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娘や息子は、義父母のことをどう思っているのだろうか

娘や息子は、私が結婚と同時に義両親と完全同居が始まったが故に、当たり前のように、生まれた時から祖父母の居る生活をしてきた。

私は、時代の流れにのって、核家族の生まれで、年に数回、父方、母方の両祖母に会いにいくだけだった。
父方の祖父は戦死していなかったし、母方の祖父は5歳のときに、癌でなくなったから、想像できなかった。


自分で納得して選んだといえども、義両親との同居という環境は私にとって厳しいと感じたことは多々あったが、長く生活を続けていると、より多くの大人に囲まれて育つことは、子供たちにとってメリットになるのではないかと思ったこともあった。

親の考えや価値観ひとつに囚われることなく、少しでも視野が広がるのかもしれないと、ある日突然切り替えることができたのは、私自身が「生きづらさ」から完全に解き放たれるまでに、親元で居た年数と同じ年月を費やしたと気付いたからだ。

正解はいくつもあるんだよ。と、自然に子供たちは学んでいくのかもしれないと思った。

義父母が大いに育児に携わることはなかったが、私ひとりで子供に接していたら、子供たちはまた違った人格になっていたのかもしれない。

娘が自分で決めて、新卒で就いた仕事を、「『石の上にも三年』だなんて、もう古いわ」と私に言ってのけ、一年で転職したのは、分かりやすい事例かもしれない。

「転職した先で、長く続けばいいのかもしれないし、私が農家に嫁ぐことを、「自分で」選択した責任を負ったからこそ、自分で人生を切り拓けたように、娘のその後の人生を考えれば、応援するのがいちばん!」と、柔軟に切り替えられたのは、娘のお陰だと思っている。

時代の流れもあるだろうしね。
娘自身の人生だということは確かだから、娘自身が決めたことを応援するのが正解だと切り替えることができた。

義父母は、自由な考えの持ち主だから、子供たちには良いスパイスになったように思える。
私は、ある年齢になるまで、母の思いばかりに囚われていた。

私が母のことを反面教師に接してきたこともあるのかもしれないけど、それが証拠に、ふたりとも随分とのびのびと育って、私には似ていない。

かといって、夫にも似ていない。

かといって、義父母ほども気ままではない。

そんな私は、ひとつ心に留めていることがあった。

義父母の愚痴は、子供にはこぼさないようにしよう。

実家との縁が途切れた私の都合で、祖父母を片方だけにしてしまったた負い目もあるが、小、中学生の多感な時期に、実母に父方の祖母の愚痴をいやというほど聞かされてきたからだ。

実母は、兄弟3人の中で、私だけに愚痴をこぼし、祖母も又、孫の中で一番言いやすかっただろう私に、母に対する愚痴をこぼした。

実母は、弟、妹を父方の祖母の家に泊めさせることを止め、私だけが父方の祖母の家に泊まった。

そのうち、弟、妹は、父方の祖母のことを毛嫌いするようになった。

私は、家の中での、母との心理的距離感が当時から離れているせいか、祖母のことをイヤにはならなかったが、双方に愚痴を聞かされるのは辛かった。


子供たちは、義母と私の関係を肌で感じていただろうし、子供たちが大人になったころに、何かの折に、義母のことを悪く言ったこともあるので、どう感じているのか分からない。

それまで溜めていた思いを、子供たちが成人になってから、言った覚えがある。
別に子供たちが成人になったら言おうと決めてかかったわけではなかったが、言わざるを得ない状況になったから言ったのを覚えている。

つい最近には、義父と夫との喧嘩が絶えない実家に居づらかったと、娘から告白を受けた時には衝撃だった。

「大学の学費を捻出するのに、必要な喧嘩だったんだよ」と、娘には家の事情も含めて返したけど、私は当時、ふすま一枚隔てた部屋に居た娘の心境を心配した。

「喧嘩なら、娘に聞こえないところでして!」と何度か言って、制止するほどの喧嘩が長期戦で行われたけど、不安は的中した。

子供たちにとって、居心地がよい実家を目指してきただけに、意気消沈したと同時に、娘に申し訳ない気持ちになった。

だけども、息子にとっては心地よいようで、「一度くらい外の空気を吸いなよ。ひとり暮らしでもしなよ」と促しても出る気配はなかった。
(同じように義父と夫が、喧嘩していたことは知っていたのに)

家賃や駐車場代、その他もろもろ考えると、実家の方が得だと踏んだようで、こちらは現実的に物事を考えるみたいで、それはそれで心配だ。

娘とちがって、大学も自宅通いで、家を出たことがないせいかもしれない。
私は居心地悪くて、就職すると同時に実家を出たけど。


そんな彼らは、幼少期は食卓を祖父母と共にした。

息子に限っては、保育園に通うあいだは、義父母に挟まれベッドを共にした。

義父は昭和ひと桁生まれの昔の人で、息子が言葉を発しない間は近寄りもしなかったのに、息子が言葉を発し、ある程度コミュニケーションがとれるとなると、娘が可哀そうなくらいに、跡継ぎである息子ばかりを可愛がった。

それでも、お年玉はちゃんと娘の分も用意してくれたし、時々は義母と一緒に、ふたりを連れて、近くの神社やスーパーへも連れ出してくれた。

保育園や小学校のは地域あげての運動会では、義父母も顔を出し、お弁当も一緒に食べた。

中学、高校と大きくなるにつれ、時間を共に過ごすことは少なくなったけど、昨年、義父の容態が悪くなったことを告げると、娘は意外にもすぐに飛んできてくれた。

今年になって義父が入院する前にも実家へ顔を出し、会話を交わし、義父もたいそう喜んでくれた。

認知症の義母は、娘のことをなかなか思い出せないけど、「ばあちゃん、〇〇ちゃんやでぇ。」と声をかけていた。

義父の四十九日の席でも、義母の横に座り、会話をしながら食事を共にしていた。

義父が亡くなったとき、娘の泣きはらした目を見て、意外だなと思って驚いたが、嬉しかった。

葬式で執り行われた葬列では、娘が義父が笑顔で写っている遺影を持った。

四十九日のお墓へのお骨入れでは、参列者銘々が、少しずつ骨を壺に入れていき、「皆さんの代表で、さいごにどうぞ」と、お坊さんに促され、お骨入れの締めを娘が担い、残りのお骨をぜんぶ壺の中へ入れた。

息子と比べ、義父と接する時間が少なかった娘が、何かしらの形で、義父に携わっている様子を見ていると、感無量だった。

たまたま見つけた息子のインスタには、趣味の車が並ぶ数ある写真の中で、葬式で使われたメモリアル写真のなかの1枚が貼られていた。

息子と娘が保育園に通っていたころの写真で、義父母とどんぐりを拾いに山の中へ遊びに行った時の写真だ。

息子がどんぐりをカメラに向けて差し出していて、4人そろって写っているその写真は、当時息子を撮るために持ち歩いていたカメラで、道行く人に撮ってもらったようだ。

メモリアル写真を、義父の写真アルバムの中から選び抜く作業の時に、私が見つけた写真だった。

どうしても子供たちと写っている写真を、1枚ピックアップしたいと思ったけれど、4人が写った写真は幼い頃のものしかなかった。


じっちゃん、バイバイ。また会おうな。


写真に添えられていた息子のコメントを読んで、胸にくるものがあった。

義父母に子供たちが懐いたら、子育て成功かなっと思っていたけれど、どうだろう。

子供たちの思いは、計り知れない。

もうすこし、私が義父母に上手に接することができたら良かったのかもしれないけど、祖父母と同居することで、何か糧になるものが残っていたら、それほど嬉しい事はない。

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