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88 高杉晋作 ~生きる・活かす~


はじめに

今日は、高杉晋作という人物にちなんだお話をしたいと思います。第二次長州征伐では、幕府軍を破った人でも有名なわけですが、この人物の人生は、まさに太く短くを体現したものです。今回の教育コラムでは二つの言葉を主に紹介しながらその考え方についてみていきたいと思います。

高杉晋作

高杉晋作は私が尊敬する人物の一人です。
晋作は、1839年~1867年に生きた人物で、皆さんもよく御存じかと思います。江戸時代末期の長州藩士であり、尊王攘夷の志士として活躍した人物であります。有名な話と言えば、奇兵隊を創設し、長州藩を倒幕に方向付けた業績が思い浮かぶのではないでしょうか。
高杉晋作は、長州藩士の長男として生まれました。1857年に吉田松陰の松下村塾に入塾します。翌年、藩からの命に従い江戸で学びます。1859年には、師の松陰が安政の大獄で処刑されてしまいます。命を懸けた松陰のこの行動は、晋作の人生を大きく揺さぶることとなりました。

尊王攘夷

その後、1860年に帰郷し、結婚をします。晋作二十一歳の年の頃です。2年後の1862年に幕府使節随行員として中国の上海へ渡航します。そこで、清が欧米の植民地となりつつある状況を目にして大きな影響を受けます。
帰国後、長州藩では尊王攘夷派が台頭していました。晋作も桂小五郎や松下村塾の双璧とうたわれた久坂玄瑞たちと共に尊攘運動に参加しました。

下関戦争

1863年、長州藩は関門海峡において外国船砲撃を行います。しかし、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国の圧倒的な軍事力による報復にあい惨敗します。これが、世に言う下関戦争です。この時、下関の防衛を任せられた高杉晋作は、百姓・町人など身分に関係なく志願兵による組織を結成しました。これが、奇兵隊の始まりです。

禁門の変から長州征伐へ

同時期に京都では、薩摩藩と会津藩が結託して長州藩を追放しようと動き出します。脱藩して京都へ潜伏した晋作は、脱藩の罪で野山獄に投獄されてしまいます。その後、長州藩は「禁門の変」で敗北し、朝敵となってしまいます。高杉晋作は、再度の長州征討に備えて、防衛態勢の強化を進めました。
そして、1866年には、坂本龍馬らを仲介として、木戸孝允、西郷隆盛の会談により、薩長同盟が結ばれるのです。晋作は、1866年の第二次長州征伐では海軍総督として軍艦に乗り込み、幕府艦隊を夜襲してこれを退けます。第二次長州征伐における幕府の敗北により、幕府の権威は大きく失墜し、翌年の大政奉還への大きな転換点となったのです。
その後、晋作は、肺結核のため療養生活を余儀なくされ、1867年に大政奉還を見ずして二十九歳という短い人生を終えます。

壮絶な人生の中で残した言葉

簡単に高杉晋作の人生を振り返ってみても、「壮絶」という言葉が浮かびます。そんな、尋常ならざる人生の中で、晋作はたくさんの言葉を残しています。次に紹介する2つはそのごく一部です。
 
「茫然と生きてきたことが今となっては恥ずかしい。静かに座って慎んで将来を考える。そんな時に本を読んでみる。すると国に尽くす心が消えていないことが分かった。」
 「これぐらいたいしたものではないと心で唱える。難しくて我慢できないことをこの方法で乗り切る。これは自分の中の神を見つめる心を研ぐ方法である。」
 彼の人生を想起しながら、1つ目の言葉に思いを巡らせてみましょう。すると生きることに対する真剣さが伝わってくるのではないでしょうか。
必死に生き抜いて尚、自らの生き方を考えるといったこの真剣さから、妥協を許さない人生の一つのありようを学ぶことができます。
自分の志に妥協をしないことはとても難しいことです。事実、私自身、何度も自分の志を見失いかけてきた経験があります。
2つ目の言葉からは、その志を活かす術を学ぶことができます。「自分の中の神」とは、信念または「志」だと言えるでしょう。私は、それを高めるためには、簡単に音を上げては駄目だと言っているように思えます。

27年の人生

高杉晋作に憧れているうちに、私自身、晋作の亡くなった年をあっという間に超えていました。
一度きりの人生です。長い短いでは語れない「人生の濃さ」を量ってみることも時には大切ではないでしょうか。人生の濃さは、今の自分には何ができるのか、何をしなければならないのか、なぜそのことをしているのかを考えることで見えてくるように思います。
そうすることで、高杉晋作のように必死に生き、培った自らの力を必死に活かすことのできる人物になれるように思います。子どもたちは、中学、高校、大学、社会人と次第に大海に臨んでいきます。

避けて通れぬ己の人生をどう歩むか、皆さんは生き方を日々、問われているのではないでしょうか。

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