「得意な事」に「好き」が加わると最強。わたしの転職体験記。
いまでも、忘れない。
私が「転職」を考えたあのとき。
新卒で入社した会社は、関西圏の誰もが知る大企業だった。
事務員として配属されたのは、女性ばかり5人ほどの部署で、新卒の私たちふたりが加わることとなった。
新卒の私たちは、派遣会社から配属された方たちの仕事を引き継ぐ、「後釜」として配属された。
何でも忙しすぎて、仕事が回らなくなり、一時的に、派遣会社から社員を雇っていたそう。
無事に引継ぎを終えると、数か月後にその場を去られた。
上司は定年前の男性の方で、温和な方。
私たちの仕事は、一般的な事務作業に加え、となりの部署に配属されている、商品を売り込む営業の方たちのサポートといったところ。
一般的な事務作業といえども、電話対応、書類のチェックや、取引先への確認作業、パソコン業務と、多岐にわたる仕事があって、毎日やるべき業務を確実にこなしていった。
私は、結構、根気強く、ヒトツヒトツこなしていくことは、どちらかというと得意なほうだ。
だから、月末に必ず業務として回ってくる、大量のパソコンのデータ入力も、そんなにストレスではなかった。
ミッションを、次々にクリアしていき、達成感を味わえることに、やりがいを見出せるのは、案外、中学の時に属していた陸上部で、同じようにメニューをヒトツヒトツクリアしていくことに、快感をおぼえたことが基盤になっているのかもしれない。
その過程も楽しいし、その後の達成感は、言葉に表せない位に、爽快だ。
皆がサボっていても、ひとりでやっていた。
走ることで、「根気」も覚えたのかもしれない。
あと、親(母)の影響。
やり始めたことは、とにかく止めてはいけないそうだ。
だけど、勤め始めて二年目に上司が代わり、毎日理不尽な叱責が続き、三年目が過ぎた頃、「もう辞めてもいいかな」と、転職を考え始めた。
私、十分耐えたし、がんばったよね・・・と。
「石の上にも三年」の年月も過ぎたし。
仕事の内容には不満がなかったけど、それ以上その職場に居る魅力が見出せなかった。
ただ、やるべきことは誠実に卒なくこなしていくので、営業の人にも取引先の人にも、信頼を得ていた。
だけど、上司とは、コミュニケーションが足りなかった。
それもひっくるめて、仕事だということは、後々気付いた。
私が、大の苦手とするところだ。
今おもえば、自分で就職先を決め、すでに実家を離れた身にもかかわらず、母に相談するのは言語道断だったのかもしれない。
それは、ある意味、まだ親の呪縛から解き放たれていなかったことを、物語っていたのかもしれない。
当時、私がそれまでの人生で、自分で決定権をくだし実行したのは、就職先だけだったという事実がゆえに、心理的に親の選択を仰がなければ先にすすめなかった。
それと、本当に会社を辞めていいのかなと、揺るぎない不安があってのことだった。
転職を考えていたというものの、伝手はないし、漠然と思っていただけだった。
だけど、母に一存を預けたことによって、私の人生は急展開していくことになった。
「寿退社」なら、仕事辞めてもええんちがうか。
決して賢くはないけど、母の予想を上回る短大に進学し、自慢できる位の大企業に就職した娘が、「寿退社」で仕事を辞めるとなったら、それはもう、言うことナシといったところだろうと、思惑はみえていた。
母らしいなと思った。
だけども、それはそれで、真っ当な意見だった。
人生のどこかで、結婚を考えるとすれば、いつ婚活するの?
「今でしょ!」と、婚活など考えたこともない私に、エンジンをかけてくれた言葉だった。
そんなこんなで、夫の職業「農家」に恋して、結婚した。
24歳だった。
自分の人生を考えたそのとき、初めて一生働かねばならないと、漠然と気付いた。
「専業主婦」の母を見て育ったわたしは、人生のその先なんて考えたこともなかった。
だけども、「農家」に嫁いで、一生農業をすることを想像してみた。
根気強くミッションを次々とこなしていく「農業」のイメージは、厳しいモノでもあるけど、私は得意かもしれないと。
「好きになった人と、同じ目的にむかってミッションをクリアしていく農業は、なんて幸せそうなの💗」との一心だった。
夫に何度となしに「ホンマにええんか?」と、聞かれたことは覚えている。
「あのときは、お互いウィンウィンの関係やったな」と、お互い言うように、その通りだったのかもしれない。
会社を寿退社したい私。
そして「義両親と同居&農業を手伝ってくれる嫁さん」がほしい
夫。
幾分、わたしの方が熱をあげていたのかもしれない。
ほどなくして、無事に結婚し、新婚旅行から帰ってきてすぐに、未経験の農作業は始まった。
だけど、考えは甘かった。
若かったので、3年は踏ん張れたけど、OLの時と同じタイミングで息絶えた。
夫との関係はよろしくなかったし、仕事も我慢の限界だった。
年から年中やすみがなくて、体力が続かなかった。
もちろん逃げることも考えたけど、帰る実家がないことに加え、幼い子供を抱えたこともあって、そこから長い間かかって奮起してきた。
実家から、そして、新卒で入社した会社から逃げてきたように、逃げる選択肢がなかった事実から、腹を括るしかなかった。
その時、初めて一生農業をしていくんだと腹を括った気がする。
私がとりかかったことは、仕事を好きになる努力。
心身に負担をかけないで、仕事をするには、それがイチバンだと思ってのことだった。
仕事を取り巻く環境を整えて、自らの負担を減らすことから、はじめたが、「一生この仕事をやっていくんだ」と腹を括るのに、効果的だったのは、仕事で扱うものを好きになることだった。
「そうだ!仕事に興味をもってみよう。作物に興味をもってみよう。」ということだった。
前のめりになって、仕事をすることだった。
ちょうど今の時期の農作業、「剪定」は、まさにそう。
興味を持って、知識を増やしていくと、なかなか面白い。
農作業のなかで、一番「好き」なのかもしれない。
そうして、農作業に対しても、作物に対しても、「好き」を深めてきた。
思えば、若い頃のわたしは、ミッションをクリアする事だけが、最終的な目標で、扱う商品や、作業に対して「好き」を深めてこなかった。
ただ、真面目に与えられたことを卒なくすることだけに、重きを置いていた。
だから、「走ること」に興味を持てなかった陸上は、高校の途中で辞めたし、社会人の時には、扱う商品のことをよく知らなかったし、興味を持とうともしなかった。
もちろん「興味を持とう」と思ったところで、すぐに興味が持てるわけではない。
ただ、「興味を持ってみよう」と前のめりになることで、自分がやるべきことが見えてくる。
乗り気でなくとも、そう思うことが大事だと思う。
私は、山椒や柿のことを、もっと知りたいと思った。
それこそ、三年目の山を越え、徐々に仕事に慣れて、余裕が生まれたからかもしれない。
数々のヒット曲を生み出した、総合エンターテインメントプロデューサーのつんくさんは、「得意なこと」と「好きなこと」は、別ものだと仰る。
「得意なこと」は、長続きしない。
「好きなこと」なら、面倒で疲れることでも続けることができると。
「得意なこと」よりも、「好きなこと」をとことん追求すると、「天才」を超える「プロ」になれると。
私は、あのとき、どうせ、その仕事から逃れられないのなら、仕事を好きになった方がいいに違いないと、思い立ったから今があると思う。
だけど、あのまま、新卒で入社した会社員で続けていたとしても、プロにはなれなかったと思う。
仕事に関係する商品に興味を持つことは出来ても、人とコミュニケーションをとるのは苦手だから。
外で働くには、仕事の内容にもよるかもしれないが、何かしら人とのコミュニケーションが必要だ。
ちなみに、農家に嫁いできて、多いときで、二十人ほどのアルバイトさんを相手に、仕事を推し進めていくのは、想定外だった。
でも、お蔭で、コミュニケーション力を培うことから逃げずに、成長できる環境に身を置けたのは幸いだった。
「note」でも多数の方と、コミュニケーションをとらせて頂いていることも、後押ししてもらっているが、その面に関しては未だに「得意」ではない。
もともと、独りの時間が好きなくらいなので、一般企業でいても、自分の能力を最大限に発揮できなかったと思う。
やはり、苦手なことは、限界がある。
私は、人に囲まれて仕事をするよりも、自然や作物相手に仕事をする方が好き。
建物のなかで仕事をするより、外で仕事をするほうが好き。
「得意」に「好き」が加わると最強で、私は恵まれていたのかもしれない。
身体が動く限りは、ずっと働きたいと思う。
だけど、恵まれていない環境に身を置いていたとしても、「好き」になる方法はいくらでもあると思う。
もし「嫌い」な場合、少なくとも、今の状態より「好き」になる方法が。
仕事は好きになったもん勝ちやで。と、農業を継いでくれる、息子にも言う。
その点、義両親は、「好き」には、なれなかったようで、まだ身体がうごく八十前後で畑仕事を引退した。
八十前後まで働いてくれたことには感謝し、労いの言葉も出てくるが、畑を引退後の義両親の身体は目に見えて、衰えが早くなったように感じる。
義母は週に一度のデイサービスを、いかにしてさぼるか考えている。
やっぱし、仕事は好きになったもん勝ちちがうかなぁ。
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