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118 高田の桜とあんまん


はじめに

先日、書棚に置いてあった本を一冊、プレゼントしました。今の私には必要のない本でしたが、手渡すことにした彼には必要な本でした。少し道に迷い、足踏みしていた彼ですが、無事にこの冬大学を卒業できそうです。
今日の教育コラムは、彼に手渡した本というよりもその本に挟まっていた別の彼が作ってくれた「しおり」にまつわるお話を少ししたいと思います。

夜桜

その「しおり」には、桜の花びらがパウチされていました。花びらは、高田と呼ばれる新潟県にある桜の名所のものです。高田の夜桜は、日本三大夜桜の一つに数えられるほど見事なものです。なかでも高田城址公園のロケーションは最高です。ちなみに、高田城址公園は今話題の「どうする家康?」で人気の徳川家康の六男であった、松平忠輝公の居城として築かれた高田城の跡地に整備された公園で、広くのびている堀の周辺には、約4,000本の桜が咲き誇っています。雪深い越後の春の風物詩と言えます。

夜桜舞て日は登る

本を手渡した彼には、「しおり」も一緒に渡すことにしました。その際、このしおりに関する思い出話しをしました。
思い出話は、5年ほど前のある日届いた一枚の手紙から始まります。手紙が届いたのは、年度末の時期で、この時期は卒業させた多くの子どもたちから、卒業や進学先の決定を知らせてくれる手紙や「来年もう一度挑戦」するという決意が込められた報告の手紙をたくさんいただきます。ですから、自宅に帰り手紙が何通か目に入ると少しどんな内容か気になり緊張します。
しかし、その日届いた手紙は違いました。なんと文面には「父親になりました。」「息子ができたのでお知らせします。」と書かれていたのです。そして、最後の一行には、「先生の言う通りでした。」「高田の夜桜にもう一度、連れてってください。」と書かれていたのです。封筒の底の方には、「桜の押し花で作ったしおり」が入っていたのです。

少年と私と友人

ある若き日のことです。私のクラスには、生まれつき両足の自由が効かず、車いすで一日過ごす男の子がいました。であった頃は、着替えもトイレもいつも遠慮しながら、「先生お願いします。」と言うものですから、「遠慮するなよ。」といつも笑いながら怒っていました。
周りの子どもたちもよく理解していて、色々な面で彼を支えてくれていました。彼と共にした時間はそれはそれは長かったことをよく覚えています。プールも背中に乗せて一緒に泳ぎましたし、運動会は二人三脚以外は、鼓笛隊まで全部一緒に取り組みました。
登山の時は、専用の器具を使って背中に担いで登り、一緒に崖から落ちそうにもなりました。そうこうしている内に、「先生やって。」と何でも気軽に頼んでくれるようになった事を今でもよく覚えています。
当時の私は、「何でもみんなと同じようにやらせてやりたい。」という考え方が基本にありましたので、車いすのまま進めなさそうな学校中の段差をドリル片手に手作りの登り板で全て埋めていったほどです。

自分で拾った桜の花

私が、別の学校に転属するためにその学校を去る年のことです。私の担当したクラスの子どもたちも卒業の年でした。その年は、例年よりも雪が少なく、4月まで10日ほど残しているにもかかわらず桜が咲き始めていました。そこで、学校のあった地域からさほど遠くなかった高田城址の公園で「お花見をしよう」ということになりました。
市から借りたバスに彼を含めて22人の子どもたちを乗せて、少し涼しい春風の中お花見に向かったわけです。案の定、大変な混み合いでしたが、子どもたちは卒業前の大切な仲間とのひと時を、満開までとはいかないまでも日本有数の名所の桜を眺めながら過ごせることがよっぽど嬉しかったのか、大はしゃぎでした。私も、日頃の子どもたちへの指導の厳しさを忘れ、この日ばかりは大目に見たような気がします。
車椅子を押しながら、桜並木を見ながらぐるっと堀を一周し、勝手気ままに遊んでいた子どもたちを集めてバスに乗り、しばらく走った頃のことでした。子どもたちが一人1つずつ桜の花を手にしていたのです。

油断

「あっ」と思い、車いすの彼の方を見るとやはり、桜の花を持っていませんでした。私は、桜に見とれて、ついつい子どもたちの様子を把握しきれていなかったのです。学校に戻ると桜の花をいくつか持っていた子が、1つその子にあげてくれました。
その週の卒業式の日には、子どもたちが自分で拾ったその桜の花で、内緒でしおりを作ってくれたようで、一人ずつから一つずつ私は素敵なしおりをプレゼントしてもらいました。
彼は、「俺が拾った花じゃないんです。」と一言いいながら私にしおりを渡しました。そんなこと言わなくてもいいのに、私が知っていることを、いつも近くにいて一番よく知っている彼が言いました。

2人のリベンジ

翌日に離任式を控えていましたが、卒業式の後の謝恩会が終わるころ、彼と彼のお母さんに事情を話し明日の朝4時に迎えに行くことを伝えました。他の誰にも気づかれないように、その場で打ち合わせをしました。
色々と出し物をしたり、最後に合唱をしたりして、みんなで謝恩会の片づけを終え、職員室に戻りました。小学校の旅立つ子どもたち一人一人に手紙を書き終えたのは、夜中の3時ごろのことでした。
職員室の奥の水道で顔を洗い、目を覚まして4時には予定通り、彼の家まで迎えに行きました。玄関で彼を預かり、目的地に着いたのは、朝の5時過ぎほどだったでしょうか、さすがに誰もいない、薄暗い高田公園の桜を2人きりで2周ほどしたころでした。

夜明け桜

ライトアップの電気が消えて、桜の花が白く見え、それからしばらくして朝日がすっと差し込んで、もう一度、桜が薄紅色に輝きました。夜桜でもない昼間の桜でもない「夜明け桜」は、格別の美しさでした。
普段なら300はある露店もさすがにやっていませんでしたので、コンビニの熱々のあんまんを2人で食べながら、ゆっくり最後にもう一周お堀の周りを散策しました。
いつになくうまい「あんまん」だったことを今でもよく覚えています。途中、彼を肩車して枝からひと花だけ頂戴し、車に戻った頃には、6時を過ぎていました。帰りの車のなかで、彼がこんなことを言いました。「先生にあげようと思ったんだけど、この桜の花で作ったしおりは、思い出に自分で使ってもいい?」私は、「もちろん、いいよ。」と一言で即答しました。
それから、帰りの車中、彼にはいくつかの人生の場面できっと辛いことがあるから、その時は今日のように思い残したことがあれば、後悔しないように何度でも挑戦してみることの大切さを話しました。
彼は、たぶん人一倍苦労してきた経験があったでしょうから、話していることのほとんどが納得できたようでした。

最後の最後で

最後の最後に、本当に正直に何でも言ってくれるようになったと思うと、なんだか朝日が目にしみて仕方ありませんでした。彼を家に送ると私はカバンに入れてあった着替えを取り出し、宿直室のシャワーを浴びクリーニングに出してあったワイシャツに着替え、机に向かい彼の手紙を書き直しました。離任式の後の最後の学級会で彼に贈った手紙には、「少し難しいかもしれないけれど、夜も昼も良さがある。あまり人がいない朝にも良さがある。人との違いはそのまま良さになる。真剣に生きろ、努力で乗り越えろ、負けてもいいけど無駄にするな。」なんてことを書いたような気がします。
あれから19年、あの時の桜のしおりは、彼を支える役目を終えて、何よりもうれしい「吉報」と共に私にプレゼントされました。

次へ

そんな桜のしおりは、次は、別の教え子の手元に私の愛読書と、このしおりにまつわる秘話と共に手渡されることとなりました。彼がどんな気持ちでそのしおりを辛いときに手にするかはわかりませんが、少しは力になるような気がします。


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