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終業式:姫野カオルコ:紙という神

「終業式」(46/2022年)

この2022年に手紙、つまり紙という物質に手で文字を書くという行為で出来上がるもので構築された(一部FAXもありますが)恋愛小説を読みました。時代は1970年代から2000年頃まで、メールが私信で使われることが多くなるまでの設定です。

1対1の文字によるメッセージの交換方法ですが、表現方法は紙に手書き、紙にワープロ(古っ)等でプリント、電子メール、そしてメッセンジャー系へと、伝達手段は郵送、FAX、そして電子(って言葉も懐かしい)へと進化してきました。入力方法に関しては、未だに手を使うことが多いと思います。音声で入力しを文字に変換させる方法もありますがまだマイナーでしょう。

手書きとそれ以降の一番大きな差異はなんだろう、と徒然に考えていました。
・漢字を探す手間が省ける。
これは日本とか中国特有の事象なので、一旦外すとなると。
・手書きよりもタイピングの方が疲れない。
・修正が容易。
この2つなのでしょうか。
いや、まだあります。
・破棄する際の「映え」。
どうですか、これ。これはこの小説を読んで思いついたものです。手書きの場合は書いた紙を捨てるという物理的に大袈裟な行為が確実に入ります。ワープロでもプリントアウトしてしまえば同じかもしれませんが、正確には破棄ではありません、データが残っているから。手書き以外の場合はデータの削除という行為が本質的には必要です。

「映え」です。ここがポイントです。「書いて捨てる」という一連の行為が非常に大事なんじゃないでしょうか。一種の儀式ですよね。紙という神と別れる、ある時は神を切り裂く、またある時は燃やしてしまう…なんということでしょう。
紙は神と考えると、わざわざプリントアウトしないと確認出来ないという言い分にも説得力が増すかと。やっぱ神と対面した上で判断したいですし、神を前にすると気合が入るという「ご利益」もあります。

とか書きながら、この作品はKindleで読みました。Kindleだったからこそ、深く感じたのかもしれません。良い読書をしました。

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