ディスコミュニケーション-√communication
この詩は祈り
その先は実り
皮肉の奥の奥に
あるであろう実情に
逆を向き合っている感じがした。
それは作品の話で、創作の話で、そして実情に他ならない。
文学フリマで頒布する、『dis√joint vol.2』に寄稿する作品を書いた。
前回と著者名を変えているが、現実には著者は一人。当たり前のことだろうが、それが少しもどかしい。
逆を向き合っている感じがした。自分自身の人格、信仰と慈悲、創作と作品が。
昔、作品は人生を賭けたものでなければ真に美しいとは言えないと講義を受けたことがあって、筆者の思考にはそれが根付いてしまっていて、こうして毎年、文脈を切り売りしている。
昨年は作品についてnoteに起稿しなかったからここで紹介すると、『月に見られる』と云う詩集を出した。
今は丁度、金木犀が香り出すような季節で、秋月が美しいから、月見と云う語彙を近しく思うけれど、主題にある動詞の“見られる”は、見てわかるように受動の態を取っている。さぞ奇妙に思われることだろう。
文学フリマ東京35で頒布した『dis√joint vol.1』に寄稿した(実は文フリ33でも表紙が白色のvol.1を出しているが、新規で刷ったこの青い冊子には当該の詩集を含め、幾つか新規の作品を入れている)『月に見られる』は、「目が開いたら月になる」と云う一文を軸に、廿編の詩を束ねたものである。
この詩集は人生を侵す意味での「作品」を目指した。月への崇拝。白への信仰。その対比として、自らの人格に影を落とし込む読み手。自己犠牲なんて言葉で表すにはどうしようもなく不足した、作品を主体とした自己(若しくはそれ自体を描いた作品)。
その作品と対比になる詩をまた、文学フリマ東京37で頒布する冊子に寄稿する。元々、問い掛けに対する回答のように、施しに対する授かりのように作品を二つ並べる予定だったから、漸く文脈が追いついてくれたと云う感がある。実感がある。しかし筆者には、並列するそれらが、正しく向かい合った作品とは思えずにいる。
今回出す作品の題は『月白讃歌』、月白の色を賛美する詩である。では、この詩の読み手は何処を見ているのだろうか。『月に見られる』では、主体と客体との視点の錯誤についてが書いてある。『月白讃歌』の視点は、雲に覆われていてわかり難い。意図の内外のカモフラージュが、幾重にも施されている。それは、人が慰み物に溺れる様子にも似ている。
作品のテーマとしてあるのは「実情」である。否認や悪意、排他性が形成する言葉は「皮肉」として成り立つ場合がある。これを対義の語と看做すかどうかはやはり読み手に委ねられるのだろうが、普通、皮肉の対義語は何かと尋ねられて「実情」と答えはしないだろう。この作品自体がそういう、世間とのズレ(dis√joint)を内包している。
花を束ねても月にはならない。けれども、月を見上げるように咲く一輪の花はある。その花は、単に夜に咲くという性質なだけかもしれないし、ずっと咲いている中の一瞬に月光が差しただけかもしれない、けれども。
さて、作品について「著者」の思考は並べたので、一つ小話を挟んで結びとしたい。
当サークル(dis√joint)のTwitter(X)アカウント(@disjoint_otz)はパスワードを知っている複数のメンバーがログイン可能となっている。
このアカウントでは2023-10-08に京都を観光した旨のツイートがされているが、自白するとツイート主は京都観光をしていない。イマジナリー観光をしていたのである。
それは他のメンバーから京都を観光している旨のLINEが送られてきたからで、それを羨ましくも疎ましくも思ったからである。他メンバーを騙るようにしてツイートをした。ほんの一瞬、満たされている感じがした。満たされている感じがしたから、足りない感じが襲うようにしてやってきて、当初の締切(九月末)を破ってまで詩を書き上げた。『月白讃歌』には山や川が出てくるが、それは畿内のある土地をモチーフにしている。重い感傷の、感情の籠った地である。
それ、は負の感情ですらある。しかし、負と負を掛け合わせることでしか符合出来ない何かもある。皮肉によるディスコミュニケーションは、別に何も産まない訳じゃあない。それ、を知っているのは、あの早川を眺めた、その思い出があるからである。だからdis√jointなんてサークルで、こうして活動している自己がいる。
逆を向き合っている感じがした。けれどもそれは、逆を向き合うと云う一点で交わっていた。皮肉の語感が符合して聞こえた。