あの時があるから、話しを聴いてくださる方がいることの有難さがわかる。いつも、ありがとう。
私は、基本、いつもひとり。
ひとりでも、どちらかというと平気。
だけど、あの時だけは辛かった。
あの時だけは、誰かに話しを聞いてほしかった。
当時はまだパソコンもなくて、話し相手はまだ会話ができない子供たちだけで、夫は仕事をすることに手いっぱいで。
義実家での生活を頑張るのも限界で、私の不満は溜まるいっぽうだった。
夫と話しをしてもすれ違いばかりで、喧嘩ばかりしていて。
子供たちのいる部屋で喧嘩を長引かせたくはないと、部屋を出るのはいつも私。
行く先がないのに、泣きながら歩いて町へ向かったこともあったし、車の中で泣いたこともあるし、ありとあらゆるところで泣いた。
いちばん忘れらないのは、家の庭を少しでた先にある、森のふもとの柳の木の下。
目の前の小さな鳥居をくぐった先には、入り口に古い灯篭を両脇に構えた、いくつもの石段があって、数十メートル上った先には神様が祀られている小さな祠がある。
周囲は、樹齢数百年の、たくさんの大きな木に覆われている。
この辺りは、住職の方はいないけど、大昔から家のすぐ上に古い寺があったり、寺を覆う森の中には、いくつか神様が祀られている祠があるが、日中でも薄暗い。
夜ともなれば、真っ暗だ。
庭をでたその先は、家の明かりは届かない。
森の麓には、大きな柳の木がいくつもの垂れていて、厳かな雰囲気はあっても、日中でも、うす気味悪い雰囲気だ。
家に居ては、義父母に何かしらを悟られるのは当たり前の話しで、行き場のない私は頭を冷やすために、そこで時間を過ごしたが、たいてい、夫と顔を合わすのは、夫が仕事を終え、夕食や入浴をおえたころで、日もとっくに暮れた夜のことで、真っ暗だった。
夫に気持ちを分かってもらえない歯がゆさ、憎しみ、情けなさ、悲しみ、怒り・・・。
ひと言では言い表せない思いが交錯して、涙として溢れてきて、悔しさから、くちびるを嚙みしめた。
「出ていけ!」と幾度か夫に言われたこともあったこともあって、一瞬、よからぬ判断が脳をよぎったことがあったが、「ぜったい、なにがあっても離婚しない」と決断したのも、柳の木の下だった。
夫の言うように、精神的に不安定で、味方が誰一人いない不利な立場の私が、親権を握れるとは思えなかったし、頼るつてもなく、幼い子供たちにとって、どんな理由があるにせよ、母親に見捨てられるということは、この世の終わりで、母としての言い訳はできないと思った。
友達がほしいとは思わなかったが、くつろげない実家がないことを、あれほど憎んだこともなかったし、あれほど、孤独をかんじたこともなかった。
居場所が「義実家」ということが、一層孤独感を増していたのだろう。
「夫」という立場の人間がいるのに、心を通わせることができない状況もそうだったのかもしれない。
思春期に味わった「孤独感」よりも、より一層「孤独」をかんじた。
誰か、私の話しを聞いて・・・。
どこを見渡しても、そんな人は誰ひとり見当たらなかった。
いま、振り返ると、たった数年間のことだったけど、数十年位ともとれる長い時間に感じた。
そんな思いがすこし和らぎ始めたのは、子供たちが保育園に入所し、奇しくも新しい人間関係が繰り広げられたために、新しい悩みが勃発したころだった。
自分の時間がとれるようになったのも、畑へ復帰できたのも、保育園の園長先生が何かと声を掛けてくださったことも、私を少しずつ前向きに歩めと背中を押してくれたことかもしれない。
だけど、誰かに・・・だれかに・・・
聞いてほしい・・・。
あれほど思ったことは、なかった。
あの孤独な日々を含め、いつの日も、もしかして神様に見守られてきたのかもしれない。
だけど、その時の「孤独感」が忘れられないから、どんなつまらないことでも、こうして、私の声に耳を傾けてくださる方がいて、ほんとうに嬉しい。
ありがたい・・・・。
ほんとうに、いつも有り難う。
「note」で、私のつたない話しを聞いてくださって。
※写真はお借りしたものですが、雰囲気が現地のものと、よく似ています。
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