「学移連」とは。(南米放浪記②)
三島由紀夫が割腹自殺した現場として有名な陸上自衛隊の市ヶ谷駐屯地。道路を挟んでその向かい側にある、当時ですでに築40年以上は経っていたと思われる古い雑居ビルの6階だか7階だかに、その怪しい事務所はあった。
「日本学生海外移住連盟」と墨文字で書かれた木の看板が、塗料の剥げかけたスチールドアの横に掲げてある。
ブラジルに行こうと思い立ってから、何か伝手を探して手探りで動いているうちに、この組織のことを知るに至った。
おそらく最初は海外青年協力隊について調べようと思い、その問い合わせ先に電話をしたんだと思う。
そこで「いや、旅行じゃなくてしばらく向こうで生活したいんです。」という話をしたら、「学生でしたら、学生だけで運営して、南米を中心に現地に実習生を送り出している団体がありますので、そちらに相談されたらいかがでしょうか。」みたいな紹介を受けたのだった。
行く前にアポを取っていたのかな…当時の記憶が定かではないが、おそらく電話したときに「交流会のようなパーティーをちょうど近々開く予定なので、その時にぜひ参加してみてください。」と案内されて出向いたのだと思う。
恐る恐る訪ねていったものの、いざ連盟室の中に招かれたら、なにしろ学生だけで運営していたので、同世代の人たちが気軽にお喋りしているところへ歓迎されて、すぐに緊張も溶けたのだった。
聞けばこの通称「学移連」と呼ばれる団体の歴史は古く、1920年代から主に農業移民として集団でブラジルにわたった日系移民の社会があり、その研究と交流を行なっているという。
当時は外務省からも一部支援を受けていて、基本的にはOBである東京農大の元教授が私財をなげうって活動をサポートしているという…「なんだ。意外とちゃんとした団体じゃないか」。
その場には、ちょうど昨年ブラジルで1年間の実習生活をして帰国したというOBの方も数人いて、いろいろ体験談も聞かせてもらえた。
特に、その後長年の友人となる、当時の連盟の委員長だったナカジマ君に初めてそこで会い、意気投合したのが大きかった。
それからは、単に友人のナカジマ君の家に遊びに行くような気軽な感覚で、頻繁に市ヶ谷の事務所に出入りするようになった。
そして、大学は中退したので連盟の予算から渡航費の補助を受けての正規の実習生としては無理だが、その実習生と同じようなスケジュールで手続きを踏んで、現地の移民のOBとアポを取り、一緒に渡伯するのがいいんじゃないかということになった。
選ばれればほぼ無料で海外に行けて、現地で1年間生活できるということで、実習生への応募は多数いた。その頃の若者の間で海外留学への気運が高まっていた時代だったのだ。
正規の実習生は1年間の留学ビザを申請し、現地のコーヒー農園を経営する学移連OBの元で農業実習を体験したり、日本語教師として現地の学校に赴任したり、日系人社会の中で読まれている新聞を発行する日本語新聞社で取材記者となったりすることが決まっていた。
自分の場合は「とりあえず観光ビザで行くけれども、現地で生活できるならどんな仕事でもやります。」という手紙を、学移連OBで受け入れ実績のある現地での成功者に宛てて書いてアポを取り、その人を訪ねて行くのがいいとアドバイスされた。
そしてブラジルでも北東部、アフリカの対岸の黒人が主に多い地域、アラゴアス州マセイオという街で観光ホテルを経営しているというT氏を紹介してもらった。出身大学OBにもあたるので、受け入れてもらいやすいのでは…ということだった。
大学生のキャンパスライフを断念し、新聞配達の日々に嫌気がさし、「どうせなら日本から一番遠くの国に行ってのたれ死んでやろう。」ぐらいのやけくそな気持ちで行動を起こした自分だったが、ひょんな出会いから、あれよあれよという間に、ブラジルに行くルートが現実味を帯びたのである。
ブラジルの国土は日本と比べて途方もなく広い。滞在する場所によって、生活環境も文化も大きく異なるわけなのだが、偶然にも自分が行くことになったのが、サンパウロやリオなどの南部の都市やアマゾン流域などではなく、北東部の街マセイオだったというところに、今となっては何かしら運命的なものを感じる。
ブラジルでの滞在先の目処が立つその直前、たまたまジャケ買いしたCD…その音楽にどっぷりハマっていたのだ。
それは「バイーア・ブラック(BAHIA BLACK)」…まさにこの年、1992年にリリースされた。
「リチュアル・ビーディング・システム」という名義になっているが、アメリカのジャズベーシストであるビル・ラズウェルが中心となって、ブラジルのバイーア州のミュージシャンを起用して作られたコンピレーション・アルバムだ。
CDを再生すると、まずはボサノヴァ調のギターの弾き語りにオルガンが重なる、月明かりの夜のムードを漂わせる1分半の美しい曲で静かに始まり、2曲目に一転してアフロパーカッションのグルーヴィーなリズムにラップ調の歌が耳に飛び込んでくる。鮮烈な印象を残す冒頭の2曲を含め、このアルバムで大きくフィーチャーされたのがカルリーニョス・ブラウン。「ブラジル現代音楽(MPB)の父」ともいえる存在のカエターノ・ヴェローゾに起用されたりと高く評価されてはいたものの、当時まだそんなに有名ではなかった彼の名を一躍世界に轟かせたのはこの作品だった。
そして翌1993年にブラジル国内でヒットを連発した「チンバラーダ」は、カルリーニョス・ブラウンがリーダーとなって結成されたパーカッション集団だ。
さらにこのアルバムでは、サルヴァドールのパーカッション集団「オロドゥン」も3曲取り上げられており(マイケル・ジャクソンの「They Don't Care About Us」のPVで世界的に有名になる、まだ以前)、すでにブラジルに渡る前の段階で、南部のサンバやボサノヴァと違ってアフロ色の強いリズムが特長のバイーア音楽をすでに自分は耳にしていたことになる。
これらの曲を聴きながら、「ブラジルといえばリオのカーニヴァルが有名だけど、観光地化されて世界中の金持ちがパレードを眺めに来るようなリオより、もっと土着化した祭りのようなサルヴァドールのカーニヴァルを体験したいな。」という気持ちが沸々とわき上がっていた。
そして実際その1年後、自分はサルヴァドールのカルナヴァルで、ブロッコ(※)のチンバラーダを追っかけて一晩中踊り狂うことになるのだった。
(※巨大スピーカーを積み込み、天辺に歌手やバンドを乗せた大型バスのような山車が、アシェ(ノリノリのバイアミュージック)を大音響で歌い踊りながらサルバドール市街地(セントロ)のバス通りを5時間くらい掛けて練り歩く、地方独特の祭り)
さらに自分が約半年生活したマセイオという町は、世界的にも有名なブラジルのシンガーソングライター「ジャヴァン(Djavan)」の出身地である。
ちなみに長年一貫して名乗っている自分のハンドルネームは「ぢゃぽん(djapon)」と言います。
…はっ! 頭に「D」が付いている!(まるで「ONE PIECE」の謎のよう?)
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