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文学フリマの洗練を受けて〜バイブス底辺が〜

1.バイブス底辺

誰かに観られると言うのは慣れない、読まれるならば尚更である。
そもそも俺たちはコミュニケーション能力がなさすぎるし、根暗な文章しか書くことができないし、社会の大雨にずぶ濡れになりながら隅っこでくしゃみをするくらいしか成し得ない。
そんな奴らの書いたものが鑑賞されるのはとんでもないレアケースであり、だから世に有償で十一部も出回ってしまったのは、明日に大雨どころか雪が降ってくるぐらいの事件であるのだと、俺たちはそう思い上がりたい。

文学フリマは三者とも今回が初だったが、俺たちは五月にも一度出そうとして挫折していた。そもそも当時は一人しか作品を書き上げていなかったし、正直に言ってそいつの作品も不完全であった。確か五月の文学フリマの前日だか当日に校正会をし、文学フリマは欠席し、後に各々で推敲をして、そうやって今回出す作品を仕上げた。全く以て、俺たちは文学フリマを舐め腐っていた。
俺も含めて誰も計画性がないし、深掘りすれば行動力がない。人としてのバイタリティが、バイブスが足りていない。最低限度のラインに届かず、生物として不足している。常にエンストする危険性を孕んでいる。俺たちはやはり、ずぶ濡れになって身震いしたその動きだけで、文字列を陳列して作品にして出しているのである。そうでもしなければ凍え死ぬから。

とは言え、今回こうして作品を作って参加し、利益は出ずとも売ることが出来たのは、曲がりなりにも三者が努力したからである。
バイブス満タンとか言う虚言を面白がって買ってくれた淑女、初参加だから記念にと買ってくれた謎の紳士、『ヨルシカLive 前世』のイヤホン(筆者も持っている!)をしていたお兄さん、筆者が居ない間に買って行ったと言う綺麗なお姉さん。
まあ色んな人が居たが、その人らに売れたことを奇跡と言う言葉で括るのは正しくない。お客さんの多種多様な感受性、広告のポスター、タイトルの魅力、それなりの文章力、装丁のシンプルさ、一冊百円という安さ、俺たちのプライスレスの笑顔の対応。そういうのがあってこそ売れたのである。いや、最後のは関係ないどころか収支マイナスになった一因まであるが。
ともあれ、そういうのがあったからなんとか無事に参加できたのだとは言える。冊子は手作りで、製本工程は骨の折れる作業であったけれど、売れたなら神経の要る緻密な作業をした甲斐もあったように思う。あと当日、入場が開始されてから行った設営も。もし仮に捨てられずに作品を読んで貰えているのならば、それらは更に報われる。
だが、それでも売れたのが十一部は個人的には少なかったと思う。他のサークルと比較してしまえば、売れてなどいないし形にもなっていない。本の内容はともあれ、装丁も宣伝も設営ももっと工夫できる余地はある。即売会の良いところをもっと吸い上げながら、良い意味での同人誌らしくなさをもっと磨くことは出来る。出店中に暇になって会場を回ったが、皆精一杯に良く作っていて、それを見て筆者は奥底で劣等感と羞恥の念に悩まされた。自分たちの作品はどこか稚拙であり、売るのならばもっと形にしなければならないと。
けれどまあ、初回はそんなでも良かったのかもしれない。

サークル名の由来はとあるアニメにあると何処かで誰かが嘯いていたが、それは切っ掛けであって本質じゃない。
本質はほら、Googleでdisjointと検索して出てくるそれだよ。数学上の単なる表現、個々が同じ元を持たない独立した存在であることを示す文字列。多元的で共通する部分のない素の集合、窓を持たないモナド。それがこのサークル、この三者を表す、形容詞だ。
なんて、実はそれも半分嘘で、上澄みだけ掬い取れば俺たちに、共通したところはない訳でもない。だが変に共通した部分があるからこそ、隔離されてゆく心もある。そういうのを全部引っ括めて、この“dis√joint“と言うサークル名は出来上がった。言い得て妙でしかない。

これからどうなるのか。それはわからないとしか言いようがないが、それでも今回参加できたことにより、三者の心には生じたものがある。
一人には次回組む特集のアイデア。一人には装丁を更に良くしたいと言う熱意。そしてもう一人には、こんな呪いみたいな本をもっと売り捌き、世を汚染させてやりたいと思う、野心的でビジネス的な欲望。
そういうのがばらばらながらも綯い交ぜになって、きっと次回も本を出すのだと思う。方向性は似ているようで全然違うし、束ねようとしても縺れ解れて簡単に断ち切れてしまうけれど。それでも。

2.ネットカフェ

文学フリマの夜は経路の都合上、浜松町の居酒屋で飲んだ。コスパの良い飲み屋を探して歩き回ったのを覚えている。店をどこにするか決めるのに、三者それぞれが恣意的と言うか、意見がバラバラだった。初めは筆者の願望で串揚げ屋に行こうとしていたが、調べた店は休業していた。浜松町はそこ以外に串の店がなかった。とりあえず良さげな居酒屋かファミレスに行こうと方針を決めたは良いが、筆者も含めて全員が、「俺は別に何処でも良い」と言うような空気感を漂わせ、無駄にビジネス街を迷走した。実際三者共何処でも良い訳はなく、それぞれ暗に主張があった。筆者は飲酒がしたかった。結局ゴリゴリに主張を通して居酒屋を選んだ。筆者は主張が強いのである。

入った居酒屋はメニューがレパートリーに富んでいて、まあ食事自体はそれなりだった。筆者は別に酒が強い訳ではないので、梅酒と梅干しサワーとレモンハイボールだけでゴリゴリに酔った。特段安くはないが高い訳でもなかった。出して来る物は悪くない店だと思った。

だが店員は悪かった。着席した場所のすぐ横の調理場で、長年勤めていそうな社員なのかフリーターなのかわからないオッサンが場を取り仕切っていた。彼の接客に悪い所はなかったが、バイトの外国人女性に対する態度が劣悪だった。容姿と名札に書かれた名前からベトナム人の留学生だと察せられたが、オッサンは彼女に気に入らない所があると一生怒鳴っていた。筆者の職場にも同じような留学生が居るが、こちらの方が余程扱いが酷かった。ブラックだと思い続けていた職場が一気にホワイトに思えた。恐らく実際は限りなく黒に近いグレー。

筆者自身も差別的な自覚があるが、そいつはそれの比ではなく、本当に外国人を奴隷みたいに扱っていた。それの所為でそこそこだった飯が不味くなった。筆者は留学生の幸福を祈る以外に何もしなかった。彼女が日本を嫌いになるのは避けられないだろうけれど、祈りはした。でも何に?

まあそれはそれとして(差別的)そんなのに影響されてブルーになる必要はない。dis√jointに必要なのはブルーではなく青春である。三者はオッサンの横暴な態度を横目に、次回の構想とかやりたい事について、飲んで話した。一人は音楽のアルバム批評で特集を組みたいと意見した。これについては実現性がありそうで良いと思った。俺は青春ラブコメでテーマを統一して出したいと言った。これについては実現性がなさそうだが出したい!

居酒屋を出て、留学生が可哀想だったと話をしながら、涼しい夜道を歩いた。筆者は酔って二人にダル絡みをした。心底ダルそうだった。女子みたいな否定のされ方をした気がするが夢心地だったので良く覚えていない。それで、舞い上がってカラオケに行った。多分筆者が言い出してのことだった。学生時代も良くサークルでカラオケに行っていた。あの頃は筆者の人生で唯一、本当に青春をしていた。飲んでいる最中もその話をした。何ならいつもその話ばかりする。もうとっくに老衰している。dis√jointの三者にとって、あの頃に戻りたいと言うのはきっと、三者三葉ではない共通認識だった。

筆者は一人暮らしで、東京から帰るには時間の掛かる場所に住んでいる。最寄り駅からバスを経由するか、タクシーで帰る必要があった。カラオケに行った所為で終バスに乗れないことが確定していた。二人と別れてから電車で眠りこけ、眠っている間に最寄り駅に着いたが、高い金を払ってまでタクシーに乗る気は起きなかった。

最寄り駅はそれなりに大きく、徒歩七分の所にネットカフェがあった。筆者はそこで夜明かしをしようと決めた。清純だからネットカフェに泊まるのは人生初だった。中に入ると筆者と同年代ぐらいの男が一人レジで案内を受けていたので、そわそわしながらそれが終わるのを待った。五分程するとその男が退いて、筆者の番が来た。会員になる必要があるようで、個人情報を紙に記入して身分証明書と一緒に渡した。予めGoogleでシステムを調べてきたが、幾つかコースがあり、複雑怪奇で筆者にはわからなかった。店員の言われるがまま決め、シングルのリクライニングチェアの部屋で泊まることになった。部屋には各種コースや三十分いくらと記載されたラミネートがあり、Googleで調べ直すとコースに入らないと高額になると煽るような記事があり、これって結局いくら取られるのかしらんと筆者はヒヤヒヤになり、わざわざ店員に訪ねに行った。居酒屋のオッサンと言う巨悪を見た所為か(関係ない)、当時の筆者は詐欺へのアンテナがビンビンに立っていて、ボられるのではないかと疑心暗鬼だった。部屋のラミネートの「受付後にプラン変更はできません」と言う旨の記載が余計に不安を煽り立てた。しかしながら店員は安いコースにしてくれていたようで、店の料金表を見ると何ら問題なかった。分かりにくい!と不満を並べたくもあったが、筆者が耄碌しているだけなのかもしれない。筆者は未だ二十代前半である。

部屋の仕切りは低く、筆者の身長程の高さしかなかった。今どき見ないが幼児用のトイレを思い起こさせた。チェアは倒すことができ、悪くない座り心地だった。だが、上着を掛け布団にしても寝付ける気はせず、そもそも初体験でドキドキだったので寝られず、結局持ち歩いていたNintendo Switchでゲームをした。丁度ポケモンのダイパリメイクが発売して間もない頃だったので、厳選作業を只管にした。とは言え疲れもあり、偶にレム睡眠をして、そうこうしている内にバスの始発が来る時間になった。

ネットカフェで寝ながら、どうしてこんな大人になってしまったのだろうと思った。小さい頃は、否、中学生くらいまでは、もっと綺麗な景色が見えていたように思う。今では知覚できない色や匂いを、確かに知っていたように思う。こうしてネカフェで一夜を明かすような穢れた大人とは、一線を画すような何かがそこにあって、それにはもう手は届かず、置いてきたまま失ってしまった。だから筆者はもう大人で、子供をきちんと終えられていないから、筆者は大人に成り切れてはいない。尺度という言葉で作品を仕上げても、たったそれだけでこの人生が救われる訳はない。何かの選択の上でこうなっているとしたら、筆者はどこでまちがえたのだろうか。

3.ライトノベル

それはまちがいなく中学から高校への過渡期で、筆者は俗に言う「思春期」を致命的にまちがえたのである。筆者は現実で青春を希いながらも、それは希っただけで一切行動をせず、虚構の青春ラブコメに没頭することしかできなかった。

中学時代の終わり頃は高校で青春をすることしか頭になかった。別にリア充みたいな、陽キャみたいな事がしたい訳ではなく、有り体に言って、純粋に恋愛がしたかった。しかしながら、いざ高校生になってみるとそんな希望は潰えた。高校生活初日、入学式の日に筆者は校内で貧血になって倒れ、保健室に運ばれた。前日に何かで夜更かしをしていた所為である。そこから色々と崩れた。

当時どう思っていたのかは知らないが、入学式の前に教室で初顔合わせ!という行事に立ち会えなかったのは、かなり大きな損失だったのだろうと今では思う。筆者は元々中学でもあまり親しい友達がいなかったし、友達の作り方などわからず、結局友達は作らなかった。気になる女子も別に居なかった。だからもう、逃避する先は現実ではなく虚構、作品しかなかった。

筆者は当時まだガラケーだったが、それでテレビを見ることができた。何故か夜更かしが格好良いと思っていたようで、高校から帰って部屋のベッドで寝転がりながら良く深夜アニメを見ていた。その日も適当にチャンネルを回していた。すると6chでアニメがやっていて、良く分からない高校生の主人公が、頭良さげな口調で何か「ぼっち」であることを肯定していた。

筆者が青春を決定的にまちがえたのはこの作品に出会ってしまったことだと今でもそう思う。その作品こそ筆者の人生の裏・バイブル、「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」(通称:俺ガイル)だ。

頭良さげな言葉を捏ねくり回して孤独を正当化する主人公が格好良く思えた。皮肉的で斜に構えていて、学校で起きた問題を次々と斜め下すぎる手段で解決して行く。その様は痛快で、やばい奴だとは思いながら、心の奥の方で、筆者も彼のようになりたいと思ってしまっていた。

たぶんアニメを初めて見てから一週間もせずに原作のライトノベルの一巻を買って読み、そこから二日と経たずに二巻〜七巻(当時の最新刊)を、高校の最寄り駅に隣接していた本屋で買って読んだ。六巻分まとめ買いした筆者を見て、店員三人がケタケタと笑っていて、恥ずかしい思いをしたのを覚えている。あの本屋の店員は今でも許していない。

まあ、そんな風にして筆者はオタクになり、青春を溝に捨てたのである。

昨年、俺ガイルの最終巻が発売され、アニメ三期も放映されて、物語は一応完結した。しかし筆者は昨年、新卒で社会人になったばかりで忙しく、原作を読んでアニメを観るくらいはしたが、それほど作品にのめり込みはしなかった。ただ、最終話付近で、主人公とヒロインが陸橋の上で告白めいたことをするシーンが良かったことだけは鮮明に覚えていた。筆者は最近になってそれを見返した。とても良かった。俗で安直な見方だが、これこそが「萌え」だと思った。色褪せないバイブスがあった。

アニメ一期から三期まで全て見返し、この一年の間に発売され、買っていなかった原作も買った。台詞や言葉回しがもう自分の中に染み付いていると言うか、息づいていた。そこには確かに青春があった。ライトノベルはおぞましいほど読みやすく、高校生当時百冊近く読み漁れたのにも合点が行った。読みやすさもあるが、改行だらけで頁数の割に文章量が少ないからあっという間だ。けれどそれでも、高校生の筆者は、それを崇高な純文学として読んでいた。

今では、この青春ラブコメのように、高校、或いは中学の頃から、作品ではなく現実に焦点を当てて、その頃の関係性に目を向けられていればと切に思う。しかしそれはその先に美しさがある前提で、その美しさを見る尺度が思春期の筆者になかったのは疑いようもない。初めの初めからまちがっていたのである。

「例えば、例えばの話である。例えばもし、ゲームのように一つだけ前のセーブデータに戻って選択肢を選び直せたとしたら、人生は変わるだろうか。答えは否である。」俺ガイル主人公の比企谷八幡がこう言っているように、選択肢を、選ぶ尺度を知りえなかった当時の自分には、青春を謳歌することはできなかったのだ。

だから筆者の、思春期に於ける青春ラブコメはライトノベルの中だけで良い。筆者自身の青春は大学時代だけで良い。その延長線上に、幾つかの関係性と、このdis√jointが残るなら尚良い。

「手放したら、二度と掴めねえんだよ。」その通りである。二度と掴めないものだと知って、置いてきたものに恋焦がれ、燻っているだけでは人生は終わってくれない。だから筆者は書き続ける。

4.それでも。

このサークルで何か残せるかと言えば、それはどうかわからない。何も残らないかもしれない。筆者が1.に書いた“バイブス底辺が”は元々noteに三人が寄稿する上での序文の筈だった。dis√jointとして初投稿する上で、この記事の表題「文学フリマの洗練を受けて〜バイブス底辺が〜」で三人の駄文を纏める予定だった(これはdis√joint vol.1の「創刊の言葉に代えて〜バイブス満タンで〜」をリスペクトし、同時に揶揄した表題である)が、hi-liteこと前島は、筆者や海に相談もせず勝手にnoteに投稿した。だから筆者も、前島にも海にも相談をせず勝手にnoteに投稿する。

こんな関係性が本物か?と言ったらそれは違うじゃん、俺ガイルのそれとはまた異なる意味で。何も言わなくても伝わる関係どころか、伝われよ!って言って結局誰も伝えようとしてない。何でもかんでもバイブスで乗り切ろうとしている。何でもかんでもdisjointって言えば繋がると思ってる。そんな訳ねえだろ。知は力って言うよりも道具で、ちゃんと使えなければ調和しねえんだよ。神の見えざる手なんて存在しねえの。

各々がバイブルを持っていて、共通する部分はあれどズレがある。それは本物と言うより、現実そのものである。バイブルそれ自体とは全く以て似て非なる、神に疑念を抱いて生きる世界である。

まあでも、それでも。


それでもきっと、三者のバイブスに枯渇の文字はない。

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