愛情を込めて、作物を育てるということ
アルバイトさんが来てくれての、4月から始まった柿の蕾採りを、1週間ほど前に終えた。
大小合わせて6つの畑を二巡しながら、今年の秋にとる柿を厳選しつつ、余分な蕾を落としていく簡単だが、根気と正確さが必要な地道な作業だ。
大量の蕾を落とすという点でいうと、一番手間のかかる作業かもしれない。
私は、この作業を、長年にわたって、音楽を聴きながらやってきた。
あまりにも地道で根気が必要な作業に辛抱たまらず、何か少しでも楽に作業に向かえる方法はないかと探り続けた結果、子供たちより遅いウォークマンデビューとなった。
音楽を聴きながらの作業は、衝撃だった。
音楽に励まされ、背中を押されながら作業をすると、実に身体は軽快で、感激で身が震えた思いをしたのを覚えている。
4月からはじまるこの作業は、ハローワークで募集をかけても、高齢化で周囲で作っている柿が減ったと言えども、まだまだ柿を作っているところが多いので、交通の便が悪いこちらには、なかなか人手が回ってこず、6人位の人手が必要なのにもかかわらず、全く希望者がなく、常連のアルバイトさんと二人だけで、作業をやり遂げたこともある。
私が嫁いできて10年ほどは、親戚のおばさん達がアルバイトにやってきてくださって、順調よく進んでいたこの作業は、おばさん達が高齢化で引退すると同時に陰りを見せ始めた。
そこで、ハローワークなどで募集をかけた際に応じてくださった人を雇い、作業を進めていくが、農業に関しては素人の方が多く、長く勤めて支えてくださったおばさん達のようにはいかなかった。
柿の枝をくまなく辿りながら、蕾をただ、1本か2本の枝にひとつずつ残していく作業は、簡単だけど、注意力と正確さ、根気が必要な作業で、個人差が大きく表れると私は思っている。
体力がないと、注意も散漫で、思いっきり枝を飛ばす人もいたし、根気がないと地道に枝を辿ることが出来なかったり、ある程度、普段から物事を丁寧にこなす性格でないと、なかなか完璧にはできない。
あと、山椒採りとちがい、遠目で見たところでは、的確さが分からないので「ごまかし」がきくのも、この作業の特徴。
最初は、素人さんを相手に、どうすればより良く作業を進めることができるか、頭を抱えたものだ。
夫はその頃には、私と一緒に仕事をするということもなく、別の作業をすることが多くなっていて、私がひとりで問題を抱えていた。
アルバイトの人は、定着して長く来てくださる方は少なく、メンバーチェンジで、毎年ゼロからのスタート。
不安定な環境に身を置いていらっしゃる方が多く、やっと慣れてくださったと思っていても、別の仕事に就かれたり、引っ越しされたりと辞めて行かれる方も多く、一時金を稼ぐために来られる方も多かった。
当時は、柿の量が多かったので、仕事を回すためには、来てくれたアルバイトさんの力を最大限に活かすことを考えなければならなかった。
考えた挙句、アルバイトさんには完璧を求めないことにした。
ある程度のハードルを設け、達することが出来ない人には辞めてもらった。
とはいえ、仕事を回すために、来てくれた人の力を無駄にはできないから、こちらとしては、最低限のハードルで、誰でもクリアできるレベルにした。
時間があれば、私が未完全な作業の木を追って、やり直すことがあったが、時間が足りないと、未完全なまま秋を迎えることもあった。
柿の成り方に偏りは出来るが、収穫はできるので、それでヨシとした。
とにかく作業に追い回され目まぐるしかった。
そのうち、山椒の収穫に携わるようになると、柿の作業と重なるようになって、一段と忙しさは度を増したが、反面、人手は年々集まらなくなった。
定着して来てくださるメンバーは、2,3人といったところ。
あとは、助っ人で、何人か時々来てくれる。
そんな状況が変わったのは、ほんの数年前のことだ。
働き手の人数は変わらずだが、いささか楽になった。
3年前に、私が冬の間の柿の剪定を手掛けることになり、枝数を大幅に減らしたのだ。
ユーチューブで勉強しながら、我が家の全部の柿の木の大幅なイメチェンを行うことに決めた私。
初心者の私がする、剪定の仕方は、未熟だったことには間違いないが、枝数を減らしたことにより、一目瞭然で仕事がやりやすくなり、アルバイトさんの、摘蕾摘果作業の効率化、正確さは格段にあがった。
それでもまだ完全ではないものの、私が確認してやり直せる時間の余裕も幾分できた。
薬剤が通りやすくなって、きれいな柿の実ができ、収穫量は減ったが、少ない人数でも、短期間に終わらせることができ、トントンだった。
昨年、相変わらず、ウォークマン片手に作業を進めた私だったが、更に作業をすることに余裕を感じていた。
今までにない余裕を持って、摘蕾摘果作業に取り組める理由が、何となく分かってきた。
それまでは、「柿のみ」で収入を得ることを考えれば仕方がなかたのだろうが、枝が混み込みで、どこから手を付けたらよいのか分からない位の混みよう。
きちんと目を凝らして見ないと、蕾がどこにあるか分からない位に混んでいるところもあったし、枝をかき分けなければ作業が出来ないところもあって、よほど注意していないと、的確に仕事ができない状況にあった。
私が剪定した枝を目の前に、いかに混み込みした枝を目の前に、幾分ストレスを感じていたか身をもって感じた。
今年は、ウォークマンのことなど頭になかった。
気が付くと、目の前の小さな蕾ひとつひとつと向き合っていた。
ふと周囲を見渡すと、風に煽られ、枝がゆさゆさと揺れていた。
枝と枝の間がほどよく空いていて、まるでモーツアルトの音楽に合わせて、気持ちよく枝が揺れているように感じた。
作業が進むにつれ、私は自分自身の熱量が上がっているのをかんじた。
取り残しがないかの確認はもちろん、今ある目の前のまだ小さな蕾が、秋の収穫時に柿が大きくなったときのことを想像しながら、どの蕾を残すのか、今まで以上に真剣に考えた。
ウォークマンから流れる音楽がないとなると、作業に対する集中度は増す。
柿に対する愛情も一段と感じる。
そんな折、アルバイトさんがやってくれた作業のいい加減さが目に付いたから、いつにない憤りを感じ、怒りを通り越し、悲しみさえ感じた。
考えれば、そこまでひどい「出来」ではなかった。
そこそこの「出来」で、その「いい加減さ」は、例年通りだった。
作業の出来は、「正確さ」でもなく「根気」でもなく「注意力」でもなく、柿を育てようという気持ちや、柿に対する愛情だと察した。
だけども、アルバイトさん達の立場と、私の立場とではちがう。
年中、柿と向かい合っている私の熱量と同じように、作業に向かうのはムリだろう。
だけども、来年は「『仕上げ摘果』のときには、せめて意識を変えて仕事に取り組んでください」と、それくらいのことは言っていいのかな。
「意識を変えられない人は、来ないでください」と。
(言いたい・・・。だけど、他に言いかたがないか、一年考えてみるとするか。)
毎年、言いかたは違えど、同様のことは言っているけどね。
今年は、山椒に変えるべく、柿の木を20本ほど切ったこともあって、更に時間的に余裕ができた。
私と、他の作業を終え「摘蕾摘果作業」に途中参加した息子が手に付けていないところを、息子と一緒に、もう一度回ることにした。
アルバイトさん達が回ったあとの、三巡目の作業だ。
アルバイトさんの中には、熱量が高い人もいて、ほとんど私たちが手を付けなくてもよい木もあって有難い。
木によって作業の的確さは大きく違って、個人差が大きいことは、息子にとっても良い勉強になったようだ。
未完全な作業のやり直しとともに、柿を育てるにあたって余分な枝も、丁寧にとって回った、息子との1週間。
これほど、丁寧に作業を仕上げたことは初めてだった。
気持ちを込めた分、今年の秋は、今までにない喜びが待っている気がして仕方がない、結婚28年目の秋。
自分が剪定を手掛けるようになって、秋の収穫時の喜びは一入だ。
昔は、「作れよ増やせよ」ではないけど、多収を目的とした作り方が主流で、私が嫁いできたときは、周囲の畑のどの柿の木も枝が多かったが、今や、「品質向上」や「作業のやりやすさ」を目的に枝が少ないところが多い。
うちは農協出荷ではないが、農協の指導も、その方向で剪定の指導が入るという。
昔はどんな柿でも売れたというが、今は規格外では売れないし、傷がいくと、規格が下がる。
時代に乗っ取って、私が剪定の方法を変えたと言っていいが、柿の木が大きくなるには、枝や葉も必要。
枝を抜きすぎると枯れるので、適度を考えなければならないが、「摘蕾摘果作業」をしていると、1年目より、2年目。2年目より3年目と、新たな剪定の課題が見えてくるのも、また面白いところ。
そこで、夫のアドバイスも活きてくる。
来年は、もっとより良い形で、柿をならせることが出来そうな気がする。