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ふたりの父が亡くなって分かったこと

とうとう義理の父も亡くなってしまった。

私にとっての父は、実父と義父。


実父と義父は全くもって、共通するところも似たところもない。


ちょうど3年前の4月に、79歳で亡くなった実父は、戦争で夫を亡くした母親(私の祖母)によって女手一つで育てられ、地元の工業高校を卒業するも、就職が決まっていた地元の企業には就職せず、大阪の大手電機メーカーの工場に就職した。

当時、戦後の高度成長時代で、「きんのたまご」と呼ばれた学校を卒業した若者たちが、集団就職で都市部へ移動したというから、時代背景もあるのだろうけど、厳しい祖母からいち早く離れて自立したかったのかもしれない。

祖母は後々まで、地元の企業の方へ就職してほしかったと言っていた。


就職して数年後、母との縁談が決まり、結婚したと聞く。
祖母の話しによると、意外にも、母の方が乗り気だったそうだ。

母が大人しく喋らないことが気に入らず、一度は断ったと、加えて聞いたが、娘の私からすると、そんな父のほうがよっぽど無口な人だから信じられない。

私が物心つく頃には、専業主婦の母の立場が優位で、父が母に頭があがらなかったのは、結婚生活を送るにあたって、母方の祖父母に何かと用立てて貰ったからだろうか。

子供の頃は大人の事情は分からなかったが、成人してから何かと明るみになっていった。


父方の祖母はとにかく厳しい人で、物言いもきつい人だった。

戦後女手一つで、父を育てなければならなかった環境からすると、そうならざるを得ない要因はたくさんあることは想像できるが、その父は、祖母にも頭が上がらず、年に数回、祖母の家に行った時には母が父に攻め寄っていたのを覚えている。

そんな父のことを頼りなげに思えたのは、母が常日頃、父の愚痴を子供たちに言って聞かせていたのもあるけれど、父自身が、他人への興味が薄く、コミュニケーションが少なかったせいもある。

母も父に愛情を持っていないが故に仕方がなかったが、母だけでなく子供たちへの愛情を表現することも不器用な人だった。

実際は、時代背景からすると残業が当たり前の時代。土曜日も出勤で、なにをするにも不器用な人だったので、働くことだけで必死だったかもしれない。


さらに妻は家庭を守り、夫は仕事場へという環境からすると、真面目だけが取り柄の父ながらにして、責任感に押しつぶされていたのかもしれない。

いや、押しつぶされているのではなく、子供たちや妻を守るために責任を全うしていたのかもしれない。

酒もギャンブルも遊びもしない。

たいして趣味もなく、交友関係も全くというほどなかった父は、定年になるまで勤め上げたが、私の記憶の中では、一日も会社を休んだことはなかった。

工場で流れ作業のようなことをしていたと思うが、仕事の愚痴をこぼすことはひとつもなく、ただただ毎日会社へ通っていた。


定年まで勤め上げて、数年たった頃に故郷へ帰ってきたが、糖尿病の合併症として知られる認知症がすすみ、そのうえ、他の病気も併発して病院で長期にわたる療養中に3年前に亡くなった。


一方、2週間ほど前に亡くなった義父は、実父よりちょうど10歳年上の昭和一桁生まれ。

実母は幼い頃に亡くなり、実父も仕事の関係で家を空けており、祖母に育てられたという。


勉強ができたので、今なお残る隣り町の高校へ通い、高校を卒業後、家業である農業を継いだが、実父は農業を継がなかったため、一代あいた田畑を継ぐのは大変だったと聞く。

継いで間もなく、義母が十九のときに嫁いできて、祖母の旗振りで、借金をして畑の面積をどんどん広げていったことがあだとなり苦労したと聞く。


「みかん」が良かった時代もあって、家の状態もよかった時もあったそうだが、そのうち「みかん」を作ってもお金にならない時代がくると共に、本業以外にも手を出したことが引き金になって、結果取り返しのつかない状態になった。


両親がいないことに加え、家の良いとは言えない状態に、周囲の眼も冷ややかなことが、更に畑の規模を大きくして周囲を見返そうと義父を奮い立たせたと聞いた。


随分と若い頃にはごうせいに仕事をしたという義父は、本業以外にも手を出したがために農作業はおざなりになったという。


私が嫁いできたときには、義父が畑に出てきたのは、薬剤散布と柿の収穫くらいで、あとは私たち任せで、農作業が好きとは到底思えなかった。


私は、そういう義父を見ていて、実父がいかに真面目で勤勉かをかんじた。

寡黙にコツコツ働く実父に、それまでにない尊敬の気持があふれ出た。

そして、その血をわたしも又引き継いでいる気がして、感謝の気持ちをかんじた。


ただ、夫が義父のことを、「口から生まれた男」と揶揄するように、喋り出したら止まらない。

口八丁手八丁で、言葉もうまく手も器用。

「何度となしに言葉巧みに騙された」と夫と義母が口をそろえるように、良い意味でも悪い意味でも頭の切れる人だった。


そのコミュニケーション能力を生かして、実父とは違って、交友関係は広く、常に誰かしらと会っていた。

自分の欲望のために、お金を使うことは厭わない人だったから、集落の人からすると「十分やりたいことをやって亡くなった人」と位置付けられるくらい大往生だった。


「二人足して二で割ったくらいの人間がいいよね・・・」と、そんな二人の父のことを、夫とふたりしてよく呟いたものだ。


それくらい、ふたりは共通して似ているところがなかった。


だけど、ふと気づいた。


わたし、どっちのお父さんも結構スキだったかも。

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