コーヒーミルとナルシズム

一人暮らしのOLが猫を飼い始めてチャクラと悟りに目覚めるように俺もついにコーヒーを豆で買い、挽き始めた。
これは俺がコーヒーの味、風味を追い求める求道者たる人物なら赦されるが俺が魅了されたものは「コーヒーをわざわざ豆を挽いて飲む俺」の姿であることは認めざるを得ない。
もはや現代のことわざとも言うべき「スタバでmacbook」状態に近い。
これは自分の所有物とシチュエーションによって溢れ出す自意識を無意識を装い他者に見せつけてそのフィードバックの繰り返しがオーガズムを生むことなり、と定義されているので他者に見られない自室で勝手にオーガズムを迎えようとしている俺のほうがタチが悪いのかもしれない。

はっきり言う。
俺はコーヒーの風味にこだわりなんて一つもない。
コーヒーと定義されている飲み物なら何でもなめるヤリ舌なのでより高みを目指すためにコーヒーを豆から挽き始めたわけではない。
俺にとってコーヒーとは自分の精神を高めるという意味合いがある。
つまり「激シブ/いかちぃ/クソかっけぇ」飲み物、それがコーヒー。
実際に中学生で友達と映画館へ行った際、「ココだ!」と言わんばかりにアイスコーヒーのオーダーをカマした。
周りのみんなは「コーラ!」「ファンタ!」とはしゃぐ中、「んー……アイスコーヒーで」とブチかました。
このときの俺の中におけるバイブスはマジ大学三年生ブチ抜きで恐らく震えてたと思う。
さらに「ガムシロップとミルクはお付けしますか?」の問いに「あ、無しで」とトドメの一撃をブチ込む。
ヤバ……!シッブ……!中学生でブラックコーヒーを私は……!
その己の立つ山の高みに全神経細胞が痺れるほどの自己陶酔を感じながら受け取ったアイスコーヒー。
映画上映中は心の底から「甘い炭酸飲みたいなぁ」と涙が出そうになった。
しかも映画館サイズのラージ。
飲んでも飲んでも苦い黒い汁は減らずに煉獄とはこのようなものかと大きな後悔と共に学んだ。

人間はこれまであらゆる物事において欲望を形にする過程を省略しようと努力してきた。
カレーを食べたい!と思ったら本来はスパイスを探しに海を渡り、土を耕し野菜を育て、鳥や豚など家畜を飼い火を起こしてやっとスタートラインなのだ。
そこから時代は進化して分業化、技術発展により効率化や最適化がなされてスーパーマーケットにスパイスや野菜や肉が並び、もはや調理の過程を飛び越えてお金さえ払えば待ってるだけでカレーを食べることができるお店がある。
つまり結果にたどり着くための面倒臭さを排除するための人類の歴史がある。
それをわざわざ俺は大してこだわりもないくせに豆を粉にする過程を増やしてまでコーヒーを飲もうと言うのだ。
これは人間の不思議かつ素敵な面だと思うが、努力によってしなくてもよくなった過程を「贅沢」と感じる仕組みがどうやらあるようだ。
わざわざ手間のかかること、面倒なことをすることに価値を感じ始めたことで人類がつくりだす世界はより複雑な色合いを持って描き出されているのかもしれない。
それもまたこれまでの文明が生み出した人生における余白が大きくなったからかもしれないが。

コーヒーミルが届いたその日、近くのスーパーで豆を買った。粉で買うより倍くらい値が張る。高っ、いや贅沢なのだ、ラグジュアリーな自分への投資なのだ。
もう豆を挽く自分の姿を想像しただけでヨダレが出そうだ。
カランカラッカラ、っと小気味よい音を響かせながらミルの中に豆が落ちていく。
ゆっくりとミルを回す。
何か思ったより力いるやん、と思いながらガリガリ回す。
片方の手でしっかりミルを抑えてないと全部吹っ飛んでいきそうだ、あぁヤバい、これは「作業」に分類されるくらい疲れる。

日頃の不摂生がたたり両上腕二頭筋に乳酸を感じながらも豆が挽けた!成し遂げた!
少量の熱湯で少し蒸らす。
立ち上る香りが描き出すアラビア半島のオリエンタルな情景。
この瞬間のために僕たちは国に税金を収め、神に日々の平和を祈っているのかもしれない。
ゆっくりと熱湯をドリッパーに注ぐ。
豆から中挽きに挽かれたコーヒーと淡い一瞬のランデブーを楽しんだ後にしたたり落ちる一滴一滴。
敢えてミルクをほんの少し。
このコントラストがよりコーヒーの風味を引き立たせてくれることは間違いない。
なんつったって豆から挽いてんだからこっちは。
マグに注がれた一杯のコーヒー。
飲む前に顔を扇風機のように横に動かして香りを楽しむ。よくわかんねえ。
口にコーヒーを運ぶ。
舌と鼻孔に広がるそのコーヒーの風味は粉買ってきて作ったヤツとそんな違いを感じなかったわマジで。
俺のベロがバグってることにして肩の疲労と共にコーヒーミルに背を向けて眠ることにする。

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