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多様性とはこういう事ではないか

一人で家でお酒を飲みながら、昔の音楽を聴いていました。
音と共に蘇る昔の情景。ふと思い出した高校1年生の初秋。
そこに私が求める多様性、Diversityがあったので書きたいと思ってパソコンを開きました。

普通学級に通う障害者にとっての運動会

小学校から運動会は嫌いでした。ご想像通り運動で活躍できることなんて脳性麻痺の私にはありませんでした。でも負けたくない精神で何とか食らいつき小学校ではソフトボール、中学校は空手、などいろいろやってました。
それもあって、運動会の学年競技には何とか出せてもらっていました。
 出せてもらっていた?と思う方もいるかもしれません。学校側も私の安全を確保しないといけないので危ないことはさせないのです。例えば高尾山への遠足。山登りは危険との判断で私は一度もクラスメイトと行動したことがありません。中2で行った八ヶ岳もみんなと同じルートを行くものの班の仲間とは別行動でした。八ヶ岳を完登した後に先生から「この道を黒原も来るのかって心配した」って言われ、先生たちもすごく気にしてくれていて、それはすごく感謝でした。
 そんな中での運動会。小学校までは個人は徒競走くらいで学年競技は仲良くって感じなので「つまんない」だけでした。中学から出てくるのがクラス対抗です。当時は何とかついていこうと必死でしたが、今思うと障害者が一人いるクラスと障害者がいないクラスでは大きな違いがあるよなと思います。私がいるクラスはハンデを背負っていることを意味します。

自分が健常者だったら障害者がいるクラスは嫌だと思った

私は親に「病気が治って健常者になったら障害者の気持ちは忘れると思う」と小学校の頃に話した記憶があります。その心がこの見出しなのですが、自分がクラスに貢献出来ない事、運動が出来ないと言う事を認めたくなかったのかもしれません。だからソフトボールもやったし空手もやった、小5からは筋トレもはじめて中2では1日600回やったこともありました。何とかみんなについていきたかった。しかしながら、中2に学年競技の大縄跳びでは1度引っかかってしまい足を引っ張りました。今思うと男子20人くらいで40回?男女合わせたクラス全体では60回という記録についていけたのは、我ながら自慢です。でも自分が引っ掛かったあの1回がなければもっと伸びたかもしれない。中3はムカデ競争が学年競技でした。私は体幹が弱いので前の友達の肩を思いっきりつかんでしまい、「痛い、痛い」と言わせていました。でもみんな私には嫌なこと一つ言わず、明るく楽しく接してくれ打ち上げでも楽しい思いでしかありません。そんな中で私は申し訳ない気持ちをすごく感じていました。

「当たり前だろ!」

義務教育を終え、高校に上がっても体育祭と言う名の運動会がありました。学年競技に代わるクラス対抗リレー。私が一番苦手な速く走るという運動。
高校では合唱部に所属しながらも、運動部の友達も多くテスト前は運動部の友達と勉強をしたりしていました。だからこそ、彼らが体育祭で勝ちたい気持ちもよくわかってました。平然を装いながらも足を引っ張ることに鬱々とした気持ちで始まった2学期。
 担任が「体育祭ですが、黒原君も出ますので・・・・」といった発言があり、私が気まずいなと思っていた直後、サッカー部の中心的な友達が担任に「当たり前だろ!」と言ってくれ他のクラスメイトも「そりゃそうだ」と同調してくれました。私はその時、自分がここにいてもいいんだと初めて認めてもらった気持ちになりました。おそらく小学校も中学校もそう思ってくれていた友達がいたからこそやってこれたのだと思います。ただ、言葉として聞けたことですごく救われた、自信を持てた瞬間となりました。

多様性とは心理的安全性を感じられること

普通学級に障害者がいることは当たり前ではありません。小中高と私以外に障害者として通っていた人はいませんでした。だからこそ、引け目を感じていました。友達が言ってくれた「当たり前」とはどういう意味なのか。きっとそれは障害の有無関係なく、クラスで力を合わせる事が当たり前という意味だったのかなと思います。私はどこかで「障がい者だから」と自分の事を特別視しバリアを自分で張っていたのかもしれません。それが私にとっての「当たり前」だったからです。アンコンシャスバイアス、まさにこれです。
 少し脱線しますが私は友達の「当たり前」アンコンシャスバイアスに救われました。アンコンシャスバイアスは悪いものと捉えがちですが、良い悪いではなく、そういうものがあると言う事を理解することが重要です。
 私が感じた「ここにいてもいいんだ」と言うのは心理的安全性と言えると思います。すべての人が心理的安全性を感じられる世界が真の多様性だと私は考えています。それは性別だけではなく、障害、宗教、人種、価値観、そのほか諸々、人として犯してはいけない事を犯さない限り、すべての人が心理的安全性を感じられる。そんな世界、社会になったらいいなと思います。



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