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今。ここ。

なんだかんだ言っても、

一定の時間が経つと「うつ」から抜けられる

こともある。という真実に感謝。

今、不思議に前向きな気分で、こういう時には
もったいぶらずに前向きな記事を書こうと思う。


アルコール依存症と双極性障害(躁うつ病)。

この2つの病気と、おそらく私は生涯にわたって
付き合っていかねばならない。

しかし、それでもなお、私には、私なりにちゃんと
生きていく道があるのだと、改めて思った。

病人は病人のまま幸せになればよい。

病気が治るならそれでよいし、治らないならそれでもよい。
取り戻すべき過去もなければ、達成しなければならない未来もない。
「今」の自分が、「今」の現実と折り合いをつけていく。
それが「仕合わせ(しあわせ)」。

仏教関係の本からの受け売りだが、とても良い考え方だと思う。


「一人前の大人」だとか「立派な父親」だとか「優れた治療家」
だとか、
そういうものに、ずっとずっとなりたかったし、
今も心のどこかでそう思っている。

病気を克服して、失った過去を取り戻して、
世間に胸を張れる未来をつかまねばならないと、
ずっと思ってきたし、
いまだにそういう考えを捨てられずにいる。

しかし。
そう強く思えば思うほど、
「今」をおろそかにしてしまうのだと、気が付いた。

大事なのは「今」であって、過去でも未来でもない。
大切なのは「今」の自分であって、
過去の自分でも未来の自分でもない。

トリモドス? そういうのは選挙の時にでも言いなシンゾー。
ジコジツゲン? そんなバーガーはこの店には置いてないぜヨシヒデ。

「孤独」と「孤立」

人は「孤独」でも生きていけるが、
「孤立」には決して耐えられない。

以前、たまたま目に留まったテレビCMの一節だったと思う。

このCMに出会うまで、
私にとって「孤独」と「孤立」はほぼ同義であった。

しかし、考えてみると、この2つは決定的に違う。

「孤独」というのは、「独り」という意味だ。
そのまんまの意味。

そして、「孤立」というのは、
「自分に関わる全ての関係性が絶たれた状態」
のことである。

精神的・社会的人間関係だけでなく、
モノを売買するといった経済関係を結ぶ相手もいない。
今の日本では「あって当たり前」な水や空気も栄養も
与えられない。
それが「孤立」である。

話は少しそれるが、「100人の地球村」(賛否両論ある話ですが)
という話がある。

これになぞらえて自分の境遇を見直してみると、
私はこれまで「孤独」を感じたことはあっても、
決して「孤立」したことはなかった。

自分を思ってくれる家族や友人・仲間がいて。
呼吸できる新鮮な空気と飲料に適した水は、
ほぼ無償で手に入り。
飢えた経験もなく。
教育も医療も受けられる。

だから私はまだ生きられる!
というふうにシンプルに思えないのは残念だが、
今の私にとって、私の病気はキツくても耐えていける。

今まで思い描いていたような「幸せな人生」ではないが、
生きる道はちゃんとある。

どういうご縁で、こういう時代に、こういう国に生まれて、
こういう病気になったのかは分からないが
(別にもう分かんなくてもいいし)、
一つだけハッキリと分かったことがある。

その「ご縁」を自分から断ち切ってはならないということだ。

向こう様から断ち切られるのは、
これは自分ではどうしようもないが、
「自分から」は絶対に駄目だ。
要するに自殺したら駄目なのだ。

そこだけは、キチッと腹をくくれってことだ。

それができれば、とりあえずは生きてていいんじゃないの?

有り難い有り難いってニコニコして。
困った困ったってオロオロして。
やだなーやだなーってグズグズして。

そうやって「今」「ここ」だけに向き合って、
生きていけばいいんじゃないのかと、思ったのであった。

おしまい。

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