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【「はじめに」公開】吉井理人著『最高のコーチは、教えない。』

本書は、千葉ロッテマリーンズ投手コーチ吉井理人が、"プロ"を育てるコーチング理論と実践方法をまとめた一冊。
大谷翔平、ダルビッシュ有、佐々木朗希のコーチが教える才能を120%引き出し、圧倒的結果を出す方法とは?

このnoteでは本書の冒頭「はじめに」を公開します。

はじめに

 自分のやりたいことは自分で決める。
 他人から何かを押しつけられたくない。
 自分の成績さえよければいい。
 チームより自分。

 本書を手にとったあなたは、部下や若手の育成、チームの指導方法に悩んでいるのではないかと思う。
 どうすれば相手のモチベーションを高め、能力を引き出し、高い成果を挙げることができるのか。メンバーを成長させることができるのか。
 
そして、自分の「教え方」は正しいのか。悩みは尽きないはずだ。
 この本では、個人の能力を最大限に引き出し、高い成果を挙げる方法を紹介する。
 その方法は、「教える」のではなく、自分の頭で考えさせるように質問し、コミュニケーションをとる「コーチング」という技術だ。

プロの世界でコーチになるということ

 僕は千葉ロッテマリーンズで、投手コーチをしている。
 プロ野球選手は、わがままだ。現役時代の僕もそうだった。プロ野球選手だけでなく、プロスポーツ選手はそんなものだ。それぐらいの気概がないと、プロフェッショナルという厳しい世界を生き抜いていけない。
 このわがままな気質は、いわゆる「一流」と呼ばれるレベルに到達し、人間的に成熟したころに少しずつ消えていく。しかし、一流を目指してがむしゃらに成長しようとしている時点で、わがままな部分がない選手は珍しい。
 だから、プロ野球選手はコーチに頭ごなしに教えられたり、結果だけを見て指導されるのを極度に嫌う。選手にとって嫌なコーチは、事前に何も指導していないのに、マイナスの結果だけを見てあれこれ言ってくるタイプだ。自分の経験談ばかりを延々と話すコーチも煙たがられる。失敗談はまだしも、成功した自慢話を聞かされるのはつらい。
 僕もそういうタイプのコーチが大嫌いだった。コーチは、レベルの低い人間がやるものだと思っていた。引退しても、コーチだけには絶対なりたくないと思っていた。

 二〇〇七年、僕は四十二歳で現役を引退した。
 そのころ僕の代理人をしてくれていた団野村さんのもとに、北海道日本ハムファイターズから投手コーチ就任の依頼が舞い込んだ。僕としては、まだ選手としてプレーできると思っていた。現役続行と引退。かなり迷った。だが、団野村さんに強く諭された。
「現役にこだわりすぎて、仕事がなくなる人を嫌というほど見てきた。仕事があるうちにゲットしておくべきだ。ヨシ、今が『辞めどき』なんじゃないか」
 僕は、投手コーチを引き受けることにした。
 絶対になりたくないと思っていたコーチになった。やり方はわからない。選手にしてあげられることを考えたが、現役時代に自分が嫌だった「教える」方法しか思いつかない。そんなことしかできないようなら、自分が嫌がっていた典型的なコーチと変わらないではないか。僕は、コーチになることが恥ずかしくなった。

いきなり教える側に立つことはできない

 このままでは、選手に通用しない。
 コーチを引き受けてから、改めてどのような指導をするべきか考えた。自分の現役時代を振り返り、指導を受けたコーチがどのようなことを言っていたか思い出した。
 案の定、嫌なことしか思い浮かばなかった。ノートを広げて「良かったこと」「悪かったこと」を書き出そうとしたが、悪かったことはいくらでも書けるのに、良いことは何一つ思い浮かばない。

 それも当然だ。高校を卒業してプロ野球選手になってから引退するまで「どうすれば自分のピッチングが良くなるか」しか考えてこなかった。
 自分のことしか考えてこなかった人間が、何の準備もなく教える側に立っても、自分の経験を伝えることしかできない。選手にとってそれが嫌なことだとわかっていても、それ以外に思いつく指導方法がなかった。

 それに、僕は自分がプロ野球選手として優れていたとは思っていない。
 たしかに、僕のやり方は僕には合っていたかもしれない。でも、最高の選手としての評価を得られたわけではない。せいぜい「一流半から二流のちょっと上」程度のレベルにしか到達できなかった。そんな元選手のやり方が、現役の選手にとってベストのやり方とは到底思えない。自信を持って自分のやり方を教えられそうもない。考えれば考えるほど、自分がコーチに向いているとはとても思えなかった。
 そんな状況でも、選手が嫌がる指導は絶対にしたくない。
 僕の選択肢はたった一つしかなくなった。選手を見ること。それだけを徹底することに決めた。偉そうに言ったが、コーチとして何をしていいかわからず、選手を見ているしかできなかったのが実情だ。かろうじて、選手からの質問に自分の経験を踏まえて答えることしかできなかった。
 胸を張って「私はコーチです」とは、とても言えなかった。しかも、結果的に自分の経験を選手に押しつけるという、選手が嫌がる指導をしてしまった。

コーチングは、相手との対話から始まる

 そんなとき、僕はある出来事を思い出していた。
 ニューヨーク・メッツに入団し、はじめての春のキャンプに参加したときのことだ。何度かピッチングをしたが、コーチは何も言ってくれなかった。
「何にも言ってくれへんのやなあ」
 そう思っているところに、ボブ・アポダカコーチがひょこひょこと近づいてきた。ようやくアドバイスをもらえる。そう期待したが、意外な言葉が出てきた。
「おまえ以上におまえのことを知っているのは、このチームにはいない。だから、おまえのピッチングについて、俺に教えてくれ。そのうえで、どうしていくのがベストの選択かは、話し合いながら決めていこう」
 驚いた。コーチからそんなことを言われたことがなかったからだ。
 日本では、コーチが自分の尺度で選手を見て、自分の尺度に合わなければ自分がやってきたように修正するのが一般的だ。アポダカコーチは、僕がどんなピッチングをする投手で、どんなピッチングをやりたいかをはじめに聞いてくれ、その方向性に沿ったアドバイスをしようと考えてくれた。アポダカコーチの言葉を聞いて、僕はこの国でやっていけるかもしれないと思った。
 当時、僕は日記をつけていた。その日記の最後に、もし自分がコーチになったときのために、この経験は忘れないでおこうと書いてあった。それぐらい印象的で、僕のターニングポイントとなる大事な言葉になった。
 実はアポダカコーチは、メジャーリーグではあまり評判のいいコーチではない。メジャーリーグのコーチとしては、いろいろと教えすぎてしまうからだ。それでも、僕のイメージでは最高のコーチだ。日本のプロ野球を経験した僕にとっては、選手に任せてくれるコーチに思えた。
 それほど、日本のプロ野球のコーチは選手の意思を尊重しないコーチングなのだ。

結果が出ても、間違った教え方では意味がない

 プロ野球界におけるコーチと選手の関係は、これまで「師弟関係」が主流だった。師匠が弟子に技術や心構えを伝承するとき、師匠は絶対的な存在だった。だから「俺のようになれ」と教えるのは、ある意味で必然だった。しかし、そうした指導はコーチのミニチュアを再生産するにすぎない。選手が持っていたせっかくの個性が消され、本来持っていたはずの本当の力は出てこない。

 そうなるのが嫌だったはずなのに、僕は同じことをしている自分に気づいていた。
 ただ、自分の経験を「積極的に」教えていたわけではない。聞かれたから答えただけだ。ほかのコーチとは違う。選手にとっては、嫌な体験になっていないはずだ。心の中でそんな言い訳をしながら、コーチとしての力量不足をごまかしていた。二年間一軍のコーチとして仕事をしたが「これでええんかな?」という迷いは消えなかった。
 だが、結果が出てしまった。それまで勝てなかった若手選手が勝てるようになった。くすぶっていたベテラン投手が息を吹き返した。調子の波が大きく不安定だった投手が、コンスタントなピッチングができるようになった。チームとしても、コーチ初年度の二〇〇八年は三位を確保し、二〇〇九年はリーグ優勝を果たした。
 結果は出たが、僕の力ではない。コーチとしての僕の教え方は間違っている。でも、どのような指導をすればいいかわからない。僕は限界を感じ、コーチとしての勉強に本気で取り組まなければ、コーチとして破綻すると思った。

 二年間一軍のピッチングコーチをした経験から、僕はむしろ二軍のピッチングコーチとして若手の指導をしたほうがいいのではないかと考えた。すぐに結果を求められる一軍での指導では難しくても、長期的視野で育成をする若手の指導に携われば、コーチとして学びながら指導できると考えたからだ。
 そんなとき、タイミングよく球団から二軍コーチの要請があった。二軍のピッチングコーチとして二年契約を締結し、若い選手を相手に指導を始めることになった。しかし、その矢先だった。
 二〇〇九年にファイターズの二軍のピッチングコーチを務めていた小林繁さんが、僕に代わって一軍のピッチングコーチに昇格した。しかし、二〇一〇年の春季キャンプに入る直前の一月一七日、心筋梗塞で急逝された。僕は、一年間二軍コーチを務めた後、一軍に呼び戻された。

 僕が二軍を希望したのは、若くまだ芽が出ていない選手に対して、いろいろと試したい指導方法があったからだ。それは「選手の主体性を出させるコーチング」である。
 それまでのプロ野球界では、試合後のミーティングにコーチが手帳を持って選手たちの前に立ち「あの場面の投球はあかんかった。次はこうしろ」と一方的に教えるのが常識とされていた。選手は深く理解しようともせず「わかりました」と言って終わる。これでは、選手たちがもっとも嫌がる「結果で物を言う」指導ではないか。
 だから僕は、その日の試合で登板しない投手を新聞記者役に設定し、試合内容を事細かく見るように指示した。試合後、その新聞記者役の選手に、試合で登板した投手に質問させ、答えさせるというミーティングに変えた。
 これが「振り返り」というコーチングだ。コーチが教えるのではなく、選手たちだけで試合を振り返り、気づきを得る手法である。
 この手法は、試合に登板した投手が客観的に自分を振り返る訓練になる。新聞記者役を担う投手にとっても、試合のポイントを見抜く力を養う訓練になる。試合で投げた投手も、試合を見た投手も、自分事として試合の流れを感じたほうが成長すると思ったのだ。だが、それを十分試す前に、また一軍に上げられてしまった。

コーチングは、理論として学ばなければならない

 このままでは奔流に流され、コーチとして何もできなくなる。
 その思いから、コーチングの理論を体系的に学ぶ必要性を感じた。
 そのため、筑波大学大学院人間総合科学研究科体育学専攻課程で、スポーツコーチングを一から勉強し直した。僕が実践しているコーチングは、大学院で学んだ理論がベースになっている。
 その意味では、大学院で得た学びが僕のコーチング哲学をつくったといえる。

コーチの仕事は「教える」ことではなく、「考えさせる」こと

 コーチになって感じたのは、選手の思いを引き出す難しさだ。現役の選手にそれを経験させれば、自分がどういうプレーをしたいのか、考え直すきっかけになる。しばらく続けると、選手たちの質問はまたたくまに上達した。あまりにも鋭く突っ込むので、喧嘩になりそうな場面もあった。しかし、僕はあえて止めなかった。

 先輩は、後輩に痛いところを指摘されると嫌な気分になる。そこで先輩に配慮させようとすると、成長のチャンスはついえる。腹が立っても、あえて冷静に振り返って答えてほしかった。その冷静で的確な分析と反省が、次の投球につながるからだ。
 鋭い質問をするようになった投手、自らの投球を的確に分析し反省ができるようになった投手は、練習に取り組む姿勢が変わった。それが成果につながった。

 コーチの仕事は、選手が自分で考え、課題を設定し、自分自身で能力を高められるように導くことだ。
 
本書のタイトル『最高のコーチは、教えない。』には、「指導者=教える人」という常識を覆さないと、メンバーの能力を最大限に発揮させることはできない、という思いが込められている。

 本書では、「教える」のではなく、「考えさせる」僕のコーチング理論と、実践方法を紹介する。
 僕が取り組んできたのはプロ野球選手のコーチングだが、これはどのような世界でも通用する手法だと考えている。
 部下の指導方法に悩む上司の方や、チームの育成を任されたリーダーのお役に立てば幸いだ。
 ぜひお読みいただき、ご自分の世界に変換し、試してみてほしい。

目次

第1章 なぜ、コーチが「教えて」はいけないのか
 相手と自分の経験・常識・感覚がまったく違う
「上から力ずく」のコミュニケーションがモチベーションを奪う
「余計なひと言」が集中力を奪う …etc.
第2章 コーチングの基本理論
主体は選手。個が伸びれば組織は強くなる
専門的な技術・知識を教える「指導行動」
心理的・社会的な成長を促す「育成行動」
成長を促す「課題の見つけ方」を指導する
「振り返り」で課題設定の正しさを常に検証する…etc.
第3章 コーチングを実践する
コーチング三つの基礎「観察」「質問」「代行」
「観察」は相手の特徴を徹底的にリサーチしたうえで行う
「質問」は余計なことを話さないように注意する
「代行」によって、相手の立場に憑依する
一対一で振り返りミーティングを行う…etc
第4章 最高の結果を出すコーチの9つのルール
ルール1 最高の能力を発揮できるコンディションをつくる
ルール2 感情をコントロールし、態度に表さない
ルール3 周りが見ていることを自覚させる…etc.

著者について

吉井理人(よしいまさと)
千葉ロッテマリーンズ 投手コーチ。元・北海道日本ハムファイターズ投手コーチ筑波大学大学院人間総合科学研究科体育学博士前期課程修了1965年生まれ。和歌山県立箕島高等学校卒業。84年、近鉄バファローズに入団し、翌85年に一軍投手デビュー。88年には最優秀救援投手のタイトルを獲得。95年、ヤクルトスワローズに移籍、先発陣の一角として活躍し、チームの日本一に貢献。97年オフにFA権を行使して、メジャーリーグのニューヨーク・メッツに移籍。98年、日本人メジャーリーガーとして史上2人目の完投勝利を達成。99年には、日本人初のポストシーズン開幕投手を担った。2000年はコロラド・ロッキーズ、01年からはモントリオール・エクスポズに在籍。03年、オリックス・ブルーウェーブに移籍し、日本球界に復帰。07年、現役引退。08年~12年、北海道日本ハムファイターズの投手コーチに就き、09年と12年にリーグ優勝を果たす。15年、福岡ソフトバンクホークスの投手コーチに就任して日本一に、16年は北海道日本ハムファイターズの投手コーチとして日本一に輝く。19年より千葉ロッテマリーンズ投手コーチを務める。また、14年4月に筑波大学大学院人間総合科学研究科体育学専攻に入学。16年3月、博士前期課程を修了し、修士(体育学)の学位を取得。現在も研究活動を続けている。

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日本を代表する投手コーチはどのように投手をコーチしているのでしょうか。
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(営業部・伊東)















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