする男に話しかけられ、地元が近いという話題で盛り上がり、そこから誘われるがままに深い仲となり…気付けば男の連れ子の面倒を見させられ、他の女にうつつを抜かしてはいるが、いつかは自分の元に帰って来てくれると信じて待ち続ける女。

雑にまとめてしまうと、絵に描いたような転落劇。それだけ情念の深い人だったのだろう。

堅い役場の仕事を辞め、かといって男は定職にもつかずフラフラしている。最初の頃は男から言われるがままに、夜の仕事にも就いてみたが、元々が水商売には向かない性分。

近所の「小僧寿し」で働き始める。

水商売に比べれば稼ぎは少ないが自分には向いている。しかし当時の鹿児島の最低賃金に近い時給で、自分一人ならまだしも小学校に通い始めた子供を抱えている。当然、生活は貧しくなる。男は女に働かせてその稼ぎをピンハネする典型的なヒモだったから、水商売を諦めて金も持たない女には用は無い。もっと若くて稼ぎのいい女を捕まえてしまえば、ますますその女の元には寄り付かなくなる。

…こういう悪循環が起きていたのだろうと、今では想像がつく。


3人で家庭を築くことを夢見たそのアパートは、実質母と子の二人暮らし。

母は時給370円(ぐらい)で朝から晩まで立ち仕事をつとめ、爪に火を灯すような家計のやりくりで、息子の学費やらを捻出する。

貧しい思いはさせたが、なんとか高校を卒業するまで育て上げた。

…こうまとめると、同情を誘う苦労話のように聞こえませんか。

ましてや、その息子は自分の実の子では無いのです。

なんとできた母親!…さぞかし息子はその継母に感謝し、大人になったら楽させてやりたいと孝行するようになった……ら、美談にもなったでしょう。


ところが、そうはならなかった。

その情念の深さこそがゆえに、女は陰険な性格になっていった。生活に余裕が無さ過ぎたがゆえに、吝嗇で狭量で嫌味な女になっていった。

「一緒になるって言ったから、私は安定していた役場の仕事も辞めた。3人で家庭を築くと思っていたから、私はあなたの息子の母になると決意した…なのに、なぜ?他所の女のところで暮らし、我が息子を押し付けたまま帰って来ない?」

…我が身に起きた不幸を呪う気持ちはわからんでもない。しかし、その呪いはすべて幼い自分に向いたのだった。

「自分が必死で働いても、このタダ飯喰らいがいる限り、ちっとも生活は楽にならない。」

「やれ制服だノートだ鉛筆だ給食費だと、とにかく金が掛かる。」

「腹を痛めた我が子でもないのに、こいつのためになぜ私がこんなに苦労しなくてはいけないのか。」

「それでもこいつを手元に置いておく限り、たまにだがあの人はここへ帰って来る。こいつを育てることを放棄したら、本当に私はあの人に捨てられてしまう。」

「だが生活は苦しい。私が洋服一枚買わずに我慢しているのに、こいつは新しく買ってやったシャツを泥だらけにして帰って来やがった。」

「こんなものでも食べられるだけありがたいというのに、こいつは何だ?明らかに不味そうな顔して食いやがって。ありがたいと思わないのか。」

「小学校で楽しく遊んでついつい帰りが遅くなったじゃねえよ。その間、私は必死で働いているんだ。早めに帰って来て掃除とか洗濯とかお手伝いしますという気持ちがないのか。」

「誰のおかげで飯が食えてると思ってる?…子供とはいえ、こいつは私に対する感謝が足りない。」

「なぜ私をねぎらうことができない。お母さんいつもありがとうの一言がなぜ言えない。」

…おそらくこんな思いを抱えて毎日過ごしていたのだろう。

彼女の立場になって考えれば、そう思うのも当然のことかもしれない。

しかし、自分にしてみれば…「そんなこと言われたって!」という、ただただ理不尽な難癖を付けていびられ続けているだけだった。

掃除、洗濯もやってないと怒られるからなるべくやっておくようにした。

貧相な食事、子供の口に合うはずがない物も文句を言わずにしぶしぶ食べ続けた。残すと怒られるから頑張って口の中に押し込んだ。

100円もらうにも気を遣った。「ノートを買うので。消しゴムを買うので。」…それを言い出すタイミング次第ではヒステリーを起こされるので、相手の顔色を常に窺ってビクビクしていた。

とにかく「何だ、その態度は。何だ、その不貞腐れた顔は。」と絡まれた。こっちにはそんなつもりがなくても、八つ当たりされるがままに甘んじた。

暴力も受けた。やがて成長して力ではかなわなくなるまで体罰は続いた。

一晩中嫌味を言われ続けた。眠くてウトウトすると「人が説教してるのに、何を寝てるんだ!」と眠ることさえ許されなかった。

こっちがやめていいと言うまで、体操を続けさせられた。


確かにうちの親父は酷い。我が子の面倒を他人のあなたに押し付けて。家に金も入れない。むしろたまに来てはせびり取ってゆく。大変だと思う。貧乏も仕方ない。でも…この状況は自分が望んでこうなったわけではないんだ。

俺はあんたに育ててくれなんて頼んでない。

12年間暮らしたあの国道3号線沿いの安アパートに、いい思い出はひとつも無い。

自分にとっては地獄のような日々だった。


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