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アイスランドから見る風景: vol.17 全滅領域ーSF論②

ロシアのウクライナ侵攻から、すでに6週間が過ぎようとしている。欧州はロシアに経済制裁、ウクライナには資金・人道的援助を引き続き行ってはいるものの、依然として状況は膠着したままで、停戦どころか、一時的な休戦の予兆もない。国内で使用される天然ガスの40%をロシアからの輸入で賄っていたドイツは、その依存脱却のために、国民に光熱費の節約を求め、同時に国内エネルギー資源が逼迫した際の緊急対応プランと今後のエネルギー移行プランを公表した。

幸いアイスランドは国内エネルギーの大半を地熱と水力発電で調達しているために、ドイツのような差し迫った状況にはおかれていない。それでもしかし、ガソリンの値上がりには国民も悲鳴を上げている。ここ1年で、何とガソリンの値段はおよそ70%ほど上昇した。欧州内では、異常なガソリンの値上がりに国民の負担を減らそうと、ガソリン価格を是正したり、または援助金や税控除額の引き上げなどが打ち出されているが、アイスランド政府は無策のままだ。コロナ対策での財政支出と国の大きな税収源である観光業の不振で、国庫が空っぽなためだろうか、通常のフットワークの軽さがまったく見られない。選挙後のアイスランド政府の政策は、残念ながら”傍観”の一言に尽きる。

アイスランドは地質学的にはとても若い島で、化石燃料が存在しないため、そのすべてを輸入に頼っている。ガソリンには関税に加え、1リットル当たり62円ほどの石油税が加算される。しかもその上に、消費者には24%の付加価値税がかかってくるのだ。石油税は一律であるものの、24%の付加価値税をどうにかできそうな気もするが、2010年5月以来の高インフレ率(6.7%)に、税率引き下げを行うのが難しいと思われる。

国内では、電気自動車への買い替えはそれなりに進んではいたのだが、今後はさらに移行が加速するだろう。ただ、今現在でも電気自動車の入荷にはかなり時間がかかる。しかも、自動車の部品が手に入らず、生産そのものに支障がでると言われている今日、入荷までの時間はさらに延びるかもしれない。世界的に需要が増えても、供給そのものが減れば、電気自動車の価格の上昇は必須だ。幸いに電気自動車を即時に入手できたとしても、自宅で充電できるように、充電コンセントを設置する必要が生じる。この設置工事は、電気自動車の所有者が自己負担することになる。しかも、現在では工事待ちをする人の数が増えているようだ。

手に入れるまでに一苦労、手に入れた後も一苦労で、事前にかかる経費と手続きの煩雑さに買い替えに躊躇する人の気持ちもよく分かる。しかし、こんなことくらいで頭を抱えていられるのは、まだ恵まれている証拠。高いガソリン代を払い続けるか、車を買い替えるかという選択の余地があるということだ。

今回はアイスランドと欧州の現実からの逃避も兼ねて、SF小説について書いてみたい。作品はジェフ・ウィンダミアの『全滅領域』(2014/早川書房/訳・酒井昭伸)、原作名は"Annihilation"(アナイアレイション)、同名の映画も2018年に公開された。小説では、3部作の1作目にあたる。非常に感銘を受けた小説で、以前から感想を書きたいと思っていた。ただし、現在の世相を鑑みると、小説のタイトルが物騒すぎるかもしれない。実際、”Annihilation”とは1940年、50年代の核戦争への恐怖を彷彿とさせる言葉だ。

ストーリーは、生物学者と職名だけが明かされた主人公が、”エリアX”と呼ばれる地区に足を踏み入れ、地球外生命と遭遇することで、自己が変容して新しい生命体の一部になっていくというものだ。このように簡略すると、いかにも陳腐なSF小説に聞こえるが、登場する未知の生命体が人間が把握できるような形を持たないことによって、既存のSF小説とは趣を異にしている。主人公を通して調査隊一員となったわたしたち読者も、エリア内で起こる様々な事象に心をかき乱され、置かれている状況を理解できずに四苦八苦する。常軌を逸した出来事の連続に謎が謎を呼び、読者を引きつけて離さない吸引力のあるSF作品になっている。

この1作目では、主人公の生物学者、調査隊のメンバーの人類学者、測量技師、心理学者の4人の女性たちが、主な登場人物である。彼女たち以外に、言語学者もチームの一員だったが、彼女はエリアに足を踏み入れる前に調査隊から脱落している。生物学者以外の女性たちのバックグラウンドについては触れられていない。彼女たちがどうしてこの調査隊の志願をしたのか、入隊する前にどんな人生を送り、どんな人たちと関わり合い、どんな家族や友人に囲まれていたのか、読者は知る由もない。しかし、主人公に関してはまったく別だ。ストーリーが進むにつれて、わたしたちは彼女についてさまざまなことを知るようになる。

エリアXに足を踏み入れたすぐ後の、生物学者のエリア内の地形や生態系の描写は美しい。エリアの不可思議な現象を、彼女は何一つ見逃すことなく、記憶にとどめていく。『荒廃の中に美しさを見出すとき、見る者の心の中ではなにかが変わる。荒廃は身内に”棲みつこう”としだすのである。』という文章が示すように、エリア内の荒廃さえ、生物学者にとっては生命の持つ姿の一部と理解され、受容される。このエリアとの交流は、生物学者の名にふさわしい、豊かな精神活動の発動として大変興味深い。しかし観察を続けることで、生物学者は見知った自然の一部だと思っていた風景に、少しずつ違和感を覚えるようになる。

それと同時に、生物学者は調査隊の他のメンバーとの認識の違いを意識し始める。その中で特筆すべきは、『円形ブロックの上面には、真北側に四角い開口部があり、そこから螺旋階段が通じていて、暗闇の中へ降りていく構造になって』いる地形を見て、他の3人が”地下道”と呼んだのに対し、彼女は”塔”というイメージを抱いたことだ。『地上にではなく、地下に伸びる塔』、『オウムガイの殻の内部構造を見たときに似ている』感覚を呼び起こす”塔”のイメージは、その後も不可思議で不気味なものとして、生物学者の脳裏につきまとう。実際は、彼女はすでにこの時点で、エリア内の現象の本質を無意識にも理解していたことになる。

政府のエリアX監視機構から渡された地図には、この地形は記載されていなかった。それは、以前にこの地を訪れた11の調査隊が見逃したのか、もしくはその時点には存在していなかった可能性がある。もしくは、監視機構が意図的に記載をしなかったかもしれない。目的地である”灯台”に赴く前に、この”地下道/塔”を探索することが先決だと、第12次調査隊メンバーの4人の女性たちは決定を下す。そして、この地下に続く坑道へ足を踏み入れることによって、調査隊のメンバーの精神は崩壊、または変容していく。隊員それぞれが個別の形で、エリアXと対峙することを強いられるのだ。

個別、という言いまわしをしたのは、同じ現象に対して、隊員それぞれが異なった反応を示したためである。これは現実生活でもよくあることだが、一見同じ事象を体験しているように見えても、それが各個人にもたらす影響には驚くほどの違いがある。その差異は、体験直後には表面に現れずとも、時間が経つにつれて顕在化していくものだ。例えばPTSD(心的外傷後ストレス障害)のように、同じ体験に、発病する人もいれば、しない人もいる。

心理学者はメンバーのリーダーとして、調査隊の中で一人だけ、監視機構の意向を理解していた人間だった。よって、その知識に基づいて行動し、異質な生命体に接触しようとするが、彼女の計画は頓挫してしまう。気の毒な人類学者には選択の余地はなく、心理学者に操られて生命体と直接接触したために、命を落とす。測量技師は、2度生物学者と地下を探索するが、坑道の不可解な様子を見て感じるのは、生存への脅威だけだ。そのためその後の調査継続に反対し、他のメンバーへの疑心暗鬼を募らせてながら恐怖に憑りつかれ、最終的には自ら死を招くことになる。

唯一エリアXと共存できたのは、生物学者だけだった。彼女は合計3回地下に降りている。1回目では、未知の種の共生子実体から放出された胞子を期せずして吸い込んでしまう。その結果肉体的な変化が起こり、それが精神にも作用するようになる。2回目は、再度地下に測量技師と潜り、以前よりも坑道の様子を詳細に観察している途中で、奥に別の生命が存在することを感知する。その後測量技師とは行動を別にし、今度は方向を変えて”灯台”を訪れるが、そこで2回目の地下探索から行方不明になっていた心理学者と再会する。そして最後に、彼女は一人だけで”塔”に再度足を踏み入れる。小説のクライマックスに当たる部分だ。この3回目で、生物学者は未知の生命体と遭遇し、その存在を文字通り自分の肉体を通して受け入れることで、エリアXと同化していく。

生物学者が自己を崩壊させることなく、エリアXと共生できたのは、生態系が自然の中で自ずと発生することを知っていたからだ。昔住んでいた家の放置されて荒れ果てたプール、結婚生活をしていた当時によく独りで足を向けた近所の空き地のエピソードなどを通して、生物学者の知見を読者は知ることになる。自然の中での生態系の発生には、人間が介入する余地はない。なぜなら、人間も自然の生態系中の一部に過ぎないからだ。そして、その生態系はお互いに作用はしながらも、全体としての”意志”を持たない。そう理解することで、地球外に存在する生命が偶然にも地球に到着し、人間との接触を通して新たな生態系を作り上げたのは、生物学者には不思議ではなかったのだ。

そのように世界を理解して受容するのは、容易いことではない。そのために、作家は”生物学者”という職業の人間を選んだのであろう。心理学者や人類学者では、そのような考察は適さないと思われる。なぜなら研究の対象が、すでに人間という種に限定されてしまっているからだ。人間には”意志”や”目的”があるため(もしくはあるだろうという前提があるため)に、心理学者や人類学者は、地球外生命体にも同じような意図を探ったことだろう。この地球外生命体が、ただ地球に存在しようとしていると言っても、彼女たちは信じることができなかったに違いない。

ジェフ・ヴィンダミアの生み出した地球外生命体は、例えば”塔”と”灯台”の対比でも見られるように、鏡像を通して地球の生命を模倣をし、1つの次元に別の次元を創り出していくという、大変ユニークな存在だ。その新しい次元は”エリアX”として区別され、人間にとっては異質で恐怖の空間でしかない。2部、3部と物語が続く間、このエリアは周囲を内に取り込みながら、とどまることなく拡大していく。通常このエリアに侵入した人間たちは、エリアの中に組み込まれて別の生命に変換されるか、または戻ってきても以前とは全く別の人間になっている。しかし、この生物学者の再生は、人類にとって希望が持てる高次元の変容だったので、破壊の後の世界にこれまでとは違った新しい調和と秩序が生まれる可能性も、否定することはできないのだ。

映画では、2時間という時間制限と映像化の限界が足枷になって、この小説が内包する世界全体を描かれてきれてはいない。これは、小説を映像化するときに、必ずと言っていいほどよく起こる現象だ。小説が素晴らしければ素晴らしいほど映像化が難しくなるため、映画ではストーリーは単純化されて、無難な落ちにまとまる傾向が強いが、それはいた仕方がないことだろう。だからこそ、いつの時代にも原作そのものを読む楽しみがある。

この作品はSF小説ではあるが、同時に失った関係を追悼する愛の物語であることも追記しておきたい。自然界の生命にあれほど素晴らしい洞察力と理解を示した生物学者が、自分に一番身近な人間だった夫に対して、同じような関心を向けて接することができなかったのは、何とも皮肉なことである。自己の変容を通して、生物学者は自分のいた世界を再構築していく。内省と悔恨を、別の生命体になって初めて得ることができたとするなら、人間とはいったい何であろうか、と深く考えさせられてしまう。

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